第6話<下>

 古河さんに聞いておきたいことがあったので、放課後、ロッカーで彼女をつかまえる。


 彼女は早々に帰るつもりだったらしく、わたしが声をかけたときにはすでに荷物をまとめていた。


「あン? 真の好きなもの?」

「ええ。明日、藤間くんにお弁当を作ろうと思うの。それであの子、何が好きかと思って」


 ついでに古河さんの様子を窺う。


 彼女が藤間くんをどのように見ているのか知りたかったのだけど、わたしがこういうことを言い出しても特に何の反応も示さなかった。どうやら本当に異性としてではなく、彼女の言うところの舎弟としか見ていないのかもしれない。そういう関係もそれはそれで羨ましく思うけど。


「ンなもん本人から直接聞きゃあいいんじゃねーの? さっき会ったら図書室に行くって言ってたぞ」

「また? 好きね、あの子」


 わたしは彼ほど図書室に足を運ぶ子を知らない。話していて図書室――図書館という施設に対する並々ならない思いを感じたこともあった。




                  §§§




「『地域社会の百科事典』に『民衆の大学』に……、『安上がりの警察』?」


 あれは少し前、図書室に行くという藤間くんについていったときのこと。


「前ふたつはわかるわ。図書館のことよね? でも、『安上がりの警察』って?」

「それも図書館のことさ。まぁ、そうとも言えるってだけの話だが」


 隣を歩く藤間くんは、知識をひけらかすわけでもなく当たり前のように言う。


 図書室がある学務棟にはほかにもいくつの特別教室があり、放課後である今はそこを活動場所としている文化部員の姿で思った以上に賑やかだった。


「昔から図書館は市民の不満を解消する場として機能してきたんだ。まだ黒人への差別意識が強かったころのアメリカで、図書館がスラムへアウトリーチサービスを行ったところ、犯罪や暴動がかなり減ったという」


 そして、高等教育を受けられなかった黒人たちは、そこで知識と教養を身につけたのだと藤間くんは言う。


「だから『安上がりの警察』?」

「そう。どこの自治体でもどんな施設がほしいかアンケートをとれば、たいてい図書館とスポーツジムが一位を争うことになる。とは言え、スポーツジムは体を鍛えたい人間も健康のために泳ぎたい人間も、レクリエーションとしてスカッシュやスリー・オン・スリーを楽しみたい人間もひっくるめてだから、実質図書館が一番人気だろうな。だから図書館を作ったり拡充したりして、不満解消の場を与えれば治安はよくなる」

「警察が威圧的に目を光らせるよりは、よっぽど効果的で平和的かもしれないわね」


「でも、僕に言わせれば、それは不満の解消というよりは欲求の充足だ。『図書館の自由に関する宣言』で図書館は、"基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供すること"が任務だと述べているが、『知る自由』なんてついさっき作られたような言葉を使う必要はない。人間には根源的に知識欲があるんだから」

「あなたが言うと説得力があるわね」


 思わず小さく笑ってしまう。


 藤間くんはちょっと読書好きなだけの普通の高校生を装っているが、一見してわからないくらい勤勉なことをわたしは知っている。その範囲は学業だけにとどまらず、とても広い。まさに知識欲だ。


「なんなら好奇心と言い換えてもいい」


 そこで一拍おいてから、彼は続ける。


「ここで問題だ。世界で最初の図書館はいつごろできたと思う?」

「世界で最初? 確か中世にはすでに修道院図書館があったのよね?」

「確かに。きっと山上にはベネディクト派の僧院が確実にあっただろうな」


 今度は藤間くんが笑みを見せる。わたしが何を思い浮かべたかすぐにわかったらしい。こういうちょっとした思考の共有は思ったよりも嬉しい。


「最も古いとされているのは紀元前7世紀、アッシリア帝国の首都ニネヴェにあったアシュルバニパル王の図書館だ」

「紀元前……」


 14世紀どころの話ではない。


「アシュルバニパル王の図書館には粘土板のかたちで約五千点の蔵書があったと考えられている。あの有名なギルガメッシュ叙事詩もこの遺跡から見つかったものだ。すでに独自の分類法もあったと言われている。とは言え、これを図書館と呼ぶには少々むりがあって、ここは実際には王宮の一室に設けられた文書庫だ。正しい意味で図書館を語るなら紀元前三百年ごろのエジプトにあった、アレクサンドリア大図書館だろう」

「そのころだとプトレマイオス朝かしら?」


「そう。まさしくそのプトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によって建造された図書館だ。巻子本七十万巻を所蔵していて、古代エジプト王朝最後の女王クレオパトラ七世もここで学んだという。――と、まぁ、それだけ図書館の歴史は古く、人間の知識欲も根源的だということさ」


 アレクサンドリアを当代最大の学問中心地たらしめたのが、このアレクサンドリア大図書館とムセイオンであり、そのムセイオンは今でいうミュージアム(博物館)の語源となったのだという。


「ただ、そんなに歴史が古いにも拘らず、近代日本の図書館は遅れてると言わざるを得ない」


 そう言った藤間くんの口調は少し苛立たしげだった。


 しかも、このときすでに目的地に辿り着いていたのだけど、彼はまだ語り足りないらしく、私語厳禁の図書室には入らず廊下で足を止めてしまった。わたしもそんな彼の様子と話す内容に興味があり、喜んでつき合うことにした。


「アメリカで世界最初の公共図書館、ボストン公共図書館が開館したのが1854年。対して日本で湯島に書籍館しょじゃくかんができたのが1872年だ。しかも、無料の原則を記した図書館法がまだ成立していなかったから、当時はまだ有料公開だった」

「図書館が有料? そんな時代があったの?」


 無料が当たり前と思っていたわたしには、そんな歴史があったとは露ほども知らなかった。


「次第に無料公開になっていくのはもっと後。資料の貸出サービスがはじまるのはさらに後だ。兵庫県の県立図書館が来館者に対して直接貸出をするようになったのはいつだと思う? 2001年だ」

「……21世紀になってから?」


 有料にも驚いたけど、本の貸出をしない図書館もなかなか衝撃的だ。


「きっと日本の図書館は欧米と比べて百年は遅れてるな」


 と、鼻で笑う藤間くん。でも、そこで知らず知らず熱が入っていたことに気づいたのか、ばつが悪そうにぱったりと話すのをやめてしまった。


「あら、図書館の歴史についての講義はもう終わり? 次回はいつ、何について?」

「グーテンベルクの活版印刷を語らずに図書館の歴史とは片腹痛いね。……次回の講義は未定。内容は日本と欧米の図書館のちがいについてだろうね。暇なら予習でもしておくといい」


 さっきまでとは一転、軽い口調で返してくる。


「実際、そういう研究に図書館はもってこいだ。便利だよ。教養を身につけられるし、暇つぶしの読書もできる。ついでに言うと、意外と待ち合わせにも適していたりもする」

「じゃあ、いつかデートするときは、待ち合わせは図書館ね」

「ああ、それは名案だ。ぜひそうするといい。誰とするのかは知らないが」


 彼は器用にもにこやかに、且つ、素っ気なくそう言い、踵を返して図書室の出入り口へ向かった。


「……」


 えいっ


 藤間くんの靴のかかとを踏みつける。彼はつんのめりながらも上手くバランスをとって、辛うじて転びはしなかった。


「何をする」

「あのね藤間くん、まだ図書室の外だけど、入り口で騒ぐと迷惑よ?」


 これはまだデートの前の出来事。このときわたしは、やはり彼をデートに誘うべきだと思った。




                  §§§




「何が好きか、あの子に聞くのがいちばん早いのでしょうけど、今はちょっと、ね」


 なにせ午後の休み時間に会ったときにインパクトの強いメールを送ったばかりだ。

「なんだ、そりゃ?」

「それにいきなり持っていって驚かせたいじゃない?」


 あんなメールを送っておいて、明日普通に会いにいったらどんな顔をするだろうか。ちょっと意地悪だけど、見てみたい気もする。


「ていうか、たまに一緒に喰ってるんだから、あいつがどんなやつかわかるだろ」

「そうね。だいたい日替わりランチだから、基本的に好き嫌いはないということかしらね」

「だろ? カツ丼とかラーメンとか、そのときの気分でテキトーに決めてんだから、何でもいいんだよ」


「……」

「……」


 結論は同じだけど、判断材料に大きなちがいがあった。わたしたちは黙って顔を見合う。


「……わたしの前じゃそんなの食べたことないわよ?」

「……マジか?」


 何だろう、このちがいは。


 わたしが首を傾げる一方で、古河さんはすぐに理解したらしい。


「あいつ、槙坂の前だからってカッコつけてんだろうな。ラーメンとか丼モンとか、そーゆー庶民全開なのはやめてさ」

「そ、そうなのかしら……?」


 意識してもらえるのは喜ぶべきなのだろうけど、わたしとしては気がおけない相手として見てほしいところだ。だいたい、もうパジャマ姿も寝顔も見ているのだから。今度日曜日にでもいきなり押しかけて、カツ丼でも作ってあげようかしら。


「とりあえずサンドイッチとかでいいんじゃないの? 仲よく一緒に喰うにはちょうどいいだろ」

「いいわね。そのアイデアいただくわ」

「好きにしな。……んじゃな」


 古河さんはロッカーに鍵がかかっていることを確かめてから、わたしの横をすり抜けた。


「あ、そうそう」


 わたしはあえて一拍おいてから、その背中に声をかける。


「わたし、初めて藤間くんと会ったときのことを思い出したの。わたしがまだ一年で、あの子は中学生」


 古河さんは足を止めていた。




、古河さん」




「さーて、どうだったかな。悪いね、覚えてねーわ」


 しかし、そう短く言って、すぐにまた歩を進めた。背中を向けたまま手をひらひら振って去っていく。


 まったく焦った様子はなし。

 それは誤魔化すのが上手というよりは、彼女にとってこんなものは瑣末なことなのだろう。多少揺さぶったところで、その身を揺れるに任せるだけ。


「まぁ、いいわ」


 わたしが撃ち抜くべき標的は藤間くんだもの。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る