第8話

「槙坂さん、こないな……」

「そうだね」


 浮かない感じの浮田の声に、僕は興味のない振りで本を読みながら答えた。


 次の授業はあの槙坂涼も履修している。だが、休み時間も半分が過ぎた今をもって、まだ彼女は現れていない。珍しいことだ。


「休みなのかな……」

「さぁね」


 どうなのだろう。風邪でもひいたのなら、見舞いにこいと喜々として僕に連絡してきそうなものだが。いや、僕が彼女の家を知らない現状ではそうする意味はないか。では、本当に病欠? それならそれでとっくに噂になっているはず。


 本当にどうしたのだろうか。


「……」


 僕は本から顔を上げ、階段席の程よい高さから教室を見回してみる。


 どの教室でも基本的に席は自由だが、彼女にかぎらず皆、毎回だいたい同じような場所に座り、次第にそれが定着していくものだ。槙坂先輩が座るのは決まって前から四分の一くらいの、中心からやや右か左より。今もそこを見てみれば、彼女とよくいる女の子のグループはいるが、肝心の槙坂涼の姿だけがない。


 この授業が終わるまで現れなかったら、美沙希先輩にでも聞いてみるか――と、思ったときだった。


 にわかに教室が騒がしくなった。


 この感じは、そう、毎度お馴染み槙坂涼が登場したときのものだ。今日は焦らした分だけいつもよりざわついている。出入り口側を見れば案の定、真ん中のドア付近に彼女の姿があった。


 通路を歩く彼女は近くに座っている生徒たちに、どうして遅くなったのか尋ねられているようだ。そして、彼女はその都度、歩調を緩めたり立ち止まったりして答えている。見た感じ「ちょっと用事が」と誤魔化しているようだが。


 ある程度までくると、一度、いつも一緒に座っている友達のグループを見た。




 そして、今度は階段席を見上げ、僕を見つける。




 こっちへくるなよ――という願いも虚しく、彼女は階段を上がってくる。


「こんにちは、藤間くん」

「どーも」


 にこやかに挨拶をしてくる槙坂先輩に、僕は努めてぶっきらぼうに返す。


「今日は遅い登場だね」

「心配してくれた?」

「そりゃあしたさ。僕以外のみんながね」


 僕は読んでいた本を閉じて置いた。


「それで、遅くなったのは何か用事でも?」

「いろいろあるのよ。女だもの」


 これはデリカシィの欠ける質問をしてしまったかもしれないな。反省。


「ちょっとした企みごと」

「……」


 僕の反省を返してくれ。


「それはけっこうだが、願わくば僕を巻き込まないでもらいたいものだな」

「あら、それはむりな相談だわ」


 槙坂涼はそんな恐ろしいことを、にっこり微笑みながら言う。


 そこでチャイムが鳴った。始業の合図だ。


「座ったら?」

「大丈夫よ。先生がくるまで、まだあるわ。……ところで、今日は何を読んでたの?」


 僕の言葉を軽くかわして、彼女は聞いてくる。ここに居座ってまで聞くことだろうか。

 書店のブックカバーのついた本を、僕は一瞥した。


「哲学者の名言を中心にした哲学入門さ」

「ずいぶんと軽い感じの本に聞こえるわね」


 僕の口から出た答えに、槙坂先輩は拍子抜けしたようだった。確かに翻訳ものと古典名作に偏る傾向はあるが、かと言って重厚なものばかりを好んでいるわけでもないつもりだ。


「哲学なんてただでさえ小難しいんだ。少しかじる程度ならこれくらいとっつきやすい本で十分さ」

「それも一理あるわね」


 彼女は苦笑する。


「何か好きな言葉はあるの?」

「『万物は数でできている』」

「ピタゴラス?」

「当たり」


 三平方の定理で有名なピタゴラス。

 音楽の和音が比例関係になっていることを発見した彼は、数の性質が世界の構造を支配していると説いたのだ。


 数学者であったピタゴラスは、同時に宗教集団の教祖でもあった。魂は不死であり『運命の輪』と呼ばれる、いわゆる輪廻転生の輪があると信じていた。そして、面白いのは罪や汚れにまみれた魂がその輪に巻き込まれ、彼らはそこから離脱することを目指していたというのだ。


「後は、言葉ではないけど、哲学を用いて理性的に神の存在を証明しようとしたトマス・アクィナスかな」


 と、そこまで言ったところで、前方のドアから先生が入ってきた。またざわつく教室。取っていた席を離れていた生徒が皆、いそいそと戻っていく。


「もうきたのね」


 一方、どこかのん気に聞こえる槙坂先輩の声。


「じゃあ、仕方ないから藤間くんの横に座らせてもらおうかしら」

「……」


 まさか最初からこのつもりで遅くきたのか?


「はい。早く席に着くように」


 マイク越しの先生の声は、特に槙坂先輩に向けられたものというわけではなく、まだ席についていない生徒全員を急かしたものだ。

「どーぞどーぞ。ささ、こちらへ」


 浮田だった。先ほどまでの今にも死んでくれそうな声は一転、鬱陶しいほど元気になっている。それもそのはず。僕の隣の席は僕と浮田との間でもある。そこに座ればこいつにも多大な恩恵があるのだ。……そうはいくか。結局、最後はこいつの言葉が決め手となった。


「わかった。なら僕が詰めるから、ここに座ってくれ。……ほら、浮田、お前はもうひとつ向こうに詰めろ」


 なぜかって? 男と並んで座っても気持ち悪いだけだからだ。


「お前ぇ……」


 まるで井戸の底から聞こえてくるみたいに、恨めしそうにうめく浮田。僕の後ろではこのやり取りを見て、槙坂先輩がくすくすと笑っている。


 結局、一列五人が掛けられる机は、端から槙坂先輩、僕、空席、そして、浮田に知らない生徒、という奇妙な並びで座ることになった。


 ――授業がはじまった。


 最初しばらくは、槙坂涼がなぜそこに座るのかと皆当惑していたようだが、彼女自身がいつもと同じように真面目に授業に臨んでいたため、次第にその混乱も落ち着いていった。


 僕も似たようなものだ。五人が掛けられるとはいえ、実際に五人で座ると想像以上に窮屈だ。今は四人で座っているが、僕と槙坂先輩の間には余裕がない。しばらくはこの肘と肘、肩と肩が触れそうな距離に落ち着かない思いをしたが、授業に向かううちにそれも意識しなくなっていた。


 尤も、それが油断につながったとも言えるが。


 授業も半ばに差しかかったとき、不意に彼女が囁いてきたのだ。




「デート、いつにする?」




「ッ!?」


 あまりの不意打ちに喉が詰まって、咳き込んでしまった。


「どうした、藤間?」

「い、いや、何でもない」


 隣から聞いてくる浮田にそう言い置いてから、槙坂先輩を睨みつけ――たかったのだが、授業中なのであからさまなことはできない。そこまで計算に入れているのか、彼女は心持ち僕のほうへ体を傾け、さらに問いを重ねてくる。


「ねぇ、どうする?」

「今は授業中ですよ、槙坂センパイ。私語は慎みましょう」


 嫌味を含めて言い返すのが精一杯だった。


 すると彼女は、今度は単語帳を取り出してきた。意外と古典的な勉強の仕方をしているんだな。そう思っている僕の前で、次にそれをひと束リングから取り外し、僕と自分の間に置いた。そこから一枚取り、なにやら書く。




『デートはいつがいい?』




 こちらにすっと差し出されたカードには、そんな文面が。

 僕はそれをしばらく見つめてから、おもむろに裏返し、ペンを走らせる。……先の問いを英訳して突き返してやった。


 それを見た槙坂先輩は、また新しいカードを取った。




『よくできました。でも不正解です。わたしが聞いているのはそういうことじゃないのよ?』




 小さいながら読みやすい文字で書かれていた。


 続けてもう一枚。




『この前約束したでしょ?』

『忘れた』




 もちろん、忘れた振りをしているだけだ。それ以前にあれを約束というのだろうか。誘導尋問の上、僕は了承の言葉を口にしていないはずなのだが。




『遊園地がいいわ』

『子どもっぽいね』

『まだ大人じゃないもの』




「……」


 この場合、何をもって大人とするのだろうな。




『ひとりで行けば?』

『デートって言ってるでしょ』

『断る』




『ならあなたが行き先を決めて』

『断る』

『それ、さっきと同じカードよ?』

『返事が同じだからね』




 時代はエコだ。人間は大量生産大量消費の時代にさよならを告げるべきだろう。




『この前のカフェ、アルバイト募集中だって』




 いっこうに首を縦に振らない僕に、今度は雑談を投げかけてきた。




『応募してみれば?』『あなたが店にいれば、きっと売り上げは倍増だ』

『藤間くんも一緒にどう? 社会勉強は必要だわ』




 社会勉強ね。毎日の生活に新しい刺激を追加するならそれもいいかもしれない。あの店の程よい暇さかげんも、そう考えればちょうどいい感じだ。




『考えとく』




 僕の返事を読んだ彼女は小さく笑った。


 それにしても――と、ふと思う。




『何で授業中にこんな話をしてるんだ?』




 最初のデート云々の話は兎も角として、雑談にまで翼を広げる必要はない。しかも、わざわざこっそりと筆談をしてまで話すようなことだろうか。


 対する彼女の返答は明快だった。




『楽しいからでしょ』

『なるほど』




 と、そこで槙坂先輩がまたこちらへ体を傾けてきた。やや笑みを含んだ小声で囁いてくる。


「でも、そろそろちゃんと授業を聞いたほうがいいわね」

「同感だ」


 僕もさっきからノートだけは取っているが、先生の話がまったく頭に入っていなかった。


 筆談に使ったカードをふたりで片づける。どうでもいいような話でずいぶんと浪費したものだと改めて思う。


 少し可笑しくなって、笑えてきた。




                  §§§




 成り行きか必然か、槙坂先輩と一緒に学食で昼食を食べた後、昼休みのうちに図書室へ行くことに決めた。


 図書室は学務棟四階。階段を歩いてのぼる。


 それはいいのだが。


「エレベータは使わないの?」


 なぜこの人までついてきてるのだろうな。


「若いんだから、これくらい歩けるだろ」


 ここ、明慧学院大学附属高校は単位制で生徒が教室を行き来するスタイルをとっているせいか、各棟に一基ずつエレベータが設置されている。もちろん、車椅子や松葉杖の生徒を想定したものだ。


「ああ、そういえばあなたは僕よりもひとつ年を喰っているんだったな」

「そういうときはね藤間くん、ひとつ大人って言うのよ」

「……」


 さっきは大人じゃないって言ってたくせに――と思ったが、言うのはやめておいた。やりにくい展開になりそうな気がしたからだ。


「単に極力エレベータはあけておきたいと思ってるだけさ」


 実際、三年生には車椅子の生徒がいて、その人のためにもエレベータはいつでも使えるようにしておきたいのだ。尤も、遠慮なく使うものぐさな生徒も多いから、僕ひとりがそう心がけたところであまり意味はないのかもしれないが。


「そういう優しい気持ち、唯子が聞いたら喜ぶわ」

「知り合いなのか?」

「ええ。いくつか授業が同じなの」


 そうだった。あの人は伏見唯子という名前だったな。確か美沙希先輩もそう言っていた。


 二階を過ぎて三階へ。

 二階には職員室があり、先生だけでなく生徒も出入りするのでわりと賑やかなのだが、三階からは特別教室のフロアになって一気に寂しくなる。


 思わず立ち止まって廊下の先を見れば、突き当りまで生徒の姿はまったくなかった。


「どうかしたの?」


 僕が足を止めたのに気づかず階段を上がったのか、槙坂先輩の声が上から降ってきた。


「いや、別に。……ッ!?」


 振り返った僕の眼に飛び込んできたのは、階段の中ほどに立つ彼女の足だった。

 小さな靴下とローファーに包まれた足先に、細い足首。そこから視線を上げれば、息をのむような脚線美が短いスカートの奥へと続いていた。


「……あまりそんなところで無防備に立たないでくれ」

「!?」


 僕は慌てて目を逸らし、彼女はようやく気づいたようにスカートの裾を手で押さえた。……大丈夫だ、ギリギリ見えてないから。


「藤間くんって意外と紳士なのね」

「意外はよけいだ」


 まったく……――と、その迂闊さに呆れながら、階段に足をかけたそのときだった。


「ふうん」


 何か面白いものを見つけたような槙坂涼の声。


 そして、




「じゃあ、こういうのはどう?」




 それはまるで悪魔の囁き。


 そこに混ぜられた抗いがたい力に負けて顔を上げれば、彼女はちょうど太ももの横あたりに位置しているスカートの裾に両手を添えていた。


「な……」


 何をするつもりだ。そう言おうとしたが声は出ず、目は彼女の次の行動に釘づけになっている。


 彼女はそのままスカートの裾を、太ももの上を滑らせるように、少しずつ、ゆっくりと引き上げていく。すぐに本来なら見えることのない、スカートの奥に隠されているはずの肌が露になった。それだけで眩暈を覚えるような強烈な背徳感だった。


 やがて決定的な境界線を越え――、


「ッ!?」

「なーんて」


 瞬間。


 彼女はおどけた調子で手を広げてみせた。手から離れたスカートがもとの位置に戻る。


「冗談よ」

「あのな……」


 僕は金縛りが解けたみたいに体の自由を取り戻し、体中の力が抜けるような盛大なため息を吐いた。


「友達から聞いたの。男の子ってこういう『見えそうで見えない感じ』が好きなんだって。……ほんと?」

「……否定はしない」


 だからって僕で実験しないでくれ。破壊力がありすぎるのだから。


「どきどきした?」

「まぁ、ね」


 まるでいたずらを成功させた子どものように、軽快な足取りで槙坂先輩が階段を降りてくる。


「あなたの胸、触らせて」


 そのまま獲物を追い詰めるみたいに距離を詰め、僕がまだ何も言っていないのに手を伸ばしてきた。彼女のしなやかな指先がブレザーの内側に滑り込み、心臓の真上に掌があてられた。背筋がぞくりとする。


「すごい。本当にどきどきしてる」

「だからさっきそう言った」

「わたしのせい?」

「ほかに誰がいるのかおしえてほしいね」


 それを聞いて可笑しそうにくすくす笑う槙坂涼。


 まったく、いい気なものだな。確かに僕の心臓は早鐘を打っている半分はさっきのあまりにも危ない悪戯のせいだが、もう半分は今こうして触れられていることが原因だというのに。


「いくつか勘違いがありそうだから言っておくけど、ほかの女の子じゃこうまではならないよ。相手があなただからこそだ」

「そうなの? つまり藤間くんをこんなにどきどきさせられるのは、わたしだけってことね。嬉しいわ」


 それだけ槙坂涼という人間は僕にとっての危険物だということだ。少しは自覚してくれ。


「それと――」

「それと?」


 言い淀む僕に先を促しながら、ようやく彼女は触れていた手を引いてくれた。


「……『見えそう』じゃなくて、

「ぇ?」


 直後、笑顔を凍りつかせ、目を見開く槙坂先輩。手は咄嗟にスカートの裾を押さえているが、それは今さらだろう。


 表情と口の動きで「ほんと?」と聞いてくる。


「……薄いピンク」

「~~~っ!」


 そして、耳まで真っ赤にして顔を伏せてしまった。どうやら完全に自分でも想定外の自爆だったらしい。要因は高低差か。


「……」

「……」


 お互い黙り込む。


 もう少しからかってやろうかと思ったが、さすがにこれではむりだな。というか、正直、今のこの状況をどう扱っていいか計りかねていた。世の中、わかっていても指摘しないほうがいいこともあるということだろう。


「えっと、悪い。僕は先にいくから」


 とりあえず消えたほうがよさそうだと思ったのだが――しかし、その僕のブレザーの端を、彼女は素早く指でつまんだ。それでもまだ顔は伏せたまま。


 少しして。


 やがて顔を上げた彼女は、びっくりするほどの笑顔だった。




「デート、次の日曜でいいわよね?」




「……」


 くそ、そうきたか。

 そっちが勝手に自爆しただけだと思うのだがな。


 しかし、


「ああ、任せる」


 これは拒否できなかった。

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