第7話

 藤間くんは、わたしがあのときのことを覚えていないと思ったようだった。


 そう結論したのには少なからず彼自身の希望が含まれていて、わたしにはそこにどういう気持ちがはたらいているのかはわからない。しかし、そう思ったのもむりはなく、なぜなら実際に一昨日までわたしはそのことを忘れていたのだから。


 でも、ようやくそれを思い出した。


 彼との本当の出会い。


 決着を急がなくてはいけない。わたしが図らずも彼の裏をかくことができたのは、ひとえに本当に覚えていなかったというアドバンテージがあったからだ。しかし、それももうなくなった。鋭い藤間くんのことだから、時間を与えればわたしの微妙な変化に気づくかもしれない。




 ――そうして現在。




「じゃあ、?」




 彼を呼び出したカフェで、軽い前哨戦の後、わたしは切り出した。


「……まさか、覚えてるのか?」

「ええ」


 うめくように声を絞り出す藤間くんに、わたしは笑みを向ける。


「でも、白状するわ。正確には覚えているんじゃなくて、思い出したの」

「……」


 彼はわずかに苦虫を噛み潰したような顔をした。そんなに口惜しいのだろうか。わたしは不思議に思いながらも続ける。


「確か、一昨年のゴールデンウィーク明けよね?」

「だったかな? 覚えていない」


 彼は早口でそう言い、もう冷めているであろうコーヒーに口をつけた。


「そう。わたしは思い出せるわ」


 一度思い出してしまえば、そこまで正確に示すことができる。……そして、きっと藤間くんも覚えているはず。




                  §§§




 あれはわたしが明慧に入学してすぐのこと。


 その日はゴールデンウィーク明けで、学校の帰りに友達と寄り道をし、そこでうっかりはぐれてしまった。スマホで連絡をとり、学校帰りの学生で賑わう繁華街で合流するのは難しいということで、駅前で待ち合わせることになった。


 そうしてひとり駅へと向かっていて――わたしはその少年を見つけた。


 表通りから路地を少し入ったところ、そこに彼は隠れるようにして座り込んでいた。こんなところでどうしたのだろう。具合でも悪いのだろうかとよく見てみれば、その少年は傷だらけだった。中学校のものらしい詰襟の制服もひどい有様だ。ひと目見てそれは喧嘩や乱闘でついた傷だとわかった。関わり合いにならないほうがいいかとも思ったけれど、わたしはどうしても放っておく気にはなれなかった。


 喧騒から切り離されたように静かな路地で、わたしは彼に声をかける。


「あなた、大丈夫?」

「……ああ、おかまいなく。ちょっとドジっただけなんで」


 返ってきた苦笑交じりの発音には疲労の色はあったものの、どこにでもいる少年のそれだった。少なくとも喧嘩好きな子には見えなかった。望んでもいない不運に巻き込まれたのかもしれない。


「まったく、前に相手した連中が結託してくるとは。名づけて負け犬同盟ってところか」

「……」


 が、その印象はすぐに覆された。人は見かけによらないものだ。


「いちおう振り切ったはずだけど、あまりここに長居しないほうがいいと思いますよ。早く人の多いところに出たほうがいい」

「でも……」

「僕は大丈夫です。もう頼りになる知り合いにも連絡しましたしね。そろそろきてくれるんじゃないかな」


 疲れた体を休めるように項垂れながら、さぁ行った行ったと言わんばかりに掌を振る彼。


 わたしは少し考えてから、


「やっぱりそんなわけにはいかないわ。ちょっと待ってて」


 言って一度その場を離れ――そして、彼とはそれっきりになった。




                  §§§




 そのとき、せめて簡単な手当てだけでもと思い、近くのコンビニに使えそうなものを買いにいった。そう、一昨日のように。だけど、戻ってきたときにはもう彼はいなくなっていた。


 もちろん、言うまでもなく、その傷だらけの少年こそが藤間くんだった。


 一昨日の件はこのときの出来事と重なり、それがきっかけとなってわたしは忘れていた記憶を手繰り寄せることができた。ある意味、引き鉄を引いてしまったのは彼自身だと言える。


「よくそんなのを覚えていたものだ」


 複雑な面持ちの藤間くん。


 別に誰に勝ったというわけではないけれど、わたしは思わず勝ち誇ったような笑みを浮かべてしまう。それはとても小さな、出会いとも呼べないような出来事で、でも、まぎれもなくわたしと彼のはじまり。それを思い出せたことにわたしは満足していた。


 ただ、ひっかかることは、ある。


「だけど、藤間くん、あなたの表情はまるで思い出してほしくなかったみたい」

「ああ、できれば忘れていてほしかったさ」


 彼は不貞腐れたように言い、視線を逸らした。頬杖をつき、全面ガラスの窓から外を見る。この店は住宅地の一角にあって、今は表には人通りがまったくなかった。


 わたしは藤間くんの横顔を見ながら問いかける。


「ねぇ、どうして?」


 それがわからなかった。どうしてそんなにも忘れてほしいのか。


 忘れていてほしかった――。


 彼の口から改めてそう言われ、わたしは少なからずショックだった。まるで出会いそのものを否定されているように思えた。


 やがて藤間くんは、そのままの構造でぽつりとこぼす。




「……だって恰好悪いだろ」




「ぇ?」


 恰好が、悪い……?


「こっちは傷だらけでボロボロだったんだ。最悪のタイミングもいいところだ」


 さっきの言葉は聞き間違えではなかったようだ。藤間くんはあのときの様にならない自分の姿が不満で、早く忘れてほしかったのだ。見れば先ほどわたしが『不貞腐れたような』と形容した横顔は、もう喩えでも何でもなく本当に不貞腐れているようにしか見えなかった。まるで頬をふくらませて拗ねている子どもだ。


 そう言えば古河さんが、彼はわたしの前では恰好つけたいんだと言っていたのを思い出した。彼女の言う通りだ。わたしは頬が緩むのをおさえられなかった。


「そのわりには、入学早々あなたから声をかけてきたわね」

「……確かめたかったんだ。僕のことを覚えているか」

「矛盾してるわ。その行動自体が思い出すきっかけになるかもしれないのに」


 実際わたしは忘れていたし、仮に覚えていたとしてもあのときの少年が同じ学校に入学してきているとは露ほどにも考えなかっただろう。


「それについてはさっき認めたはずだ」


 藤間くんはそこで先ほど以上に言い淀む。首を傾げるわたしを横目でちらと見――そして、また戻してから続けた。


「僕は最初からあなたに興味があった」


 


「初めて会ったあのときから惹かれていたんだ」




                  §§§




 小一時間ほどでカフェを出ると、外は少しだけ暗くなりはじめていた。


 わたしたちは駅へと歩く。


 隣の藤間くんはまだご機嫌斜めの様子。こんな子どもっぽい彼は新鮮だった。


「ねぇ、今ならおしえてくれる? あなたが明慧に入るきっかけになった先輩って誰なの?」


 彼は前に言っていた。とある先輩を追ってこの明慧大附属に入ったのだと。しかも、それはわたしもよく知る人物であるとも。


「……答えたくない。前にもそう言っただろ」

「そう。残念」


 きっとこれに関しては機嫌がよくてもおしえてくれないのだろうと思う。それならわたしは想像するだけ。それも自分に都合のよい想像を。


「それで改めて藤間くんにお願いするのだけど、やっぱりわたしたち、つき合うべきだと思うの。どう?」

「僕は思わないね」


 きっぱりと即答。取りつく島もない様子に、わたしは肩をすくめた。相変わらず彼の考えは揺らがない。いや、さっきはあんなことを言っていたのだから、これはもう単なる天の邪鬼と言うべきか。


「わたしってそんなに彼女にするにはもの足りないかしら?」


 少しわざとらしくため息を吐いてみせる。


 と、


 そんなわたしを見たからか、それともずっと続いているぶっきらぼうを反省したのか。


「まぁ、」


 躊躇いがちな発音。




「今日は月がきれいだ……とは思う、な」




 そして、ぎくしゃくと言葉をつないだ。


 わたしは藤間くんを見る。でも、彼は真っ直ぐ前を向いたまま。しかも、こちらの視線に気がつくと、絶対に顔を合わせまいとさらに固く視線を前方に固定した。


「……」

「……」


 彼の言葉が意味するところは、考えなくてもわかった。


「嬉しい。ずいぶんと洒落た告白をしてくれるのね」


 瞬間、小さな舌打ちが聞こえた。もしかして漱石の有名な逸話を、わたしが知らないとでも思ったのだろうか。それは侮りすぎよ、藤間くん。わたしって意外とロマンチストなんだから。


「告白? まさか。月を見た僕の単なる感想さ」

「月なんてまだ出てないわよ」


 今度は「ぐ……」とうめき声。目だけで空を見上げるが、しかし、そこに彼の望むものはなかったようだ。


「……きっと悪魔には見えない月なんだろう」


 天の邪鬼ここに極まれり、だった。


 わたしはまたもため息をひとつ吐いてから、仕切り直すように切り出す。


「わたしね、昔から何でもできたの」

「それは自慢か?」


 藤間くんは小さく苦笑。


「どうかしら。能力が高かったのは確かだけど、周りの期待に応えようと努力したのも事実よ。そんなだから何でもできてしまって、難しい問題があるとわくわくしたわ」


 ねぇ――と、言葉を継ぐ。


「初めて学食で一緒にお昼を食べたとき、わたしがなんて言ったか覚えてる?」

「……話が飛んでないか」


 呆れる彼にはかまわず続ける。


「あなたの首を縦に振らせる楽しみができたって言ったのよ。どうやらそれはまだ続いてるみたい。わくわくしてるわ。どうやったらあなたはわたしの気持ちに応えてくれるのかしらって」

「さぁね。……ま、せいぜいがんばってくれ。そんなに簡単な問題じゃないとだけ言っておく」

「望むところだわ」


 尤も、自惚れるようだけど、答えはもう見えていた。でも、優れた数学者がより美しい数式を求めるように、わたしもそこに至る過程を大事にしたい。高校レベルの数学なら、数さえこなしていれば問題を見ただけでだいたいの答えは予想できる。かと言って、過程を疎かにはできない。


 そう、過程はとても大事。


 いつか藤間くんが素直になって首を縦に振るまで、わたしは彼とのこの鬼ごっこのような駆け引きを思う存分楽しみたいと思う。

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