第6話<下>

「ごちそうさまでした」


 程なく雑炊を中心にした温かい食事ができ上がり――昼を抜いたこともあって、僕はそれを軽く平らげてしまった。


「お粗末さま」


 リビングのほうから槙坂先輩の声。


「どうだった?」

「まぁ、ね」


 癪なので言いたくない。言うまでもないというのもあるが。


 僕はカウンターダイニングからふたりの先輩がいるリビングへ移る。ソファに座ると急に身体が重く感じられ、肘掛けに肘を突いて頭を押さえた。


「どうした、真」

「ちょっと。人疲れしたのかもしれません」


 いちばんの原因は槙坂涼が自分のプライベート空間にいることだろうけど。どうにも緊張してしまう。


「そうか。じゃあ、アタシらはこのへんで帰るとするか」

「ぇ?」


 立ち上がる美沙希先輩の隣で、槙坂先輩が小さな声を上げた。


「ほら、槙坂。帰るぞ」

「で、でも……」


 と、彼女は心配そうに僕を見る。言いたいことはすぐにわかった。


「僕なら大丈夫。おかげさまで食欲も満たされたし、もうひと眠りしたら治るさ。むしろそうしたいから帰ってくれると助かる」


 これじゃ寝るに寝れない。


「だとさ」

「でも、藤間くんをひとりにするのは……。何かあったときのために誰かいたほうがよくない?」


 槙坂先輩は一度美沙希先輩を見上げ、また僕に視線を戻す。

 そんなに不安げな顔をしないでくれ。


「大丈夫だって。明日はちゃんと授業にも出る」


 僕は肘を突いた手で頭を支えつつ、もう片方の手をひらひらと振った。大丈夫だから帰ってくれのボディランゲージ。


 しかし、彼女は何も言わず、頑なに帰る素振りを見せない。


「よし、わかった」


 代わりに言葉を発したのは美沙希先輩だった。こういう先へ進まないグダグダしたやりとりは、彼女の最もきらうことのひとつだ。




「槙坂、お前は残れ。残って朝まで面倒見てやれ」




 ……は?


「何を言ってるんですか!?」


 そんな結論があるか。


 僕は思わず立ち上がったが、途端、頭がくらっときた。その様子を見てとった槙坂先輩が僕を支えようと寄ってくる。


「ただし、レイプまがいに襲うのは禁止だからな。こいつが死ぬ」

「ええ、それは守るわ」


 待て。そのツッコミどころだらけの台詞に、なんで普通に返事をしてるんだ!?


「先輩!」

「別にいいだろ、それくらい。槙坂だって何もしないって言ってるんだ」


 そういう問題か。


「それに、アタシだってもしお前に何かあったらって心配してなくもないんだ。でも、槙坂がいてくれたら安心できる」

「お気持ちは嬉しいですけどね。第一、彼女だって泊まる用意なんてしてないでしょうに」


 いや、それこそそういう問題じゃないな。


「あン? 女がひと晩泊まるくらいの準備なんて、そのへんのコンビニでそろうだろ」

「……」


 いいえ、大雑把な作りの美沙希先輩とちがって、槙坂先輩は繊細にできてますから。


「じゃあな、槙坂。アタシの大事な舎弟を頼んだぞ」

「ええ」


 ふたりはリビングを出ていく。帰る美沙希先輩を槙坂先輩が玄関まで見送るのだろう。

 僕はソファに腰を下ろすと、背もたれに体を預けた。


「大丈夫?」


 そこに槙坂先輩だけが戻ってきた。

 美沙希先輩は帰って、今ここには僕と彼女しかいない。


「……バカじゃないのか、あなたは」

「藤間くんのことが心配だったのよ」

「それでもだ」


 ひとり暮らしの男のところに残るだなんてどうかしている。僕は呆れてため息を軽く吐いた――つもりだったが、それは妙に重いものになった。人疲れどころじゃなくなっているのかもしれない。


「寝たほうがいいわ」

「……言われなくてもそうさせてもらうさ」


 まったく取り合おうとしない彼女を意味もなくひと睨みしてから、僕は立ち上がった。学校ならまだしも、こんな誰もいないところでふたりきりなんて、こっちの身がもたない。やはりまだ頭がふらつくが、それを槙坂先輩に悟られまいと無駄な努力をしつつ、隣りの寝室に向かう。


 ドアのレバーを握り、そこで動きを止めた。――いちおう言っておかないとな。彼女が困るだろうし。


「……脱衣所の戸棚に新しいタオルとトラベルセットがある。バスルームともども好きに使ってくれ」


 一方的に言って、返事も聞かずに僕は部屋の中に入った。

 絨毯を敷いた床に、ダブルベッドとライティングデスク。ここが寝室だ。


 少し前まで寝ていたベッドに倒れ込む。


「……」


 ここに寝転がればすぐに眠れるかと思ったのだが――ドアの向こうにいる彼女のことが気になって、それどころではなかった。


 槙坂先輩はこれからどうするのだろう。食事は? どこで寝る? 食事はキッチンとそこにあるものを使えばどうとでもなるだろう。でも、どこで寝るんだ? ソファか?


「まったく……」


 と、仰向けに寝返ったところで、サイドボードに置いたままのスマートフォンが着信メロディを奏ではじめた。誰だ? 美沙希先輩がこの状況を茶化すために電話でもかけてきたのか? 僕は手を伸ばして端末を掴み、ディスプレィを見た。




 槙坂涼




 それが送信者の名前。


「……」


 確か隣りの部屋にいるはずだよな?


 この家のことで何か聞きたいことでもあるのだろうか。それだったらここに入ってくればいい。……いや、さすがにそれは抵抗があるか。でも、少なくともドアをノックすればいいだけの話だ。


 僕は体を起こし、深呼吸をひとつして気持ちを落ち着けた。ついでに頭も冷やす。


「はい」

『……わたしです。槙坂です』


 その声は少し弱気に聞こえた。


「どうした?」

『あの、怒ってる……?』


 半ばむりやりにここに残ったことか?


「怒った」


 当然だろう。いったいどれだけ危機感がないんだ。こっちの気も知らないで。


 でも。


「でも、もう怒ってない。僕のことを心配してくれてるんだ。それを怒るのは間違ってる。悪かった」

『ありがとう。優しいのね。……でも、本当は別の気持ちもあったの』


 別の気持ち?




『……古河さんへの嫉妬』




「……」


 納得した。だけど、僕はそれを笑い飛ばさなくてはいけない。


「ばかばかしいね。前にも言っただろ? 美沙希先輩は人生の先輩で、僕にとっては特別な人だけど、そういうのじゃないって」

『ここには何回きたの?』


 きたことがあるのを前提にした質問だ。……当然か。あの人の態度を見ていたら、それくらいすぐにわかるな。


「そんなの覚えてないよ。最初のころはもの珍しさでよく遊びにきてたけど、最近はさっぱりだ。今日だってずいぶん久しぶりな気がする。何度もきてるけど、何かあったことなんて一度もないさ」

『信じていい?』

「僕としてはむしろ信じなくていい」


 そう返すと、電話の向こうの槙坂先輩はくすりと笑った。


 もうこの話はいいだろう。

 ドア一枚隔てただけのこの距離で、なんでわざわざ電話を使って話しているんだろうな。


「それより、先輩、今日はどうやって寝るつもりなんだ?」


 まぁ、ベストはこのベッドを使ってもらって、僕がソファで寝ることか。




『あら、藤間くんと一緒でいいわよ』




 端末を耳に当てているせいか、それはまるで耳元で囁かれたようだった。


「は?」

『ダブルベッドでしょ? わたし、体は細いし、迷惑はかけないわ』

「何を言ってるんだ!? ていうか、なぜダブルだって知ってる!?」


 覗いたのか、この部屋を? いつの間に。


『ただのカンよ。これだけ広いんだもの、置いてるベッドはダブルかなって思ったの。でも、その様子だと当たったようね』


 槙坂先輩はまるで慌てふためく僕の様子が見えているかのように笑う。尤も、僕にも今の彼女がどんな顔をしているか容易に想像がつくが。


 どこまでも意地が悪い人だ。


『藤間くん、わたしのためにベッドを空けようと思ったでしょ? ダメよ。あなたは病人なんだから』


 そして、一転して年上らしい口調で僕を諭す。


『わたしはソファで大丈夫。こう見えても、どこでも寝られるタチだから』

「わかった。そうさせてもらう。……悪いけどこのまま一、二時間ほど寝させてくれ。起きたら来客用の布団を引っ張り出すから」

『じゃあ、その間お風呂でも入って待ってよっかな』

「……」


 だから熱が上がりそうなことを言わないでくれ。







 その夜、僕は夢を見た。

 僕が寝ている寝室に誰かが入ってきて――それを僕が第三者の視点で見ているのだ。


 これは、夢。


『彼女』はそばまでくると、額にかかった髪を掻き上げるようにして僕の頭を撫で、囁く。


 


「ねぇ。初めて会ったときのこと覚えてる?」


 


 これは、夢……?







 そうして二時間ほど睡眠の後、また起きていくらか槙坂先輩を話をし――そして、何ごともなく朝となった。


 熱はすっかり下がっていた。


 槙坂先輩は朝の早いうちに、意外とあっさり帰っていった。まさかこのまま学校に行くわけにもいかないし、女性としては当然か。


 次に会ったのは学校。午前中の休み時間だった。

 今日は一緒の授業はない日なのだが、僕がいる教室までわざわざ訪ねてきた。


「おはよう、藤間くん。昨日は風邪をひいたって聞いて心配してたの。もうよくなったみたいね。よかったわ」


 これは完全に周りを意識した台詞だ。

 それから彼女はさり気ない手つきで僕のネクタイを微調整しながら、僕にだけ聞こえる声で言う。


「実はあなたの家に忘れものをしてきたの」

「……わざとだろ?」


 またくるための口実。


「まさか。わたしがそんな狡猾な女だと思って?」


 思う思わないじゃなくて、事実だ。




「わざと何か置いてくるつもりだったのに、そうするのを忘れてたの」




「わたしってうっかり屋さんでかわいいと思わない?」


 そう言って槙坂涼は、例の如く天使の顔で悪魔の笑みを浮かべる。

 なるほど。確かに忘れものだ。


「よくわかった。二度とこないでくれ」

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