第3話<上>

 ある日の昼前、

 勉強が一段落ついて、ふと、切谷さんはどうしているだろうか、と思った。


 そのままの勢いでスマートフォンの連絡先から我が義妹のアドレスを呼び出し、メールを打ってみる。




 ――最近どうしていますか?


 


 とても簡潔で曖昧な内容だ。手が空いたときにでもリプラィを送ってくれたらそれでよし、無視するならそれでもいいと思っていた。もとよりこのメール自体、送ることが目的の、僕の自己満足みたいなものだ。チャットアプリのようなインスタントなものを使わず、メールにしたのもそのあたりが理由だ。


 が、端末を机の上に置いた途端、それが着信メロディをかき鳴らしはじめた。メールではなく、音声通話。置いたばかりのそれを手に取って見てみれば、相手は切谷さんだった。


「もしもし?」

『何? 忙しいんだけど?』


 不機嫌全開の声だった。


 だったらわざわざ電話でリターン返してくるなよ。


「あ、いや、最近どうしてるかなと思ってね」


 メールそのまんまだ。


『それだけ?』

「うん。ただそれだけなんだ」

『……』


 黙る切谷さん。もう怒るなり切るなり好きにしてくれ。


『夕方なら体があくから――この前のお店でいい?』

「は?」

『ていうか、この前のお店がいい。……じゃあ、後で』

「……」


 通話の切れた端末を耳に、僕は無言。


 こうして一方的に約束を取りつけられてしまったのだった。




                  §§§




 昼過ぎに『4時』とだけ書かれた簡潔というか、ある種不気味なメールが送られてきて、僕はその指示通りに待ち合わせの時間を四時に設定して家を出た。


 この前の店というと、『天使の演習』だろう。


 彼女と行ったことがあるのは、そことラーメン屋くらいだ。『この前のお店』がラーメン屋を指している可能性もなくはないが、おそらくそんなところを待ち合わせ場所にする女の子はいまい。女の子が先にきてラーメンを食べて待っているというシュールな光景も見てみたくはあるが。……案外、切谷さんならやってくれるかもな。


『天使の演習』には四時前に着いた。


 外から見える窓際の席に切谷依々子は座っていた。が、彼女はきょろきょろと店内を見回したり、コーヒーを舐めるようにひと口飲んだりして、どこか落ち着かない様子にも見える。ひとりでいることに緊張しているのだろうか。高校一年生ならひとりで喫茶店に入ったことなどほとんどないだろうから、きっとそのせいなのだろう。


 僕は入口へ回り、ハンカチで額の汗を拭ってからドアを開けた。


 ドアベルの涼しげな音が響く。続いて聞こえてきた「いらっしゃいませー」の声は女の人のものだった。


 出迎えてくれたのは槙坂涼に劣らぬ美貌の女性――キリカさん。槙坂先輩からの情報によると、この春に高校を卒業したばかりの十九才、大学一年生。しかし、この店のアルバイトなどではなく、店長の奥さんだ。つまり既婚者。さぞかし多くの男子学生を落胆させてきたことだろう。顔やスタイルばかり目がいって、左手の指輪に気がつかなかったバカとか。


 彼女は僕の顔を認めると、営業スマイルではない別の笑顔を見せた。


「妹さん、きてますよ」

「みたいですね。アイスのカフェオレをお願いできますか」

「わかりました。すぐにお持ちしますね」


 弾むような声は、やけに楽しそうに聞こえた。


 そういえば、前に彼女は言っていた。旦那や家族の勧めで大学に通っているが、本音では学業よりもこの店のことを優先したいのだ、と。勉強ならいつでもできるが、はじめて間もないこの店を軌道に乗せるためには今が大事、という考えのようだ。しかし、大学も夏休みに入り、今は思う存分店を手伝える。それが嬉しいのだろう。


 店内を見回すと、ハイチェアのカウンタ席もフロアのテーブル席も七割強埋まっていた。僕がかつて見た中でいちばんの盛況ではないだろうか。おそらく国や電力会社から節電を口うるさく求められる中、エアコンを点けられない家から逃げ出てきたのだろう。僕にも節電の意識はあって、暑さに耐えられなくなったときは図書館に行ったりする。先日、美沙希先輩と一緒に勉強していたコーヒー店もそんな『避難先』のひとつだった。


 ついでに、この大入りのもうひとつの要因として、店長の奥さんの存在も大きいのではないかと思う。そりゃあかわいい女の子がいるとわかっているなら、足繁く通いたくもなるだろう。


 僕は切谷さんの座るテーブルへと足を向けた。


 彼女は僕に気づくと、わずかにほっとしたような顔を見せ――それから今度はむっとしたような表情になる。


「……遅いんだけど」


 もとより切れ長で吊り気味の目が、さらに吊り上る。


「悪かったよ。できるだけ早く着くつもりではいたんだ」


 まだ四時になっていないんだがな。


 僕は切谷さんの前に座った。


「人を呼び出しておいて遅れるってどういう了見よ」

「いや、さすがにそろそろ反論したいぞ」


 呼んだのは決して僕ではない。


 そこでさっそく頼んだカフェオレとお冷が運ばれてきた。やけに速いな。


「お待たせしました。ゆっくりしていってくださいね」


 若き店長夫人はそう言って戻っていく。


 僕はまずは冷たい水で喉を潤してから、ストローの袋を破り、カフェオレに口をつけた。


 向かいでは切谷さんもカップを口に運んでいた。ひと口飲んで、わずかに顔をしかめる。カップからしてホットなのはわかっていたが、よく見ればブラックだった。……またやってるのか。


 僕は黙ってコーヒーシュガーをひとつ、カップに放り込んでやった。切谷さんは恨めしそうな目で僕を見るが、やがて自分の手でミルクも入れ出した。……もう意地張るのやめたらいいのに。


「さっき、忙しいって言ってたけど?」


 さらにもうふたつ砂糖を入れる切谷さんに戦慄しつつ、僕は切り出した。


「今、家の手伝いやってる」

「家の?」


 切谷さんの家はわりと古い料亭だ。一人娘である彼女はそれを継げと言われていて、不満ながらも半ば諦めるようにしてそれを受け入れていた。だが、先日にはついに反発して、母親と喧嘩の真っ最中だと言っていたはずだ。


「押しつけられるのはごめんだけど、手伝うくらいならいいかなと思って。これでも私、お母さんが店を切り盛りするのをずっと見てきたから。関係ないって知らん振りするのも、ね」

「そうか。ま、それもいいんじゃないか」


 何やら行きつ戻りつしているようだが、それが悩むということなのだろう。そうやって決めた道は、たとえ押しつけられたものと同じだったとしても、まったく意義や意味のちがうものになるだろう。それに一度離れてみれば見えないものも見えてくるものだ。押しつけられて嫌々やっていた高校の数学や物理も、後で趣味で学ぶ分には楽しいものだと聞く。


「料亭の手伝いっていうと、やっぱり和服?」


 少々キツめではあるが和風の面立ちをしている切谷さんにはよく似合うだろうな――と、ただ何となくそう思っただけなのだが、なぜか彼女は虫でも見るような眼差しを僕に向けてきた。


「そういうのはあの人とやってね」

「何をだよ」

「あと、着物だと下着をつけないっていうのも都市伝説だから」

「……」


 ひどい誤解をされている気がするな。僕はストローでカフェオレを飲みつつ、目だけで天井を仰ぎ見た。


「真こそ最近どうなのよ? この前、別の女と揉めてたみたいだけど」


 切谷さんは蔑むような視線にシフトさせつつ聞いてくる。


 そういえば彼女は僕と加々宮さんが一緒にいるところを見ていたのだったな。僕が困っているとわかっていて、嘲笑しながら通り過ぎていったのだ。


「あれにはいろいろとわけがあってね」

「ふうん。真がそんなにモテるとは思えないんだけど」


 ついこの間、こえだにも言われたばかりだな。ほっといてくれと言いたい。


 疑わしげに僕を真正面から見据えていた切谷さんだったが、急に何かに気づいたように切りそろえた前髪の下の眉をぴくりと震わせた。


「もしかして真って右目だけ目の色が違う?」

「らしいね」


 僕の目が大雑把にしか色を解析できないせいで、自分では認識できていないが。日本の伝統色のひとつ、黒鳶と表現するのがいちばんぴったりらしい。


「いいなぁ」


 羨ましそうに言う切谷さん。相変わらず人とはちがうものを手に入れたがる娘だ。


「遺伝なんだ」

「え? 私そんな目してないけど」

「母親のほう」


 悪いね。僕がそう言うと、彼女は「別にそんなのどうでもいいし」と口を尖らせた。


「そんなことより――本命の槙坂さんとはどうなってんのよ」


 話題を変えてくる。


 本命などと言わないでもらいたい。まるで本命以外があるみたいだ。


「夏休みに入ったけど、ちゃんと会ってるの?」

「そういう機会があればね」

「会いなさいよ」

「なんで切谷さんにそんなこと言われなくちゃいけないんだ。どうせ休みが明けたら飽きるほど会うことになるよ」


 僕が投げやりに言うと、切谷さんは聞えよがしなため息を吐く。


「まるでやる気なしね。……貸して」

「あっ」


 貸して、と言いながらも、切谷さんは僕がテーブルの上に放り出していたスマートフォンを勝手に手に取った。


 横にあるボタンを押してスリープを解除し――そして、怪訝そうな顔をする。


「ロック画面、変えたの?」

「悪いか?」


 ここにくる前に変えてきた。同じ過ちは二度としない主義なのだ。


 切谷さんは、ふん、と鼻を鳴らしてから、ものすごい勢いで操作しはじめた。


「はい」


 それが終わると、面倒くさそうに手渡してくる。


「チャット送っといた」

「チャット? ……げ」


 僕は端末を受け取るとアプリを開き――思わずうめいた。


 


 ――今すぐ会いたい。いつもの店で待つ。


 


「……」


 いったい誰が書いた文章だよ。


 因みに、相手はもちろん槙坂涼である。


「帰る。……真は? どうする?」


 切谷さんはカップに残っていたコーヒーを飲み干し、言った。


「僕は槙坂先輩を待つよ。切谷さんが送ったチャットのこともあるし」


 人を呼び出しておいて自分は帰るなんてわけにもいくまい。誤解も解いておきたいし。尤も、これ自体読んでいない可能性もあるが。一時間ほど待ってこなかったら帰るとするか。


 ところが、帰ると宣言した切谷さんは、何か言いたげに口をむぐむぐと動かしている。


「切谷さん?」


 心配して僕が呼びかけると、彼女はむっとしてから意を決したように切り出した。


「依々子」

「うん?」

「私の名前。依々子」

「知ってるけど?」


 確かに彼女から自己紹介をされたことはないが、それくらい事前に調べて知っていた。


「……」

「……」

「帰る」


 ようやく切谷さんは席を立った。


「じゃあね。し・ん!」


 やけに僕の名前をしっかりと発音してから、彼女は去っていった。


 間をおかずドアベルの音と、「ありがとうございましたー」の声。そのまま表の通りを見ていると、再び切谷さんの姿が視界に入ってきた。彼女はキッと僕を睨んでからぷいと顔を背け、歩いていってしまった。


 やれやれ、と嘆息ひとつ。


「何か怒らせるようなことを言ったかな」


 テーブルの上を見れば空になったカップと伝票があった。……しまった。飲み逃げされたか。


「ま、もとから払わせるつもりもなかったけど」

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