第6話<上>

「いいぞ、こえだ、出してくれ」

「おっけー」


 こえだの元気な声に遅れること数秒、僕が手にしたホースの先から水が勢いよく飛び出した。


 ある日の昼休み。

 今、僕が何をしているかというと、単なる花壇の水撒きである。


 この明慧学院大学附属高校には、職員や来客が出入りする正門付近の目立つところに立派な花壇がある。四季折々の花を咲かせて目を楽しませてくれるが、その分枯らすと少々みっともないことになるので、水撒きは欠かせない。


 蛇口をひねったこえだが走り寄ってくる。


「疑問なんだけどさ、なんで真がこの仕事やってるわけ? なんかそーゆー委員とかクラブだったっけ?」

「んー」


 僕は水を撒きながら返事をする。


「別に。僕が勝手にやりましょうかって進み出ただけ」

「うわ、もの好き」


 こえだの感想は簡潔、かつ、明快だった。


 確かに彼女の言う通りかもしれない。この仕事を買って出たのは入学してすぐのこと。未だかつてこんなことを自発的にやると言い出した生徒などいなかったにちがいないと自分でも思う。


「ま、これも学校生活を楽しくするためさ」


 そして、この春からはこえだを相棒にしている。週に一回、蛇口をひねって閉じるだけの簡単なお仕事ですと誘ったら乗ってきた。報酬は毎回ジュース一本だが、見ていて楽しいいじって愉快なこの小動物をつき合わせられるなら安いものだ。


「楽しく、ねぇ」

「何だよ」


 何か言いたげなもの言いの彼女に、僕は水撒きを続けながら返事をする。


 残念ながらこのホース、シャワーノズルがついていないから、うまく水を撒くためには指で先をつぶしたり振ったりといった、文字通り小手先のテクニックが必要だ。


「だったらいっそのこと、槙坂さんとつき合えばいーじゃん。毎日楽しいと思うよ? 周りからは死ねや飛び散れやの大合唱だろうけど」

「僕はその状況で楽しめる気がしないね。……もちろん、それがなくてもお断りだけど」


 冗談じゃないね。


「いったい何が不満なんだよぉ」

「別に」


 こえだに言っても信じないだろうが、僕と槙坂涼は本質的な部分で似ているのだ。一緒にいれば僕という人間を知られるし、理解される。それは口で言うよりも危険なことだ。


「そうだ、こえだ。お前、僕とつき合わないか?」


 さすがに槙坂先輩も僕に彼女がいるとなれば諦めるだろう。


「それってあたしに何かメリットあるかなぁ?」


 男に嫌われる女の代表格みたいな台詞を、首を傾げつつ吐くこえだ。


「彼氏がいるって友達に自慢できる」

「ちょっとお得感薄いかな。それに真だしなぁ」


 ほっとけ。


「だったら毎日ジュースを一本奢ってやろう」

「おお、それはお得! って、そんなので釣ろうとするなっ。真のバカ!」


 こいつの場合、ノリツッコミなのか本当に釣られたのか、イマイチ判断がつかないな。


「真面目な話さ、あたしと槙坂さんじゃお話になんないじゃん。普通に考えて」

「そんな『普通』僕は知らないね。僕の中じゃこえだだっていいセンいってるよ。まぁ、胸がある分、多少天秤は向こうに傾くかもしれないけど――おい、水を止めるなよ」


 急にホースから出る水が止まったので振り返ってみれば、こえだがホースをぽっきり折って、そこをハンドグリップみたいに片手で持っていた。堰き止められた水が溜まって、ホースが膨らみつつあった。


 彼女は口の端を吊り上げて、ひきつった笑みを浮かべる。


「バカ、やめろ。ゆっくり離――」

「ふーんだ。一瞬でも喜んだあたしがバカだったっ」


 こえだが手を離した。

 途端、水はまさしく堰を切って流れ出し、その勢いはホースを握る手にまで伝わってきた。


「うわ」

「わきゃ」


 そして、暴れるホースは僕の手を離れ、水を撒き散らしながら断末魔の蛇のようにのたうち回る。すぐにそれはおさまったが、僕らが水浸しになるには十分だった。


「なんで手を離すんだよ、もー」

「お前が悪いんだろ」


 僕はカッターシャツの袖で濡れた顔を拭う。まぁ、こっちも濡れているからあまり意味はないが。


 と、そこであることに気づいた。


「こえだ、お前、意外と大人っぽいのつけてるんだな」


 こえだのブラウスが濡れて、その下のものが透けて見えていた。レースの柄までばっちり。その品のあるデザインと彼女の子どもっぽい容姿のギャップが、僕としてはポイントが高い。


 遅れてそれに気づいたこえだは、さっと両腕で胸のあたりを覆い、真っ赤な顔で僕を睨む。


「真の、ぶぁかーッ」


 そして、一拍おいて噴火。

 この後、ホースを持ったこえだに追いかけ回されたのは言うまでもない。




                  §§§




 翌日、僕はしっかり風邪をひいた。


 出たい授業があったのだが、こんなふらつく頭ではむりそうだ。たぶん熱もあるのだろう。仕方ないので学校は休むことにする。


 ふと心配になってこえだに電話をしてみたところ、あいつのほうはピンピンしていた。今日も元気に登校しているらしい。少しほっとした。考えてみれば、僕のほうが水をかぶった量は多いわけだしな。


 朝はまだ風邪をひいた熱を出したという自覚が薄かったので簡単な朝食を作って食べたが、昼はさすがに億劫になって抜いた。高校に入学してからひとり暮らしで、病気だろうが何だろうが食事は自分で作るよりほかはない。母が言うようにハウスキーパーでも入れていればそうでもなかったのだろうが、まぁ、食欲がないから一緒か。


 ひと眠りした後はベッドで本を読みながら過ごした。


 そして、夕方。

 マンションのエントランスのチャイムが鳴った。


 僕はベッドから体を起こし、立ち上がる。まだ頭がふらつく感じはあるが、朝よりはよくなっているようだ。そのままインターフォンに出る。


「はい」

『おう、アタシだ。風邪ひいたんだって? サエから聞いた。見舞いにきたから開けてくれ』


 美沙希先輩だった。それは声だけでなく、映像でも確認できる。カメラの位置を知っている彼女は、しっかりこちらに不敵な笑顔を向けていた。


 別にいいのに、見舞いなんて。とは言え、追い返すわけにもいかない。


「少し待ってください。……どうぞ」


 手もとのパネルを操作してエントランスのドアを開ける。


 美沙希先輩が上がってくるまで二、三分といったところか。今はパジャマ姿だが、ひと眠りして起きた後に一度新しいものに着替えているし、相手は美沙希先輩だからもうこのままでいいだろう。


 とりあえず髪にブラシだけ通したところで、今度は玄関チャイムが鳴った。


「今あけます」


 そう返事をして、ドアを開ける。




 そこに槙坂涼がいた――。




「あら」


 と、発音に笑みを含ませる彼女。


「パジャマの藤間くんもかわいいわね」

「……」


 僕は黙ってドアを閉めた。

 鍵もかけた。


 待て。どうしてエレベータに乗ってここまで上がってくる間に、美沙希先輩が槙坂先輩に変わってるんだ?


「なんで閉めんだ。開けろ、真」


 ドア越しに今度は美沙希先輩の声。


「すみません、先に着替えたいのですが。僕の予想が正しければ、その必要があるかと」

「待てるか、バカ。開けねーなら壊す。そして、その後お前も壊す」


 本気マジだ。


 ここまで言われたら開けるしかない。あの人はやると言ったらやる。ここのドア、無駄に立派だからいったいどれだけの修理費を取られるやら。たぶん僕の修理費より高いだろう。


 僕は渋々ドアを開けた。


 ばっさりウルフカットと猫目の隣りに、清楚を絵に描いたような黒髪ロングのオトナ美人が並んでいた。――案の定だ。ふたりとも制服のまま。学校から直接ここにきたらしい。


「先輩、どうしてその人をつれてきたんですか。住所はおしえないでくださいって言ったじゃないですか」


 そう。ちゃんと釘を刺しておいたはずなのに。




「おしえてないぞ。アタシが見舞いにいくっつったら勝手についてきたんだ」




「……」


 ダメだ。こと槙坂先輩がらみになるとこの人も微妙に敵だ。


「兎に角、上がるぞ。槙坂も入れよ」


 勝手知ったる他人の家とばかりに、おかまいなしに中に入る美沙希先輩。学校指定のローファーは脱ぎ飛ばし、スリッパも履かない。こっちはほっといて――僕は槙坂先輩を見た。


 彼女は自分も後に続いていいものか迷い、戸惑いの視線を僕に向ける。


「せっかくきてくれたのに追い返すほど冷たい人間じゃないつもりさ。……どうぞ。ろくでもないところだけど」

「ありがとう。嬉しい」


 槙坂先輩は言葉通りに嬉しそうな笑顔で答えた。


 玄関を上がった彼女は、まずは僕が出した来客用のスリッパに足を入れ、それから脱いだローファーをそろえる。ついでに美沙希先輩のまでそろえた。


「すごい!」


 リビングに這入ると、槙坂先輩は感激の声を上げた。


「な、すごいだろ」


 先にきてすでにソファに座っていた美沙希先輩が、まるで自らを誇るかのように自慢げに笑う。


 僕がひとりで住むこのマンションは、いわゆる高級マンションと呼ばれるものだ。ひと続きになったリビングとカウンターダイニング付きのキッチンに、勉強部屋、寝室、書斎という間取りで、それぞれが非常に広い。僕は完全に持て余している。マンション自体も高層で、ここは二十八階。火事があればきっと助からないだろう。


「藤間くんの家ってお金持ちなの?」

「ま、いろいろと事情があってね」


 僕はテキトーな言葉でお茶を濁す。


 ひとり用のソファのほうに腰を下ろすと、この短時間のドタバタで疲れてしまったらしく、肘掛けに頬杖を突き、思わずため息を吐いてしまった。熱がまた上がるんじゃないだろうか。って、こんなことしてる場合じゃないな。


「そうだ、何か飲むものでも」


 客がいるというのに、何をゆっくりしているんだ。


「いいから座ってろ、バカ」

「そうよ。わたしたち、お見舞いにきただけなんだから」


 しかし、立ち上がりかけた僕を、ふたりが同時に制した。


「どうなの、体調は」


 槙坂先輩が美沙希先輩の隣りに座りながら聞いてきた。そっちのソファはゆったりとふたりが座れる。


「別に見舞ってもらうほど大袈裟な風邪じゃないよ」

「アタシもそうだろうと思ったんだけどな、槙坂が血相変えて飛んできたから」


 血相を変えてだって?

 僕は思わず槙坂先輩を見る。


「だって、藤間くん、ひとり暮らしだって言ってたから……」


 後で聞いた話、彼女は教室に僕の姿がないのを見て、こえだに何か知らないかと尋ねたのだそうだ。当然こえだは僕が風邪をひいたことを電話で知っているし、当然ありのままを答える。そうして槙坂先輩は美沙希先輩を訪ね、今ここに至ったというわけだ。


 この様子だとずいぶん心配してくれたようだ。


「ありがとう。でも、朝よりよくなってるし、もう大丈夫だと思う」


 いちおう礼は言っておかないと。

 彼女はそれを聞いて、ほっとしたようだった。


「真、いろいろやること溜まってんじゃないのか? 流しに洗いものが残ってるぞ」


 いつの間にかキッチンに移動していた美沙希先輩が、そちらの惨状を見ながら言う。

「そりゃそうですよ。日中ずっと寝てましたからね」

「よし。じゃあ、せっかくきたことだし、やれることはやっていってやるか」


 また得意でもないことをやろうとする。人が病気になると張り切るタイプだな。


「洗いものに、後は洗濯か、たまってそうなのは」

「わたしも手伝うわ」

「ぶっ」


 何を言い出すんだ。


「ちょっ、ちょっと待った!」


 美沙希先輩はいい、美沙希先輩は。でも、あの槙坂涼に家事だって? そんなことさせていい人じゃないだろ。しかも、洗濯なんてさせた日には、こっちが首を吊りたくなる。


「なに?」

「どうした?」


 しかし、こちらの心中など知る由もなく、ふたりは待ったをかけた僕を不思議そうに見る。完全にやる気だ。果たしてこの厚意を無碍にしていいものか


「えっと、じゃあ、洗濯は美沙希先輩にお願いします」

「よし、任せろ。あんなもの洗濯ものと洗剤を放り込んで、スイッチを入れたらいいだけだろ」


 むちゃくちゃ乱暴なことを言っている気がするが、間違ってはいない。全自動だからな。所詮、家電なんて誰でも同じ結果が得られるように開発されたものだ。美沙希先輩でも大丈夫だろう。


「槙坂はキッチンのほうな」

「ええ」


 結局のところ、槙坂先輩に家事をやらせることには変わりないが、キッチン回りならまだ許容範囲だろう。僕は脱力したように、ソファに座り込む。


 と、正面でも同じようにスプリングが軋む音。

 見れば槙坂先輩も、一度は上げた腰をまた下ろしていた。じっと僕を見ている。向こうに行くんじゃなかったのか。


「洗濯、わたしにはやらせてくれないのね」

「当たり前だ。あなたにそんなことさせられないし、第一、見られたくないものがある」

「わたしは気にしないわ」

「僕が気にする」


 頼むからそこはこちらの気持ちを汲んでくれ。


「古河さんならいいの?」

「そりゃあ先輩でも多少抵抗はあるさ。でも、もうつき合いも長いからね」


 お互いいろんな面を知って知られた仲だ。


「ふうん、そう」


 と、槙坂先輩。

 何を考えているのやら。深読みはしないでもらいたいものだ。


「おーい、槙坂ー」


 脱衣場がある廊下のほうから美沙希先輩の声が飛んできた。


「お前、何か喰うモン作ってやれよ。まさか料理は苦手とか面白いこと言わないだろうな」

「大丈夫よ」


 槙坂先輩も返事をする。


「だそうよ。やらせてもらえないことを言っても仕方ないわね。それに洗濯よりも料理のほうが藤間くんに喜んでもらえるわ」

「ものは考えようだな」

「何か食べたいものはある?」


 頭を切り替えたらしい槙坂先輩は、立ち上がりながら僕に訊いてくる。


「ハッシュドビーフ。僕の好物だ。作れるものならぜひ作ってほしいね」

「そう。でも、それは今度きたときにするわ」


 いや、もうこないでくれ。


「食べやすいものがいいわね。やっぱりおかゆか雑炊あたりかしら。キッチンのものは好きに使っていい?」

「ああ」


 僕はなげやりに返した。


「あ、そうそう」


 しかし、彼女はキッチンに向かいかけた足を止める。




「好きなものはハッシュドビーフ。覚えておくわ」




 そう言って自分のこめかみのあたりを人差し指で二回叩き、例の大人っぽい笑みを浮かべた。


 彼女のタフさには負けるな。


「……」


 ハッシュドビーフ、ちょっと期待してみてもいいだろうか。

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