第6話<下>

 その後も百貨店の中をふらふらし、ついでに書店にも寄っているうちに、もう夕方だった。


 本格的な夏に向かって日に日に陽は長くなり――外に出るとまだまだ明るい西日が無遠慮に目に飛び込んできて、陽射しだけならむしろ昼間よりも眩しく感じた。


「そろそろ藤間くんが行きたいって言ってた場所に行きましょ?」


 確かに頃合いか。


「いったいどこなの?」

「あそこ」


 と、僕は視線を上げた。


 視線の先にあるのは、駅の上に建てられた高層建築物。


「え? あそこって確かホテルじゃ……?」

「そうだね」


 地上四十階、高さとしては百五十メートル超。中身はシティホテルだ。

 もともとは鉄道会社が経営していたのだが、もうずいぶん前に経営権は別の企業に引き継がれている。


 ちらと横を見れば、ホテルを見上げたまま槙坂先輩が固まっていた。


「何か誤解があるようだが、僕が行きたいのは宿泊施設としてのホテルじゃないよ」


 この話題を妙な方向に広げるつもりはないので、僕は素早く注釈を添え、とっとと歩き出す。


「そ、そうよね。びっくりした……」


 槙坂先輩はほっと胸を撫で下ろし、僕についてくる。


「ごめんなさい。思わず期待しちゃって」

「……」


 誤解じゃなく、期待だったのか。




 ホテルへは正面玄関ではなく、駅のコンコースから直通の連絡口を通って入った。一流ホテルらしい重厚な雰囲気のロビーを抜け、エスカレータでひとつ上の階へと上がる。


 そうして僕が槙坂先輩をつれていったのは――ラウンジだった。


 そこは店と呼ぶほど明確に区切られているわけではなく、観葉植物などで囲われているだけの一角だった。中は二段ほど床が低くなっていて、ソファ席ばかりが並んでいる。落ち着いた感じの内装で、喫茶店やカフェというよりは、やはりラウンジと呼ぶほうがしっくりくる。


 僕と同じようにこれくらいの時間をティータイムと考える人間が多いのか、店内は思っていたよりも混んでいて、案内されたのは外の見える全面窓からは遠い端の席だった。まぁ、窓のそばの席に座ったところで、所詮ここは三階、たいした景色は期待できないのだが。


 景色も含めて楽しみたければ、最上階のイタリアンレストランだろう。それも夜。ただし、今日の昼食なんかと比べると、値段はひと桁跳ね上がる。


 コーヒーをふたつ頼むと、程なくしてワゴンで運ばれてきた。


 まずはソーサーと空のカップが置かれ、僕たちの目の前でそこにコーヒーが注がれた。店員が一礼して去っていく。


「因みに、おかわりは無料だ」


 店内を見れば、今も店員がワゴンを押して各テーブルを回っていた。カップが空になっている客がいれば、もう一杯どうかと尋ねているのだ。自分から呼び止めている客もいる。


 ゆっくりコーヒーとその時間を楽しんでほしいというのが、店の趣旨のようだ。どんなに長居しても追い出されることはなく、混んできても絶対に相席はない。


 もちろん、そのぶん値は張るし、会計の際にはサービス料も上乗せされるのだが。


「でも、『天使の演習』のコーヒーと比べるとけっこう濃いんだ。あまり飲むと寝れなくなるから、気をつけたほうがいい」

「大丈夫よ。もとから藤間くんとデートした日は眠れないもの」


 だったら尚更だろうに。


「昨日も楽しみでなかなか寝つけなかったわ」


 遠足の前の小学生か。普段は大人なのに、時々妙に子どもっぽくなるな。


 槙坂先輩はコーヒーにスプーンで半分だけ砂糖を入れ、ミルクを垂らした。砂糖は普段入れていなかったはずだ。僕が濃いと言ったから入れることにしたのかもしれない。


 そうしてから彼女はひと口飲み、「美味しい」と満足そうにつぶやいた。

 喜んでもらえたようで何よりだ。


 実を言うと、僕としては『天使の演習』のコーヒーのほうが、家庭的で親近感を感じる味がして好きだったりする。もちろん、ここのも美味しいのは確かなので、単なる好みの問題だろう。


 槙坂先輩に満足してもらえたのを見てから、僕もカップに口をつけた。


「よくこんなお店、知ってたわね」


 槙坂先輩は背もたれにはもたれず、上品に足をそろえて、背筋を伸ばしている。とてもきれいな姿勢だ。


「まぁ、ちょっとね」

「誰かと一緒にきたことがあるの?」


 答えを曖昧にしたところにその質問だったので、僕は思わず身構えた。


「ああ、ちがうの。女の子とじゃなくて、お友達ときたのって意味。もちろん、女の子とあるのなら、今のうちに白状しておいてほしいけど」


 冗談めかしてころころと笑っているあたり、僕の異性との交友関係を気にしているわけではなさそうだ。セルフコントロールは成功したらしい。


「友達同士でくるような場所じゃないだろ」

「ふうん、そう。藤間くんとしては、ここはそういう認識なのね」

「……」


 僕はコーヒーを飲むことで己の口をふさいだ。黙秘である。


 聞いた話、店としては会社帰りの勤め人やこの付近に買いものにきた人たちをターゲットにしているとのことで、今も周りを見れば男女の組み合わせばかりでもなかった。休日の今日は、ご近所同士仲よく買いものにきたセレブな主婦が多いようだ。とは言え、高校生が友達同士でくるようなところではないのも確かだな。


「じゃあ、ひとりで?」

「確かにこういうところでゆっくり読書ができればいいと思うけどね」


 友人ときたわけでもない。ひとりでもない。なら、いったい何だというのか。そもそもなぜこんな店を知っているのか。あまり答えをはぐらかしてばかりいると、そろそろ槙坂先輩が業を煮やして問い詰めてきそうだ。


 そう思っていると、その解答ともいうべき人物がやってきてしまった。




「ハァーイ、色男」




 その声に顔を上げれば、見るからに高級そうなパンツスーツに身を包んだ女性がいた。


「母さん!」


 このホテルのフロントマネージャでもある僕の母だ。


 髪は短めの上、それを首筋が見えるくらいまでアップにしていて、どことなく男っぽくあった。息子の僕が高校二年である以上もうそこそこの年なのだが、職場の最前線でバリバリ働いているせいか、あまり年齢を感じさせない。というよりも、年齢を悟らせない容姿だ。彼女曰く、「フロントはホテルの顔だから」だそうだ。


 隣で驚いた槙坂先輩が、さらに姿勢を正すのが見えた。


「どうしてここにいるんだよ」

「フロントに出てたら、真がロビーを横切っていくのが見えたのよ。しかも、女の子をつれて」


 母は意地の悪そうな笑みを見せる。


 最近は事務の仕事が多くて、大事な客がくるときくらいしかフロントに出ないと愚痴まがいのことを言っていたのに。間の悪いことだ。


「ところで――何、その眼鏡?」


 母は興味深げに僕を見つつ、空いているソファに腰を下ろした。


「別に。ちょっと面白そうだったからかけてみただけだよ。昔から目がよくて、こういうのには縁がなかったからね」

「ふうん。前は見た目ばっかり気にしてて、最近はそうでもなくなったのかと思ったけど……またそういうのを気にしはじめたのね」


 母はちらと槙坂先輩を見る。……よけいだ。その勘繰りも、その言葉も。


「ああ、私にもコーヒーをお願い」


 母は近くにいた店員を気安い調子で呼び止め、そう注文した。


 慣れているのは彼女がこのホテルで働いているからだけではない。母と僕は、何度もここを利用しているのだ。そして、そこには父も同席していることが多い。愛人と職場で、しかも子ども連れで会うあたり、父も母も豪胆な性格をしていると思う。


「仕事は?」

「休憩くらいさせなさいな」


 言外にどこか行ってくれと言ったつもりだったのだが、通用しなかったようだ。或いは、あえて無視したか。


「僕ひとりじゃないんだぞ」

「だからよ」


 そこでようやく母は、槙坂先輩に向き直った。


「自己紹介が遅れたわね。初めまして。真の母よ」

「初めまして、お母様。槙坂涼と申します」


 槙坂先輩は改めて背筋を伸ばしてから頭を下げた。


「うん。『おかあさま』ときたか」

「す、すみません、小母様。深い意味はなかったのですが……」

「深い意味があったら困るわ。……ああ、呼び方はどちらでもいいわよ」


 母は気にした様子もなく笑い飛ばす。


 しかし、一方の槙坂先輩は、一瞬だけぴくりとかたちのよい眉を動かし、何かに反応した――ように見えた。


「ずいぶん落ち着いた感じね。真よりも上かしら?」

「そうだよ。学校の先輩だ。失礼のないようにしてくれ」


 僕がいちばん失礼だという話もありそうだが。


「わかってるわよ。親を何だと思ってるんだか」


 もちろん、親だと思っている。親らしくない親だとも思うが。反対に彼女から見れば、僕は子どもらしくない子どもなのだろう。


 おそらく僕は、この年ごろの男子高校生にしては母親と仲がいいほうだと思う。家には父親の影がなく、ずっと母子ふたりで生きてきたような連帯感があるからだろう。僕と母は、どちらかと言えば友人に近かった。


 尤も、母とのそういう関係については、ほぼ母子家庭という環境だからか、彼女が意図的にそうしてきたのだろうと、最近になってやっとわかってきた。加えて、親が鬱陶しく感じはじめる今の時期にひとり暮らしをはじめて、適度な距離をおいたのも良好な関係を築く一因になっているのかもしれない。


 そこでコーヒーが運ばれてきた。僕たちのときと同じように、目の前でカップに注がれる。


 店員の去り際、母は「ありがとう」と、ひと言。こういうときにお礼の言葉をさり気なく言えるあたり、彼女はやはり大人だと思うし、自分もこうなりたいと思う。


「それにしても――確かにデートに使っていいとは言ったけど、まさか年上をつかまえてくるとは思わなかったわ」


 母はしみじみと言いながらカップに口をつける。果たしてそれは感心してるのか呆れているのか。


「このラウンジはどう?」

「ええ、とても素敵です。いいお店につれてきてもらいました」


 問われた槙坂先輩は、彼女もちょうどコーヒーを飲んでいたところで、カップをソーサーに置いてから答えた。


「そう。喜んでもらえたのなら嬉しいわ。……うん。気が利かないこの子にしたら、ここにつれてきたのは上出来ね。まぁ、気が利かないから、これくらいしかできなかったのかもしれないけど」


 ひどい言われようだな。


「いいえ、お母様、真くんはとても気が利くし、細かい気遣いのできる子ですよ。それに、一緒にいて楽しいです」

「そう?」


 母は少し面喰らったように、目を瞬かせた。不肖の息子がそんなふうに言われるとは思わなかったのかもしれない。


 因みに、僕も面食らった。誰だ、『真くん』って。


 まぁ、相手の親の前ならそんなものか。僕だって彼女の親と話すことがあれば、『涼さん』と言うのかもしれない。壮絶に抵抗があるが。あと、結局『お母様』にしたんだな。そっちは真似できない。


「お母様はこのホテルにお勤めされてるのですか?」


 そろって面喰らっている藤間親子にかまわず、逆に質問を投げかける槙坂先輩。


「ええ、ここでフロントマネージャをやってるわ。さすがにホテルだからいつでもきなさいとは言えないわね」


 母はそこで一度苦笑。


「でも、ラウンジくらいなら融通はきかせられるかな。今度からここにきたときは、私に声をかけなさい」

「そうさせていただきます。でも、真くんがまたつれてきてくれるかどうか」


 と、槙坂先輩は何か言いたげにこちらを見る。僕は肩をすくめ、「また機会があればね」と返しておいた。気が利いて細かい気遣いのできる僕としては、槙坂先輩が気に入ったのなら、またここにくるのも吝かではない。それはいいのだが、『お母様』『真くん』を連呼されると、どうにも落ち着かない気分になるな。


「ずいぶん仲がいいようね」


 僕と槙坂先輩の様子を見て、母が目を細める。


「母親の私が言うのも何だけど――うちの息子、あの人に似てなかなかいい男だから、気をつけなさいね」


 あの人とは、もちろん父のことだ。正妻のほかに愛人を三人も作ったりして、男としてあまり褒められた人ではないので、できれば似たくないものだ――と思いつつ、話の内容が内容なので我関せずとばかりのコーヒーをすすっていると、


「うっかりすると惚れるわよ」

「いいえ、お母様」


 槙坂先輩はゆっくりと首を横に振る。長い黒髪も緩やかに揺れた。


「残念ですけど、もう遅いです。わたし、真くんのこととても気に入ってますから。もちろん、彼もわたしのことを」


 思わず飲んでいたコーヒーを噴き出しかけた。了解も得ず勝手に人をカミングアウトさせるとはどういう了見だ。


 驚いたのは母も同じようで、困惑気味の苦笑いが口からもれる。


「それはまた――」

「困りますか?」


 槙坂先輩は母の言葉に問いをかぶせる。


 瞬間、母は何か合点がいったかように、表情を穏やかなものにした。


「いいえ、困らないわ」

「ありがとうございます」


 そうして槙坂先輩は、丁寧にお辞儀をした。


「ところで、お母様。真くんが夏休みに海外旅行を予定していることはもうお聞きに?」

「ああ、そんなことも言ってたわね」


 すっかり忘れていたようなその言い方は何だろうな。前に父と母と僕、三人で会ったとき、まさにこの店で話したはずなのに。


 というか、なぜ槙坂先輩は今ここでそんな話を出してきた?


「実はわたしも一緒に行きたいと考えています」

「これはまたずいぶんと大胆ね」


 母は唖然としつつ僕を見るので、誤解のないよう「僕が誘ったんじゃない」と明言しておく。さっきからこの形式でしか話に参加できていないな。


「お母様にその許可をいただけたら、と」

「うーん……」


 母は目の焦点をどこにも合わせず、宙を見やりながらカップを口に運ぶ。思考とは乖離した動作だ。考えながらそれを繰り返し、コーヒーを飲み干すと同時に結論が出たらしい。


 予想が正しければ、彼女の答えは――、


「うん。私はいいわよ」

「母さん!」


 しかし、予想通りとは言え、ここは世間の常識に合わせて反対してほしかったところだ。


 母は僕の心からの叫びを無視して続ける。


「ただし、高校生としての節度は守ること。それと、私は許可は出すけど、それだけ。真はこれで根はなかなかに真面目だから、まだ首を縦には振ってないでしょうね。この子の説得は自分ですること。あと、ご両親もね」

「わかりました」


 槙坂先輩は笑顔で答える。


 その笑みが、最大の障害を突き崩した今、残りは雑魚だと思っているように見えるのは、僕の気のせいだろうか。


「真は説得されたら報せなさいね」


 母は僕にそう言ってから、片手を上げて近くにいた店員を呼び止めた。


「もうこれは下げてくれていいわ」


 自分のカップを示して言う。


「支払いは後で私のほうに回してちょうだい」

「いいよ、そんなの」

「いいからいいから。せっかくのデートに親が出てきたら男としての立場がないかもしれないけど、ここは親の顔を立てなさい」


 この調子だと言っても無駄だろうな。


「涼さん、今日は会えてよかったわ。よかったらケーキでも食べていって。美味しいわよ。それじゃあ、またね」


 そうして母は慌ただしく去っていった。


 その姿が見えなくなってから、僕は肺の中が空っぽになるくらい深いため息を吐いた。どっと疲れた。


「悪かった。妙な邪魔が入って」

「素敵なお母様じゃない」


 と、槙坂先輩。


「まぁ、僕もいい親だとは思ってるよ」


 友人みたいな親として緩すぎず厳しすぎず僕に接し、それでいて人として大事なものはしっかりと教えてくれた。我ながら僕はどこに出ても恥ずかしくない人間だと思っている。母は確かに僕を、そういう人間として育たはずなのだ。そこは僕も母も自信をもつべきだろう。


 そして、彼女の利用できるものは何でも利用して人生を有意義なものにするという生き方は、間違いなく僕のスタンスの手本となっている。


「どうする? 何か食べるか?」


 母のあの言い方だと、少しくらいはなら何か頼んでもいいのだろう。盛大にアフタヌーンティーセットを頼んだところで、小言とともに請求書が僕に回ってくる、なんてことになるとも思えないが。


 だけど、槙坂先輩は首を横に振った。


「せっかくのご厚意だけど、今日はやめておくわ。お母様に気持ちだけいただきましたと伝えて」


 僕はそれに了解。


 この後、僕たちはコーヒーをもう一杯飲む間だけ他愛もない話をし、この店を出た。




                  §§§




 駅のコンコースでこれからどうするかと問えば、槙坂先輩の答えは「今日はもう帰りましょ」だった。


 いつもなら『天使の演習』に寄るところだが、ついさっきまでホテルの濃いコーヒーを飲んでいたのだから、さすがにそれはないか。


 帰るには少し早い気がするのは、まだまだ暗くなりはじめたばかりだからだろう。

 腕時計で時刻を確認すれば、もう午後六時半前。電車に乗って家に着くころには七時といったところ。頃合いと言えば頃合いだ。


「帰って藤間くんをどう説得するか考えないと」

「……」


 ここは説得されまいと、心を強くもつべきだろうか。


 どうも状況は、着々とすべてを許しつつある。なら、後は流れって気もするな。

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