第10話<下>

 つれてこられたのは渡り廊下だった。


 放課後の渡り廊下は、文化系部員が活動場所である特別教室に向かうくらいにしか利用されることはなく、生徒の姿はほとんどない。


 ここは僕にひとつの記憶を呼び起こさせる。


 それは学園祭二日目の夕刻の、加々宮さんの告白だ。これを奇しくもと言うべきなのか、それとも狙ってのことなのかは、加々宮さんの意図がわからない以上、僕には判断できない。


 加々宮さんはその渡り廊下の中ほどのところで立ち止まり、くるりとこちらを振り返った。


「真先輩、槙坂さんと別れたって本当ですか?」


 神妙な面持ちで、いきなり切り込んでくる。


「うん。世間ではそうなってるね」


 こんなもの言いは僕の癖か、或いは、案外それを認めたくないと思っているからか。後者なら我ながら女々しい話である。


 僕の返事を聞くと、加々宮さんは「よしっ」と小さく拳を握りしめた。


 そして、


 


「じゃあ、わたしとつき合ってください」


 


 ぱあっと顔を明るくして言う彼女に、僕は思わず呆気にとられた。


「……なぜその話が復活した?」

「えー、だって、今がチャンスじゃないですかー」

「……」


 ですかー、と言われても賛同しがたいのだがな。


「悪いけど、僕は上にはいかないんだ。この付近の大学でもない。卒業したらこの街を離れるよ」

「あ、大丈夫です。それ、知ってますから。サエちゃんから聞きました。留学するんですよね?」


 知ってる? 知っていてそれを言っているのか? いよいよ彼女が何を考えているかわからなくなってきた。


「だったら、どうして?」

「それでもいいんです」


 僕の当惑をよそに、加々宮さんは至極簡単に、あっけらかんとして言う。


「それにあくまでも可能性の話だと思うんですよね。もしかしたら行けな……もとい、行かなくなるかもしれないじゃないですかー?」

「今さらっとひどいことを言いかけたな、おい」


 だからなんで賛同できそうにないことを「ですかー?」と、同意を求めるかたちで聞くのだろうな。


 確かに可能性の話ではある。何せ決して簡単なことではないのだ。下手をしたら試験問題すら読み解けなかった、なんて事態もあるかもしれない。それでも僕が今まで確定事項として語ってきたのは、自分ではどうしようもない壁にぶち当たらないかぎり諦めるつもりがないからだ。


 加々宮さんは、己の暴言と僕の抗議には知らん振りで話を進める。


「というわけで、日本にいる間だけでもつき合ってください」

「その場合、僕が槙坂先輩から君に乗り換えた最低男として見られかねないのだが」


 それは御免こうむりたいところである。


「人目を気にするような人じゃないでしょう」

「かもね」


 実際、いちいち気にしていたら槙坂涼と一緒になんていられない。そこにいるだけで人目を惹く人なのだから。とは言え、妬みやっかみ嫉妬の類ならどこ吹く風だが、さすがに白い目は気にすべきだろう。


「それにわたしなら槙坂さんとちがって、残り一年も学校で一緒ですよ」

「ああ、本当だ」


 なぜか妙に納得してしまった。


「でも、さっきも言ったように、僕はいずれいなくなる身だ」

「そこは、ほら、あらかじめわかってたら、そういう心構えでつき合えますし?」


 ある意味、加々宮さんらしいタフでポジティブな考え方だ。


 僕も最初から槙坂先輩にそれを告げていればよかったのかもしれない。そうすればもっと穏やかに別れられただろう。いや、そもそもつき合っていなかったか。どちらにしても今のような事態は避けられたにちがいない。


「それで一年たって、それでもやっぱり別れたくないって思ったら、わたし、後から真先輩のこと追いかけちゃうかもです」

「アメリカまで?」

「もちろんです」


 僕が加々宮さんの思い切った発言に驚き聞いて返すと、彼女はきっぱりとうなずいた。


「でも、サイモン先生の授業を怖がってる加々宮さんにそれができるとも思えないけどね」

「で、できますぅ。サイモン先生でもニャンコ先生でもなんでもこいです」

「それは頼もしいね」


 加々宮さんの勢いに微笑ましいものを感じてしまう。


 僕も似たようなものだ。自分の夢を見定めた後は、父に援助の約束を取りつけ、外国人教師や帰国子女の級友から実践的な英語を学び、盗もうとしている。夢のためなら何でもやってやる、である。


 


「……真先輩、今『お前じゃない』って顔してますよ」


 


 まるで心臓を撃ち抜くような指摘。


 気がつけば加々宮さんの顔から笑みが消え、真剣な眼差しをこちらに向けていた。


「わたしじゃないなら楽しそうに話を合わせないでください! 槙坂さんじゃないとダメなら簡単に諦めないでください!」

「……」


 それは文句というよりは、叱咤に聞こえた。ならば、彼女は僕を試していたのだろうか?


「……何も知らない君が口をはさむ話じゃない」


 それでも僕は思わずむっとして言い返す。


 本当にみんな好きに言って、勝手に期待してくれる。例えそれが彼ら彼女らなりの叱咤激励や応援だったとしても、だ。


「知らなくありません。サエちゃんから聞いてます」

「あいつにだってそれほど話していない」

「サエちゃんを甘く見ないでください。真先輩と槙坂さんをいちばん近くで見てきた子ですよ!? 槙坂さんを置いていくんですか? 恋人じゃなかったんですか? 好きだって言ったじゃないですか」


 加々宮さんは支離滅裂にも聞こえるほど、矢継ぎ早に僕を問い詰めるてくる。


「それに、お、お、お風呂も一緒に入ったくせにっ」

「それは知らん!」


 身に覚えのない罪状を追加してくれるな。


「いったいどこでそんな話を聞いたんだ」

「槙坂さんに決まってるじゃないですか」

「……」


 確かに、彼女に決まってるな。


 いったい加々宮さんに何を吹き込んでいるのだろうな、あの人は。加々宮さんなんて単に耳年増なだけで、どうかしたらこえだより耐性がないかもしれないというのに。


 一気に気勢が削がれた。

 僕は深々とため息を吐き、それから体を渡り廊下の窓にもたせかけた。


「そんな気持ちでアメリカに行けるんですか?」


 加々宮さんが改めて問う。


「行けるか行けないかで言えば、行けるさ」

「そんな……」


 加々宮さんが泣きそうな顔をする。


 これが彼女の本質なのだろう。普段なんだかんだと悪女ぶってはいるが(そして、いつもマジもんの悪女にコテンパンにされているが)、僕と槙坂先輩の行く末を心配してくれているのだ。


 対して僕は、先のように言い切ってみせた。


 そのときがきたら何もかもを振り切って僕は行くだろう。いま僕が思い悩み、周りが気を揉んでいる問題も、所詮は時間がたてば忘れる種類のものでしかない。


「でも、それでいいかと言えば、きっとダメなんだろうな」


 僕は彼女のため、そして、それ以上に自分のために言葉を継ぐ。


「じゃあ!」

「無茶を言わないでくれ。ただ単にこのままじゃいけないと思っただけだよ」


 やはりもう一度、槙坂先輩と話をすべきだろう。


 改めて彼女に謝って、それで――笑って見送ってくれというのは、僕の身勝手でしかない。でも、せめてわかってほしいと思う。僕が抱く夢を。彼女と過ごした日々の中で積み上げた想いを。そして、願わくば、僕が日本にいる残りの一年もそばにいてくれたら、と。


「明日、彼女に会ってくるよ」


 僕は今決めたことを口にする。


「大丈夫ですよ、真先輩」

「うん? そうかな?」


 我知らず、口許に笑みが浮かぶ。

 僕のことを親身になって心配してくれた加々宮さんがそう言うのなら心強い。


「振られてもわたしがいますから」

「……」


 別に不退転の決意で臨みたかったわけではないが、そういう滑り止めがあるのもどうかと思う。というか、加々宮さんとしては、己の立ち位置はその座標でいいのだろうか。

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