挿話5 槙坂さん、今日はダメな日
「さて、約束は守らないといけないわね」
その日の午前中のまだ早い時間に、わたしは藤間くんに電話をかけた。
『……もしもし』
無視するか、さもなければ長く待たされるかと思ったけど、意外にもすぐに出てくれた。不機嫌ではないけれど、ぶっきらぼうな声。
「おはよう、藤間くん」
『ん? ああ』
短い応答。
いつも思うのだけど、どうしてわたしに対してだけこうも挨拶のできない子になってしまうのだろう。
『何か用か?』
「そうね。まずは朝の挨拶かしら。約束したでしょ? わたしも努力するって」
――これからはわたしからも誘うことにするわ。夜の電話も不可欠よね。それとおはようとおやすみのメッセージも
つい先日言ったことだ。
『朝晩はチャットじゃなかったか?』
「慌てないで。本題はこれからよ。……今日の夕方、あいてる?」
そう。本題はこちら。待っているだけじゃなく、わたしからも誘わないと。
『夕方? 今からじゃなくて?』
「ええ、夕方」
今からでもいいけど、行動が制限されそうだ。途中でお色直しというのも考えないでもないけど、それでは少しサプライズ感に欠けるというもの。
『夕方、か……』
「そんなに警戒しなくてもいいわよ。罠なんかじゃないから」
わたしが罠を仕掛けるのなら、もっとわかりやすいものにする。わかりやすいものにして、藤間くんには罠と知りつつ自ら飛び込んできてもらうのだ。
『まぁ、ならいい』
「じゃあ、待ってるわ」
六時半にわたしの家の最寄駅で、と決め、電話を切った。
§§§
そうして夕方、
約束の時間に約束の場所に行くと、すでに藤間くんが待っていた。
正面からではなく、彼の視界の端っこを通るようにして近づけば、まんまと気づかれないままそばまで行くことができた。
「こんにちは、藤間くん。それとも『こんばんは』かしら」
「え? ……あ、ああ」
藤間くんは、まずはぎょっとし、そして、次に唖然とした。
言葉を失くしたまま、わたしを上から下へ、下から上へ確かめるように見る。少し照れくさい。
今のわたしは――浴衣姿だった。
淡黄の生地に大小の桜が描かれた浴衣。髪はアップにまとめてある。決して死角から近づいたわけでもないのに、藤間くんがわたしを見落としたのは、普段とはちがうこの装いのせいだろう。
「どう? 似合う?」
「あ、ああ。よく似合ってる、と思う」
ちょっとびっくりした。この子がこんなにも素直にわたしを褒めるなんて。よっぽど意表を突かれたのだろう。わたしは藤間くんに気づかれないよう小さく笑う。
「この近くで夏祭りをやってるの。行きましょ」
彼が呆気にとられている今のうちに、わたしはその腕を素早くとった。自分の腕をからめる。
「あ、おい」
藤間くんをつれ、さっそく歩き出す。
「行き先はわかったから、その……」
「何?」
「い、いや、やっぱりいい」
歯切れが悪い藤間くん。どうにも気になる。
「あのね藤間くん。言いかけたことは最後まで言いましょうね?」
わたしは笑って優しく優しく諭す。すると、彼は短い逡巡の後に口を開いた。
「……腕を離してくれ」
「あら、別にいいじゃない、それくらい」
普段あまりこういうことはできないのだから、せっかくの機会を逃す手はない。わたしはさらにぎゅっと力を込める。
と、藤間くんがそっぽを向いたまま、ぽつりとひと言。
「……胸が、当たるんだ」
「え?」
わたしは思わずからめた腕に目を落とした。てんてんてん、と点線矢印が示した視線の先では、わたしの胸がしっかりと藤間くんの腕に押しつけられていた。
ようやくそれに気づき、弾かれたように手を離す。
「そ、そういうことは、もっと早く言って……」
わたしはあまりの恥ずかしさに俯きながら藤間くんの隣を歩いた。
思い返せば何度かこういうことがあったと思う。学生食堂と遊園地と――と、心の中で指折り数えていると、またよけいに恥ずかしくなってしまった。知らずにそんなことをしていたかと思うと、顔から火が出るような思いだ。それなのに藤間くんは今までずっと黙っていたのだろうか。
むー、と口を尖らせていると――、
「言いにくいんだよ案外、こういうのは」
「え?」
わたしは藤間くんを見る。不貞腐れたような顔は、少しだけ赤くなっていた。
「そ、そうなのね……」
考えてみれば、藤間くんは意外と恥ずかしがり屋だ。わたしの水着姿もちゃんと見れないくらいに。そんなこの子が腕を組まれて、それも胸を押しつけられれば、余裕なんてなかったことだろう。そう言えば腕を組んだときは、いつも何となくおとなしくなっていたように思う。
そんな藤間くんの心中を想像すると急にかわいく思えて、自然と笑みがこぼれた。いつも黙ってされるがままになって、何も考えないようにしている藤間くん。そんな姿を思い浮かべると、わたしの体の中心も騒ぐ。
少し、意地悪をしたくなった。
「じゃあ、今のうちに慣れておきましょう?」
「慣れ?」
藤間くんは訝しげに返してくる。
「だって、そうじゃない? これから何度もこういう機会が訪れるわ。そのたびにドギマギしてるつもり?」
「腕なんて組まなくてもいいだろう。そういう発想はないのか」
「ないわ」
きっぱりと言い切る。
「それに今さらじゃない。今までだって何度かあったことだし、この前なんて何もつけずに前から後ろから藤間くんにごめんなさい今のは忘れて」
言っている途中で死にたくなった。
藤間くんも思い出してしまったのか、顔を赤くして口を閉ざしている。はい、そうですね。本当にごめんなさい。ちょっと配慮が足りませんでした。わたしも恥ずかしくて崩れ落ちそうです。
「ほ、ほら、腕を出して。大丈夫よ。軽く組むだけだから」
強引に腕を引っ張って促すと、藤間くんは積極的に嫌がるわけでもなく、渋々ながら軽く脇を開くようにして腕を差し出してきた。後はわたしがここに手を添えるだけ。
が、そこでわたしは自分自身の異変に気がついた。手もぴたりと止まる。
心臓がやけにドキドキしてる。さっきまでは何ともなかったのに。藤間くんにあんな指摘をされたからだろうか、今からやることを妙に意識してしまっているみたいだった。
藤間くんが立っているのはわたしの左側。今もうるさいくらいに鳴っている心臓があるほうだ。このまま腕を組めば、心臓の音が聞こえてしまうかもしれない。組んだ腕を通して知られてしまうかもしれない。
「ごめんなさい。場所を代わるわ」
わたしは藤間くんの手を引っ張ると、お互いの立ち位置を入れ替えた。わたしが左側。彼が右側。
「なんなんだよ」
「わ、わたし、左のほうがいいの」
「左がいいって何だ」
それはわたしの挙動不審に呆れ、苦笑交じりに文句をこぼしただけのこと。それなのにわたしはうっかり真面目に回答しようとしてしまった。
「それは……」
左のほうがいいって、聞きようによってはいやらしい気がしないでもなくて――。
――あっ、待って。藤間くん、いつも同じところばかり。
――こっちが弱いって言ってなかったか?
――い、言ったけど、だからって……やっ、あ、ん……。もぅ……。
「痛いだろっ。なんで人の腕に頭をぶつけてくるんだよ」
「ご、ごめんなさい……」
藤間くんの声にはっと我に返る。気がつくとわたしは、彼の二の腕あたりに頭をごんごんとぶつけていた。
「えっと、つまり左側を歩くほうが落ち着くの」
「初めて聞いたよ」
もうどうでもよさそうな藤間くん。
「じゃあ、今度こそいくわよ」
わたしは心の中で「よし」とひと声かけ、おそるおそる彼の腕に触れる。今まであまり気にしていなかったけど、こうやって改めて見ると、文系男子のような見た目のわりには思っていた以上に逞しく見えた。筋肉がついているといったわかりやすい逞しさではなく、しなやかな中にエネルギィをため込んでいるような力強さがある。
ここにわたしの手をからめるわけだけど――さっきみたいに胸が当たったら、それだけで電流が走ったみたいに飛び上がりそうな気がしてならなかった。
(……というか、たぶん、なる)
さっきから妙に触れ合うことを意識してしまっているし。
別に体が密着するほどべったりするわけじゃなくて、ただ恋人らしく彼の腕に軽く手を添えるだけ。そう自分に言い聞かせるのだけど――、
「や、やっぱり今日は日が悪いわ。また今度にしましょ」
ダメだった。
わたしは耐え切れなくなって藤間くんの腕から手を離す。
「なんなんだ、さっきから」
「い、いいのよ。だいたい浴衣で腕なんて組むものじゃないわ」
「言い出したのはそっちだろうが」
それを言われたら返す言葉がない。
「まぁ、やめるなら僕としてもそのほうが助かるが。……ん? あれか、祭りって」
わたしたちが歩く道の先に祭りの灯りが見えてきた。駅にいたときからかすかに聞こえていた祭りを賑やかす音楽も、今ははっきりと聞き取ることができる。
住宅地の真ん中にある公園が夏祭りの会場だった。
男の子だからだろうか、祭りの喧騒を前にした藤間くんには心躍るものがあったようで、バカな戯れにキリをつけるように言ってきた。
「いいかげんよけいなことしてないで素直に楽しまないか。これを見にきたんだろ」
「ええ、そうね」
それもあるわね――わたしは小さく付け加える。
確かにそれもある。でも、今日のわたしのいちばんの目的は、藤間くんにこの浴衣姿を見せることだった。見せて、ひねくれものの彼からどう感想を引き出そうかと考えていたのだけど、そっちも意外とあっさり達成できてしまった。ちょっと拍子抜けのような気がしないでもない。
尤も、おかげで――それこそよけいなことを考えず、『浴衣で夏祭りデート』を楽しめるのだけど。
そうしてやがて公園へと踏み入れば、
「見て、藤間くん。人でいっぱい。はぐれたら大変だと思わない?」
「安心してくれ。なんと僕は今日もスマートフォンという便利な道具を持ってきている。はぐれたら遠慮なく電話してくれ」
藤間くんは端末を振ってみせる。
(……そう言うと思ったわ)
彼にさりげない優しさを期待した自分がバカだったと、わたしは内心でため息を吐いた。
夜店の前を行き交う人でごった返す中、わたしは前触れもなくそっと藤間くんの手を握った。
話していた彼の言葉が中途半端なところで途切れる。
が、それも一瞬のこと。すぐに藤間くんは何ごともなかったかのように、そして、つないだ手を解こうともせず、会話を再開した。
盗み見るようにして藤間くんの様子を窺えば、彼は少しだけ顔を赤くしていた。
(そうしてくれると思ったわ)
わたしは最後まで藤間くんとはぐれることはなかった。
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