第3話<下>
「何を言ったんですか? 妹さん、怒って帰ったように見えましたけど?」
声をかけてきたのはキリカさんだ。
因みに、正確には怒って帰ったのではなく、帰るときに怒り出したのだが。
「特に何かを言ったつもりはないんですが」
「じゃあ、逆になんにも言わなかったか、気づいてあげなかったか、ですね」
「……」
「ダメですよ。見たところ妹さん、素直じゃなさそうだし。お兄さんが察してあげないと」
そう言って彼女は、空になったカップを持って戻っていった。
言ったから怒ったじゃなくて、言わなかったから怒った、か。……深いな。これが二年の人生経験の差だろうか。しかし、察しろと言われても、顔を合わせて二ヶ月の兄にはハードルが高いのである。
ぼんやりと外を眺める。
全面窓から見える表の通りには、人の行き来がほとんどない。ただでさえ単なる住宅地なのに、午後五時近くになっても陽射しが衰える気配を見せないとあってはなおさらだ。ようやく人が通ったかと思えば、それこそがまさしく槙坂涼だった。
彼女は窓際の席に座る僕に気づくと、笑顔で小さく手を振ってきた。僕もつられて片手を軽く上げて応えてしまい、何となく「しまった」と思った。それが顔に出ていたのか、槙坂先輩は改めてくすりと笑う。
やがてドアベルの音と「いらっしゃいませ」の声。
そして、
「こんにちは、藤間くん」
「どーも」
応じる僕は、先ほどのこともあり、必要以上にぶっきらぼう。
槙坂先輩はさっきまで切谷さんが座っていた向かいの席に腰を下ろした。
「まさか本当にいるとは思わなかったわ」
「いくらなんでも、いないところに呼び出すような悪質な真似はしないさ」
「藤間くんから会いたいって言ってくるなんて、とても嬉しいわ」
そう言って彼女は笑みを見せる。
「悪いが、あのメッセージを打ったのは僕じゃないんだ」
「そんなの見た瞬間にわかったわ。さっき駅で切谷さんの後ろ姿を見たから、きっと彼女ね」
それでも槙坂涼は笑顔を崩さなかった。
「でも、藤間くんはその後も、あれは間違いだ、打ったのは自分じゃない、と否定するメッセージは送ってこなかった。それは少なからずわたしに会いたいという気持ちがあったと思っていいのかしら?」
「……」
その手があったか。
そうか。何も馬鹿正直に待っていなくてもよかったな。
「まぁ、いいわ。あったところで藤間くんは否定するでしょうし。それにしても、切谷さんはどうしてあんなものを?」
「夏休みの間ももっとあなたと会えとさ。まったく。よけいなお世話だ」
でも、言われてみれば、切谷さんの言に思うところがあったからこそ、それに従うようにして槙坂先輩を待っていたのかもしれないと思わないこともない。
「あら、わたしも同じ意見よ」
「うん?」
「だって、そうでしょう? この前プールに誘ってくれたのは美沙希だし、その前なんてほかの女の子に捕まってそのままデートしようとしたし」
槙坂先輩はつらつらと不満を並べていく。
「ちょっと待て。僕が悪いのか? 僕にだけ努力を求められるのは理不尽じゃないか?」
このままだとどれほど文句を言われるかわかったものじゃない。僕が反論すると、彼女は少し考え、ようやくそこに気づいたように言った。
「そうね。確かにそうだわ。わたしも努力するべきよね」
「じゃあ、これからはわたしからも誘うことにするわ。夜の電話も不可欠よね。それとおはようとおやすみのメッセージも」
「……」
これはいったい何の努力だっただろうか。
「お待たせしました」
そこで槙坂先輩のアイスコーヒーが運ばれてきた。彼女も、ここにきたときの僕のように、入り口で注文を済ませていたらしい。
「藤間くん、今度は槙坂さんですか? 今日は女の子をとっかえひっかえして。もしかしてデートの約束をうっかりバッティングさせちゃいました?」
グラスを置いた後、キリカさんが茶化してくるので、僕も冗談で答える。
「彼女には内緒ですが、実はあとふたりいるんです」
「まぁ。そうなんですか」
おかしそうに笑い、槙坂先輩に向き直る。
「いいんですか、槙坂さん。あんなこと言ってますよ」
「大丈夫です。そのふたりはきっと私の知ってる子ですから。それにああ見えても彼、わたし一筋なんですよ」
「だと思いました。わたしの主人もそうでしたから」
と、彼女はカウンタに目をやる。僕からは背中側になるので見えないが、そこには自分が話題になっているとも知らず、眠そうな顔の店長がコーヒーを淹れていることだろう。
「いつも素っ気なくて、気のない振りばかり。藤間くんとよく似てます。きっと心の中では槙坂さんを抱きしめたいと思ってますよ」
「だといいんですけど」
槙坂先輩は上品に笑って応える。
「じゃあ、ごゆっくり」
キリカさんは言いたいことだけを好き勝手言って、また戻っていった。
「……」
ダメだ。各方面へ反論がありすぎて渋滞を起こしている。この件に関してはもう迂闊な否定はせず、口をつぐんでいたほうがよさそうだ。沈黙は金、雄弁は銀、だ。
そんな僕の心中など知る由もなく、槙坂涼はアイスコーヒーにミルクを垂らし、優雅にストローでかき混ぜていた。
「不思議な話だよな」
僕は何かを言われる前に自分から話題を振る。
「あんなきれいな人が、言い方は悪いけど、店長みたいな普通っぽい人を選んだなんて」
言い寄る男も多けりゃ、逆にどんな男だろうと選べただろうに。
「きっと選んでないと思うわ。選ぶっていうのは選択肢があるときに使う言葉でしょう? きっと選択の余地なんてなかったのね」
「ほかに男がいなかった、と?」
どんな集落だ。
「そうじゃないわ。マスターしか見えなかったのよ。そういうものじゃないかしら。それまで恋愛になんて興味がなかったのに、ある日出会った人に夢中になる。それまで一年もの間ずっと静かに見てきたのに、ちょっとしたきっかけで絶対に振り向かせたいと思う。そこに選択なんてないわ。わたしにはこの子しかいないと、ただ決めただけ」
「……」
そういうものなのだろうか。
僕とて一度見ただけの女の人を追いかけるようにして明慧にきた身だ。が、しかし、果たしてそこまで強い感情があったかは自分でも定かではない。
「ところで藤間くんは――」
と、不意に切り出され、あまりのジャストなタイミングに少なからずどきっとした。もしかしたらまさにその話を振ってくるかもしれない。
「わたしを抱きしめたいと思ってるって本当なの?」
「……それはそっちで勝手に言った話だろ」
§§§
午後六時を回ったのをきっかけに『天使の演習』を出――今、僕たちは駅前にいた。
「じゃあ、僕はここで」
言って改札口へと体を向ける。
「あら、今日は送ってくれないの?」
「まだ明るいだろ」
暗くなってきたならまだしも。それにそろそろ帰宅ラッシュがはじまろうとしているのか、思った以上に乗降客の姿が多かった。
「わたしの家でコーヒーでも飲んでいかない? 今日は両親とも帰りが遅いの」
「後半部分がなけりゃ寄ったかもね」
だいたいコーヒーならさっき飲んだばかりだ。
僕は改めて背を向け、足を踏み出し、
「待って」
呼び止められた。
腕をつかまれるようにして彼女のほうを向かされ――距離を詰めてくるので反射的に後ろに下がれば、背中に何かが当たった。駅のコンコースの柱だ。
槙坂涼は挑発的に笑う。
「このまま帰してもいいの? 抱きたいって言ってなかった?」
「さっきと言葉が変わってる。それ以前に僕の口から言った覚えはない」
そう言い返した途端、槙坂先輩は自分と僕との体を入れ替えた。今度は彼女が柱を背にして立つ。
そうやって位置を変えると同時、笑っていたその表情も真剣なものへと変わっていた。
「じゃあ、改めて聞くわ」
「あなた、わたしを抱きたいと思わない?」
その真剣な表情で、彼女は僕に問う。
今、僕の視界には槙坂涼しかいなかった。彼女が柱の前に立っているからだ。いわゆるパワーテーブルの要領。当然、顔を逸らせばそれだけで彼女を視線から外すことができるが、そんなものは単なる敵前逃亡であり、しかも、それはそれで槙坂涼の思う壺のような気がしてならない。
「もしかしたらそういう気持ちもあるかもしれない。でも、たぶん今の僕にはその覚悟や心の準備ができていないと思う」
『もしかしたら~かもしれない』に『たぶん~と思う』、か。我ながら見事な詐欺と欺瞞と逃げっぷりだ。……ただ怖いだけなのに。
「つまり、抱きたい?」
「今そう言った」
言葉は曖昧だが。
「じゃあ、待つわ。あなたの心が決まるまで。でも、その代わり今の気持ちを行動で証明して」
そう言うと槙坂先輩は僕の腰に手を回し、引き寄せた。わずかに顎を上げ、目を閉じる。
ここでか?
だが、どういうわけか、今この瞬間、行き交う乗降客はぷっつりと途絶えていた。駅の喧騒が遠くのもののように聞こえる。まるで僕たちふたりの存在が世の中から隔絶されたかのようだ。ここにいるのに周りからは見えず、僕たちの声もまた周りには届かない。……世界は常に槙坂涼の味方というわけか。
こんな台風の目のような無風状態、そう長くは続くまい。僕は素早く決断し、唇を重ねた。
「ん……」
隠れてするようなそれは、初めてのときよりも短かった。唇を離せば槙坂先輩の口からは名残惜しそうな甘い声がもれた。
目の前には、朱の差した槙坂先輩のはにかんだような笑顔があった。
「またしちゃったわね。今夜は眠れないかも。……じゃあね」
そして、恥ずかしそうにそう言うと、逃げるように帰っていった。
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