第9話
今日もすべての授業が終わった。
僕は、今日と明日の授業をもとに、家に帰ってからの勉強の計画を簡単に立て、必要なものだけを鞄へと放り込んだ。いらないものはロッカーへと残していく。
それが終わるとロッカーを閉め、鍵をかける。
「さ、今日もデートに行きましょうか」
「!?」
いきなり腕をからみ取られ、がっちりとホールドされた。
こんなことをするのは、もちろん、槙坂涼だ。
彼女は、果たしてわざとなのか、周りにも聞こえるような声で発音し、周囲はざわっとどよめき立った後、ぴたりと静かになった。息を殺してこちらの動向を窺っている。妙な緊張感が張りつめていた。
問題はもうひとつある。
制服が夏服に移行したことで、お互い半袖のブラウスなのだ。素肌と素肌が触れ合っている。いろいろと汗が噴き出しそうな状況なのだが、まさか本当にそうなって槙坂先輩に不快な思いをさせるわけにはいかない。どうやら僕は、本来自律神経によってなされる発汗を自分の意志でコントロールするという、高度な技術を要求されているようだ。
からんだ腕を辿ってその顔を見れば、彼女はこちらに拒否権はなさそうな満面の笑みを浮かべていた。……ここで素直にうなずくのも業腹だな。
僕は、まずはさり気なく腕をほどく。
すると――、
「断るとあのことを言うわよ?」
槙坂先輩は、今度は僕にだけ聞こえるように言った。
どのことだろうか。実際、人に言ってほしくないことがいくつかあるから困る。たぶん、あれだろうけど。にしても、こうなるといよいよもってどうにか反抗したくなる。
「あのことというと、いつぞやの階段でのことだろうか。確かにあれは僕も悪いが――」
「ごめんなさい。わたしが悪かったわ。デートしてあげるから許して」
「……わかった。とりあえず帰ろうか」
行き着くところは一緒かよ。
こうして僕たちは、まずはロッカーのある校舎から出ることにした。どちらにせよ、こんなに人目の多いところに長居は無用だ。
槙坂先輩と並んで校門へと向かう。
「ひどいわ、藤間くん。わたしが忘れたいと思ってることを蒸し返すなんて」
「……悪かった」
口を尖らせて拗ねるように怒る槙坂先輩に、僕は謝る。実際あの返しは、応手としては下の下だと言わざるを得ない。
「ああ、きっと藤間くんのことだからこれをネタに脅して、また同じことをやらせたり、今度は別のことを強要してくるんだわ」
「……」
それがさっき僕を脅した人間の言う台詞だろうか。
頬に手を当て、わざとらしくため息を吐く槙坂涼。あぁ困ったと言わんばかりだ。彼女の目には、僕はいったいどれほど悪辣な人間に映っているのだろうな。
「悪かったよ。謝る。謝るし、あのときのことも忘れる」
「や、やっぱり覚えてるのね……」
槙坂先輩が顔を赤くしてうつむく。どうやら僕はまたよけいなことを言ってしまったらしい。
「それはそうと――これからどうするんだ?」
気まずい沈黙が降りないうちに、僕は次の話題に移ることにした。
「そ、そうね。どこに行きましょうか?」
「僕はまだ行くとはひと言も言ってないんだがな。……まぁ、別にいいか」
多少負い目がないこともないし。
やがて校門に差しかかる。
と、そこで見知った姿を見つけた。
女の子だ。前に会ったときは黒のセーラー服を着ていたが、今日は夏服に変わっている。足は、それが彼女のトレードマークなのか、相変わらずの黒のオーバーニーソックス。
彼女は門柱の日陰になっている側にもたれ、スマートフォンをいじっていた。そんな見慣れない制服の見慣れない女の子を、下校する生徒たちは横目で見ながら門を出ていく。男子生徒の中には、彼女が周りを気にしていないのをいいことに、足にも遠慮のない視線を向けるものもいる。まぁ、その部分が妙に目を引くことは認めよう。実際、その魅惑的な足を見ないようにしている紳士な男子生徒もいたのだが、彼女が足を少し動かしただけで、まるで動くものを目で追ってしまう習性のように、自然とそちらに目がいっていた。魔性の足だ。
「あら、あの子」
と、槙坂先輩。彼女も気がついたようだ。
僕は近づき、声をかける。
「切谷さん」
「あ、真……」
上げた顔は意外と和風で、前髪を切りそろえてあることもあって、どことなく日本人形を思い出させる。僕の義妹、切谷依々子だった。
彼女は突然現れた僕に驚き、戸惑ったように発音した。スマートフォンに集中しすぎだ。
切谷さんは僕を見――そして、ちらと一瞬だけ槙坂先輩にも目をやった。
「えっと、僕に会いにきたってことでいいのかな?」
「……ほかに知り合いいないし」
これで単に明慧にいる友達を待っていただけなら自意識過剰で恰好悪いことこの上なかったのだが、幸いにしてそうではなかったようだ。
「だったら、いきなりきて待ってないで……って、あ、そうか」
言いかけて途中で気づいた。
「悪い。連絡先をおしえてなかったな」
「いい。私も聞きそびれてたし」
にしても、よく学校がわかったな。まぁ、前回お互いに制服を着ていたから、少し手間をかければ突き止められるか。因みに、いちばん手っ取り早いのは、我らが尊敬する親父殿に聞くことだろう。僕ならそうする。
「スマホ、持ってる?」
「そりゃあ持ってるけど?」
答えながら僕はスラックスのポケットから端末を取り出し、彼女に見せた。
「アドレス交換」
切谷さんもずいとスマートフォンをこちらに向けてくる。そうだな。忘れないうちにやっておいたほうがよさそうだ。
とは言え、こちらにはいろいろと事情がある。ディスプレィを覗き込まれないようにしながら万が一のときのためにロック画面を替えようとをしていると、それが彼女にはもたもたしているように見えたようだ。
「遅い。貸して」
「「あっ」」
奪い取られ、思わず声を上げたが、そこにはなぜか槙坂先輩の声も重なった。
切谷さんは僕の端末を操作しようとして、その動きを止めた。顔を上げて、僕を見る。
「あー……」
と、僕の口から意味のない発音がもれる。何も言うなよ、と祈る思いだ。
それから切谷さんは、続けて槙坂涼へと視線を移した。
「……」
すると槙坂先輩はばつが悪そうに、わざとらしく顔を逸らした。白々しい演技を見ているようだ。なんだ、その反応は。
まさか、と、いやな予感がよぎる。
彼女の一連の反応を見るに、おそらくそうなのだろう。確信する。僕も遊園地ではずいぶんと潔くない姿を晒しているし、頭の回転の速い槙坂先輩が気づいていてもおかしくはない。……思わず天を仰ぎたい気分になった。
「ふうん。まぁ、いいけど」
切谷さんはそれだけを言い、器用にも左右の手でそれぞれの端末を操作する。すぐにアドレスの交換とチャットアプリのIDの登録が完了した。手際のよさに感心する。
「終わり」
ほとんど放るようにして、スマートフォンを僕の手に戻した。
「あなたも。貸して」
そして、今度は槙坂先輩にも端末を出すよう要求する。
「わたしも?」
「いいから」
槙坂先輩は、何が「いいから」なのかよくわからないまま自分のスマートフォンを取り出し、切谷さんに手渡した。
受け取った彼女は、やはり人のものにも拘らず慣れた調子で扱い、
「真」
「ん? ……うわっ」
カシャリ
突然、僕にそれを向けたと思ったら、シャッターが切られた。カメラ機能を使ったようだ。
「何をするんだよっ」
だが、僕の抗議の声には欠片も耳を貸さず、再び端末の画面に目を落とす。
「イマイチね。ま、キョーハクのネタには使えるんじゃない」
つまらなさそうに言い、端末を槙坂先輩へと返した。僕のときより格段に丁寧な扱いだ。アドレスの交換はなかった。
槙坂先輩は手もとに戻ってきたスマートフォンを自らも操作し――ぷっ、と噴き出した。いま撮った写真を見たのだろう。芸能人じゃあるまいし、いきなりカメラを向けられれば面白愉快な写真にもなる。
「……いったい何しにきたんだ、君は」
もういい。話を進めよう。
「ああ、そうそう。いちおー報告。――只今絶賛親と喧嘩中」
そう言った切谷さんは、今までよりもほんの少しだけ楽しげだった。……なるほど。僕はそれだけで察することができた。
そうか、押しつけられた道は拒んだか。古くから続いてきた家業を娘に継がせるつもりだった親としては、そりゃあ怒るだろうな。
「それはそれでいいんじゃないか」
大丈夫だ。本気で彼女にその気がないとわかれば、親は次の手を打ってくるさ。
「そんなわけで真ンちに泊めて」
「ちょっと待ちなさい」
割って入ってきたのは槙坂先輩。
僕としては「別にかまわないけど」と言いかけていたところだっただけに、おかげで口を開いたわりには言葉を発するタイミングを逃してしまった。
「冗談よ。ムキになんないの」
切谷さんは槙坂先輩を一瞥して、そうばっさり斬り捨てた。肩をすくめる動作が似合いそうな、鼻で笑うような物言いだった。
「家出は最後の手段に取っておくことにする」
「ああ、うん、それがいいね」
僕は槙坂先輩の倫理観を支持するかたちで、そう同意した。
その槙坂先輩はというと、それでも釈然としないらしく、むっとしたまま切谷さんを見ている。
「帰るわ」
「僕たち、これからどこかに寄るつもりなんだけど、切谷さんも一緒にどうかな?」
「いい。邪魔しても悪いし」
まったく興味がないらしく、彼女は踵を返す。
「またね、真」
そうしてあっさりと帰っていった。
§§§
校門を出て、駅へと向かう。
前方を見れば切谷さんの後ろ姿が見えるが、もともと歩くのが速いのか意識してそうしているのか、少しずつ距離が開いていた。尤も、僕たちのほうも彼女の気遣いを尊重して、ゆっくり歩いているところもあるのだが。
隣では槙坂涼が自分のスマートフォンの画面を見ながら笑っていた。……どうせさっき撮った僕の写真だろう。
「いつまで見てるんだ。消してしまえ、そんなもの」
「じゃあ、代わりにちゃんとしたのを撮らせて」
冗談半分に端末をこちらに向けてくる槙坂先輩。
「ガラじゃない」
「あら、これをばらまかれてもいいの?」
彼女は、長く繊細な指でもってスマートフォンを振ってみせる。
「あのな……」
本当に脅迫に使うかよ。今日はつくづく脅迫づくしだな。
槙坂先輩はそこでようやく端末を鞄の中にしまった。……画像は、消した感じではないな。
「前から気になっていたのだけど――」
そして、どこかあらたまった調子で切り出してくる。
「見られたくないって言ってた藤間くんのスマホのロック画面って、どういうものなの?」
「……さぁね」
さすが槙坂涼。これを好機と見て攻めにきたか。
「わたし、前に一度考えてみたの。当ててみましょうか?」
「……」
当てるも何もないと思うのだがな。
「やっぱり男の子だから、ゲームとかアニメのイラスト?」
「……ハズレ」
僕も携帯ゲーム機を持っていて、人並みに遊んだりもするが、そこまでじゃない。そのへんは美沙希先輩とこえだの領分だな。時々ふたりでゲーム機を突き合わせて遊んでいたりしている。
「じゃあ、ちょっといやらしいの」
「それもハズレ。爆弾を抱えて歩く趣味はないよ」
ある意味それ以上のものを持ち歩いているような気がしないでもないが。特定の人間に見られたときのダメージは絶大だ。
「じゃあ――」
一拍。
そして、意を決したように槙坂先輩は発音する。
「好きな女の子の写真、とか?」
ここまでわざと外してきた彼女が、ついに切り込んできた。
「……」
「……」
「……そんなところ」
少し間をおいた後、僕は観念し、仕方なくそう答えた。ここで誤魔化すのも今さらというか、往生際が悪いというものだろう。
「そう。ぜひ見せてほしいわ。どんな女の子か興味があるの」
「断る。面倒だ。帰って鏡でも見てくれ」
投げやりに言い捨てると、槙坂先輩はくすりと笑った。
それきり僕たちは無言で歩く。さっきまで前方に見えていたはずの切谷さんの背中は、気がつけばもうなくなっていた。
程なく槙坂先輩が沈黙をやぶった。
「藤間くんって本当に天の邪鬼ね」
「そうか?」
多少僕が素直じゃない性格なのは自分でも認めるところだ。
だが、それでも言い訳はあるというもの。
「これでも、何がなんでもあなたの思い通りにはなりたくないという気持ちには素直なつもりさ」
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