第7話

 ここ、明慧学院大学附属高校は単位制を導入している。


 よって、生徒はある程度好きな授業を自由に履修できて、その意思決定には様々な思惑が入り込む。例えば、学食が混むのがいやだからと昼休みの前後どちらかを必ず空けておいたり、朝が弱いからと二時間目以降からばかり入れたり。なので、登校時間も下校時間もわりと分散する。


 そのはずなのだが――。


 放課後。


「あら、藤間くんも今帰り?」


 その人とロッカーの前でばったりと会った。


 振り返ればそこに立っていたのは、黒髪ロングで清楚を絵に描いたようなオトナ美人――槙坂涼だった。


 周りの視線を浴びつつも、どこ吹く風で立っている美貌の先輩。そんな彼女を見て僕は苦虫を噛み潰したような顔を作る。


「あなたは、今日は五時間目までのはずでは?」


 今は六時間目終了後。本来ならば彼女は帰っているはずだ。


「嬉しい。わたしのスケジュールを覚えてくれてるのね」

「……」


 しまったな。予想外の遭遇に口を滑らせたか。


「できるだけあなたに会わないようにと思ってね」

「ふうん、そう」


 と、槙坂涼は余裕の笑みを浮かべる。


「いちおう藤間くんの質問に答えると――少し用があって図書室で時間をつぶしてたの」

「だったら、その用とやらをとっととすませるといい」

「そうするわ」


 そう言うと槙坂先輩はすっと距離を詰めてきた。




「せっかく偶然会えたのだから、よかったら一緒に帰らない?」




「……」


 きっとこの話の流れは、彼女としてはおかしくないのだろうな。


 槙坂先輩が僕のネクタイに触れた。


 目線よりもやや低い位置に彼女の艶やかな黒髪がある。そして、香水かオーデトワレだろうか、程よく甘い香りが僕の鼻を挑発的にくすぐってくる。この距離になって初めてわかるような上品な香りだ。果たして、この学校で何人がこのことを知っているだろうか。


 最近、彼女はよくこうする。僕のネクタイを直してくれているのか、単なる手遊びなのかは知らないが。ただ、面白い状況だと思う。彼女がその気になれば僕の首を絞めることができるのだから。もしかしたら僕の返事次第では、本当にそうするかもしれない。


 例えば、こう返したらどうだろう。


「悪いが返事はノーだ。生憎、今日は帰りに本屋に寄るつもりでね」

「それくらいならつき合うけど?」


 さすがに槙坂涼はこんなものでは崩れないようだ。

「それならいいが、僕の邪魔はしないでくれよ」

「もちろん。そんなことはしないわ。でも、よかったらわたしのほうにもつき合ってくれる?」

「どこに?」


 槙坂涼が学校帰りに寄るところ。興味があるな。


「そうね、そのあたりをぶらぶらして、その後わたしのお気に入りのカフェに寄りましょう?」

「待て。それじゃ、まるで――」

「デートみたい?」


 僕の言葉を先回りして、彼女はくすくすと笑う。


「かもしれないわね」

「……」


 さては最初からそのつもりだったか。


 とは言え、今さら前言撤回するのは主義じゃない。それに学校の外での槙坂涼を見るいい機会でもある。


「おーい、藤間、帰……おわっ。槙坂さん!?」


 そこに現れたのは浮田だった。


 こいつとはついさっきまで同じ授業を受けていて、ここまで一緒に戻ってきた。自分のロッカーで荷物をまとめてこっちにきてみれば、憧れの先輩がいて驚いたというところだろう。


「せ、先輩も今お帰りですか?」

「ええ、そうなの」


 槙坂先輩は僕から離れ、浮田に微笑みで応えた。




「そうしたら藤間くんとばったり会って、せっかくだからデートに誘ったところ」




「なっ!?」


 お、お前ぇ……――と、かすれた声で浮田。そんな恨みがましい視線を向けられても知らん。僕が言い出したことじゃない。


 一方の僕は非難の視線を槙坂先輩に向けているわけだが、彼女はそれを例の天使の顔をした悪魔の笑みで受け流した。


「あ、でも、」


 そして、ふいに愁いを帯びた思案顔になる。


「お友達がいるなら遠慮したほうがいいのかしら?」

「どーぞどーぞ」


 タイムラグなしで浮田は答えた。なんとも単純なやつ。槙坂涼にとってこれほど扱いやすい人間もいないだろう。


 こうして僕は槙坂先輩と一緒に帰ることになった。




                  §§§




「ひどい話だ」


 歩きながら僕はぼやいた。


「やつとの友情にひびが入ったらどうするつもりだ」

「安心して。藤間くんの生活や人間関係を壊す気は毛頭ないから」


 本当かよ。槙坂涼と関わるようになってから、僕の生活は乱れっぱなしなのだがな。


「もし仮に何かを失ったとしても、それ以上のものを与えてあげる自信があるわ」


 そう彼女はしれっと言う。


 ――槙坂涼と並んで最寄りの駅へと歩く。


 周りには同じように六時間目まで授業を受けていた生徒が下校していて、皆一様に駅を目指していた。その中にあって槙坂先輩は憧れの眼差しを向けられ、僕には羨望と嫉妬の視線が浴びせかけられる。槙坂涼を独占しているのだから当然だ。尤も、最近ではこれにも慣れてきて、まぁ、意外と悪くはない気分だ。


「お友達といえば、」


 と、槙坂先輩。


「この前、三枝さんと話をしたわ」

「こえだ? らしいね」


 僕が熱を出したときのことだ。姿の見えない僕を心配して、彼女はこえだに声をかけたのだという。


「なかなか面白いやつなんで、よかったら仲よくしてやってくれ」

「わたしはいいけど、向こうにその気はあまりないみたいよ」

「は?」


 彼女の思わぬひと言に、僕は間抜けな発音をする。


「そうなのか?」


 誰とでも仲よくなれるやつだと思っていたが。小動物らしく警戒心が強いのだろうか。


「槙坂先輩、こえだに何かしたんじゃないのか?」

「かもしれないわね」


 彼女は苦笑する。――それは肯定だろうか。


「何をしたか知らないが、見た目も性格もかわいいやつだし、ノリもいい。ああいう元気なのがひとりくらい近くにいてもいいと思うんだがな」

「……悪いけど、わたしもその気がなくなってきたわ」

「……」


 横目で隣を見れば、そこには心なしか頬を膨らませ気味の槙坂先輩の姿があった。こえだの何が気に入らないんだろうな。


「あの子、あなたのことを『真』って呼び捨てなのね。よくないんじゃない?」

「別に。気にするほどのことじゃないさ。あいつが敬意の欠片もなく僕のことをそう呼んでるなら兎も角、そうじゃないのはわかってるんだ。呼称になんて拘らないよ」


 確か、僕の呼び方なんてテキトーでいいぞ、とこちらから言ったはずだ。


「そういうあなたはわたしに対して敬意があまりなさそうね。わたしのほうが年上なのに」

「こう見えても人を見る目はあるのさ」

「生意気な後輩。……悪くはないけど」


 そう言って槙坂先輩は機嫌のいい猫みたいに笑う。


「それにしても藤間くん、ずいぶんとあの子に甘いのね」

「前にも言っただろ。僕はあいつに対して一定以上の愛情を持ってる。だからだろうね」

「ふうん」


 と、槙坂先輩はわずかに思案。


「わたしも真って呼ぼうかしら」

「なら僕は涼と呼ぶことになるな」

「あら、そうなの? わたしはそれも大歓迎よ、真」

「僕はぜんぜん大歓迎じゃないんですよ、槙坂センパイ」


 気がつけば前方に駅が見えはじめていた。




                  §§§




 書店に行くのはやめることにした。


 わざわざ今日行かなくてはいけない強い理由もなく、現状、優先順位は低いと言える。ならば時間はもっと有意義なことに使うべきだろう。


 ――そうして今、僕たちはカフェにいた。


 店の名前は『天使の演習』という。


 槙坂先輩のお気に入りだというそこは、彼女が足を運ぶに相応しい上品な内装をしていた。場所は一部の情報誌が好きそうな言葉を使うなら『隠れ家みたいな』というやつで、閑静な住宅街の一角にある。道々聞いた話では若い夫婦が経営しているのだとか。店内を見回してみれば、そう多くない席は半分も埋まっていなかった。……これで大丈夫なのだろうか。


「ここへはよく?」

「時々。ひとりになりたいときにね。学校の友達にもおしえてないわ」


 学校じゃ行く先々で何かと注目される身だからな。同情する。


 槙坂先輩がこの上品な店内でコーヒーを飲んでいる姿か。絵になるな。そんなときの彼女は、ひとりで何を思ってカップを口に運んでいるのだろうか。


「だから、藤間くんが初めて」

「いいのか? 僕が誰かに言うかもしれない。我らが槙坂先輩御用達の店だって」

「大丈夫よ。まだいくつかこういうお店を知ってるから」


 彼女はどこかしら自慢げに言う。この手の店を探すのが好きなのかもしれないな。


 そこでコーヒーが運ばれてきた。


 持ってきたのは大学生くらいの女の人だ。槙坂涼に負けず劣らずの美人で、槙坂先輩は彼女のことを「キリカさん」と呼んで、注文のときも今も、仲よさそうに話をしていた。僕の紹介までしたあたり、かなりの常連らしい。


 コーヒーはこの店自慢のオリジナルブレンドだ。しかし、カウンタの向こうに目をやれば、店長らしき人物はいない。いるのはこれまた大学生くらいの青年だけ。客の入りも前述の通りだから、バイトふたりに任せられるのかもしれない。


 僕はまず香りを楽しみ、それからブラックのままでひと口飲んだ。なかなかにいける。


「本屋、寄らなくてよかったの?」


 彼女はコーヒーフレッシュを垂らしたカップの中身をスプーンでかき混ぜながら僕に聞いてくる。


「強いて何かほしいものがあったわけじゃないからね。行くのはいつだっていいさ」

「残念ね。藤間くんがどんなコーナーを見て回るのか興味があったのに」


 口では残念と言いつつ、実に楽しそうだ。


 言っておくが、僕は本を見て回るのにこそこそしなくてはいけないようなことは何もない。ただ、横に槙坂涼がいれば多少は気取るかもしれないが。


「でも、おかげで時間に余裕ができたわ。これからどうする?」

「どうするも何も、ここでゆっくりするんじゃないのか?」


 何のために本屋に寄るのをやめたと思っているんだ。


 が、しかし、彼女は、




「わたし、また藤間くんの家に行きたいわ」




「……」


 またどきりとするようなことを。僕は努めて平静を装い、言い返す。


「……二度とこないでくれと言った」

「そうだったかしら?」


 だが、それにも大人の笑みで惚けるだけ。


「そうそう、あなたの好きなハッシュドビーフも家で練習してみたの。きっと満足してもらえると思うわ」

「食べもので釣ろうとするな」


 僕は子どもか。


「わたしはもっと別のもので釣ろうとしてるのよ? でも、わかってもらえないんじゃわかりやすいもので釣るしかないじゃない?」

「……」


 いったい最初の餌は何だったのだろうな。


「あの家のキッチン、とても使いやすくて気に入ったわ。あそこならもっと楽しんで料理ができそう」


 さっきまで危ない発言をしていたと思ったら、今度は一転してこれだ。


 そう言えばこの前うちにきたとき、夜と翌日の朝に簡単な食事を作ってくれたんだったな。


「想像した? わたしがキッチンに立つところ。いやらしい」

「あのな……」


 少しもの思いに耽っただけで、すぐにその隙を突いてくる。彼女と話すときは常に油断ができない。


「ま、想像というか、思い出しはしたさ。僕はいつもテキトーな料理しか作らないからね。立派なシステムキッチンも宝の持ち腐れ。あなたみたいな人が使うのがいちばんいいんだろうな」


 カウンターダイニングもひとりだとバカみたいだしな。誰か作ってくれる相手がいて、料理が出てくるのを待つだけの身なら楽だとは思う。


「やっぱり藤間くんの家ってお金持ちなの?」


 それは前にもされた質問だな。まぁ、隠すようなことでもないし、槙坂先輩には知っておいてもらってもいいかもしれない。


 僕はコーヒーを飲み、間をとってから答える。


「金持ちなのは僕の父親さ」


 その微妙な表現に、槙坂先輩はかすかに首を傾げた。


「父は地位とお金だけは持っている人でね」


 名誉については知らないが。


「母はその愛人で、僕はそのふたりの間に生まれた子、いわゆる庶子ってやつだ。父は――いいのか悪いのか、愛人にも家族と同じように愛情を注ぐ人らしくて、僕にも惜しみない援助をしてくれるんだ。あのマンションもそう。知っての通り多少過剰なところはあるが」


 高校生のひとり暮らしに似つかわしくない高級マンションには、さすがに苦笑せざるを得ない。


 なお、ふたりが出会ったのは、母が父の経営するホテルでフロント係をしていたのがきっかけらしい。母が愛人なのは公然の秘密だが、おかげで父の影響力もあって今はフロントマネージャにまで昇格し、男勝りの仕事ぶりを見せている。


「そんな顔しないでくれ」


 向かいで少し困ったような顔をしている槙坂先輩に僕は言う。


「誰しも大なり小なり持ってる家庭の事情さ。気にしなくていい」

「え、ええ」


 彼女は動揺したのか、気持ちを落ち着かせるようにコーヒーを口に運んだ。


「でも、どうしてそれをわたしに?」


 カップを置き、問う。


「さぁ? 単なる気まぐれさ。ひた隠しのするほどのことじゃないしね。美沙希先輩はもう知ってる。こえだにはまだだけど」

「じゃあ、今のわたしは三枝さんと古河さんの間くらい?」

「あなたはもっとよく自分を知ったほうがいい」


 そんなわけないだろう。


「そう。藤間くんのところは今日はダメなのね」


 話は戻り、彼女は残念そうにそうこぼす。ダメなのは今日だけじゃないというのは、きっとわかっていて無視しているのだろうな。




「じゃあ、わたしの家に行く?」




「大丈夫か? まだ動揺してるんじゃないか?」

「失礼ね。正気よ」


 なら、なおのことたちが悪いな。


「近いわよ?」

「誰も聞いていない」

「でも、わたしの家も知っておいてもらわないと。病気のときに飛んできてもらえないじゃない」


 つまり、彼女が倒れたら僕が看病しにいくわけか? 冗談じゃない。


「親がいるだろう」

「父は当然勤めに出てるし、母も自分の絵画教室を開いていて、あまり家にいないの」


 ああ、でも――と、つけ加える。


「先の話は兎も角、今日は母も早く帰ってくる日だから、今ごろはもう家にいるわね」

「それは残念」


 もちろんこれは嫌味だ。僕はわかりやすく、わざとらしいほど無感情に発音する。


「わがままな子ね。あなたの家もダメ。わたしのところもいや。いったいどこだったらいいの?」

「どっちもいやに決まってるだろ。せめて外にしてくれ」


 わがままはどっちだ。


 しかし、僕のその返事を聞いて、槙坂涼は笑みを浮かべた。きっとファウストがサインした瞬間のメフィストの顔はこんなだったにちがいない――そんな笑みだった。




「なら決まりね。今度は休みの日にちゃんとしたデートをしましょ」




「……」


 ああ、なるほどな。彼女がメフィストなら、愚かなファウストが僕なのは当然の配役か。

 悪魔め。


 とりあえずテーブルの上に自分のコーヒー代だけを置いて立ち去りたいところだが、たぶんそれは根本的な解決になっていないのだろうな。

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