第7話<下>
僕たちはロビーを出ると、まずは自販機で缶コーヒーを購入した。
先に槙坂先輩が買い、さっさと空いているテーブルへと向かってしまう。僕はその姿におやと思いつつも続けて自分のコーヒーを買い、彼女を追った。向かい合って座る。
私服の大学生ばかりの中にあって制服姿の僕たちは少々浮いていた。果たして大学の学生、附属の生徒で、どれだけの人間が附属生も自由に図書館を利用できると知っているのだろうか。
「藤間くんの影響かしらね。最近、調べものは図書館でするようになったわ」
「それはいいことだ。それに、正しい」
僕たちはコーヒーを飲みながら話す。
最近は何でもネットで調べがちだが、司書が
司書がネット上の情報を信用しないのは、正確性に欠けるからだ。確かに速報性は高いが、どこの誰が書いたかわからない、明日には消えているかもしれない情報を信用することはできない。信用するとしたら『電子政府』のような公的機関が発信しているサイトだろう。
「唐突だけど――富士山の標高は?」
「三七七六メートルね」
「そう。これくらいは知識で答えられる。でも、根拠を求められたら?」
僕が重ねて問うと、彼女は考える様子を見せ、
「百科事典かしら?」
「それもひとつの手だ。でも、これがもっとマイナーな山になると百科事典には載っていない可能性がある。『日本山名事典』あたりがベストだろうね」
事典、辞典の数はけっこうバカにできなくて、ほぼすべての分野にあると思っていい。百科事典、国語辞典にはじまり、音楽辞典や心理学用語辞典、もっと掘り下げたものだと夏目漱石周辺人物事典やモーツァルト全作品事典なんてものもある。
因みに、『事典』と『辞典』は読みが同じなので、会話の中では前者を『ことてん』と呼ぶこともある。
「じゃあ、もうひとつ。大浴場や噴水でライオンの像の口から水が出ているのがあるけど、あれはどうしてだと思う?」
「見当もつかないわね」
これは実際に図書館に持ち込まれた
質問を受けた司書は、まず『世界大百科事典』でライオンの項を見た。そこには「古代エジプトでは、太陽がしし座にはいる八月にナイル川の増水が始まるため、泉や水源にライオンの頭を模した彫刻を飾った。この風習がギリシア・ローマに伝わり、口から水を吐くライオンの意匠が浴場などで使われるようになった」と書かれていたそうだ。
次に『世界シンボル辞典』のやはりライオンの項目で、「樋口および噴水口として使われているライオンの頭部は、昼間の太陽、大地の贈り物として吐き出された水、をあらわす」の文章を見つける。
さらに『インテリア・家具辞典』『水のなんでも小辞典』『古代ギリシャの都市構成』にもあたり、そちらでは建築学的な理由が書かれていたようだ。
最後に『英米故事伝説辞典 増補版』で、「これは古い習慣で、エジプト人はナイル川の洪水を象徴するのにししの頭をもってした。けだし、その洪水は太陽が獅子宮の所にあるときに起こったからである。このようにしてギリシアおよびローマでは、噴水にこれを用いるようになった」の記述が見つかった。
「司書って何でも調べるのね」
僕が話し終えると、槙坂先輩は感心したようにそんな感想を口にした。
「本来そういう仕事だからね」
この例では結局、最初に百科事典を調べたこと以上のものは出ていないが、司書は質問に対して自信をもって答えるためにはここまで調べるのだということがよくわかる話だろう。
「それでもわからなかったら国会図書館に調査を依頼したり、わかりそうな専門家や研究機関を紹介したりするんだ」
後者はレフェラル・サービスという。
「本で調べようと思ったわたしって、案外司書に向いてるのかしら?」
「かもね」
僕はテキトーに話を合わせる。
安易にネットに頼らないという姿勢は正しい。次は世の中にどんな資料があるかを把握することだろう。尤も、それに関しては僕自身にも言えることで、僕は同年代の人間より調べものが上手いほうだと自負しているが、それでも時々調べきれないことがある。そういうとき大きな公共図書館やこの大学図書館のカウンタで尋ね――そして、勧められた資料を見て、こんなものもあるのかと驚かされるのだ。まだまだ経験が必要なのだろう。
「じゃあ、」
と、槙坂先輩。
「わたしもアメリカにつれていってくれる?」
無邪気とも言える笑顔で聞いてくる。
僕はその問いにどきっとしながら、慎重に言葉を紡ぎ出した。
「むりを言わないでくれ」
「でしょうね」
彼女は笑った。
そう。そんなことできるはずがない。三年生は年が明ければすぐにセンター試験で、それが終われば受験本番だ。僕は聞いたことがないが、槙坂先輩にだって志望校があるだろうし、その気になったらどこにだって行けるはずだ。それなのにこんな時期に思いつきで日本を飛び出そうと考えるなんて馬鹿げている。
そもそも親が許すのか? 資金は? 向こうでの生活はどうする? 冷静に考えれば考えるほど無理な話なのがわかる。彼女だってそれくらい理解しているはずだ。
「……帰るわ」
唐突に、槙坂先輩は席を立った。
「調べものは?」
「急いでるわけじゃないから、日を改めるわ」
そう言って笑う。
その笑みにはどこか寂しげな陰のようなものがあって――僕は「そ、そうか」と何とも間の抜けた返事で応じた。
そして、
「さよなら」
彼女は今まで聞いたこともないようなフレーズを最後の言葉にして去っていった。
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