第6話

 イギリス旅行から無事に帰ってきた。


 向こうに滞在していたのは四日ほど。帰ってきたら日本は盆すぎで、二期制を採用している明慧学院大学附属高校の夏休みは、もう終わりが間近だった。


 今は午前中。

 テレビから流れるワイドショーでは、歌姫などと称されるポップシンガーが突然の休業宣言を出したとのことで、それがまるで一大事であるかのように報じていた。それを右の耳から左の耳に聞き流しながら、僕は読書に勤しむ。


 と、不意にチャイムが鳴った。


 エントランスではなく、玄関のほう。ここは高級高層マンション。セキュリティは厳重だ。暗証番号がなければ入ることはできないし、知らなければ住人に開けてもらうしかない。……エントランスを通ってこの部屋の前まできたということは、母だろうか。


「はい」


 インターフォンに出る。


『わたしです。槙坂です』

「……」


 ああ、そうだった。この人も知っていたな。先日暗証番号を看破されてしまい、そのときに変えておこうと思ったのだが、すっかり忘れていた。


 そう言えば――、


『そう言えば、前もこんなことがあったわね』

「!?」


 僕が考えていたことと、槙坂先輩の言葉が重なる。


『あのときは、その後に何があったのだったかしらね?』

「……」


 何だっただろうな。彼女を部屋に上げたくなくて慌てて図書館に行ったわりには、そのまま一緒に帰ってきてしまったような気がする。


『そろそろ開けてくれる? 外よりマシとは言え、ここも暑いわ。倒れそう。そのときはしっかり看病してもらうわよ』

「もちろん、救急車を呼ぶくらいはするさ」


 それで救護義務は果たしたことになるはずだ。


 僕はインターフォンを置くと、まずは今日はまだつけずにいた空調のスイッチを入れた。それから玄関へと向かう。


 ドアを開けると、そこには間違いなく槙坂涼が立っていた。


 白のシフォン地のティアードミニに、肩の大きく開いた黒のカットソー。下にはタンクトップか何かを着ているのか、ボーダー柄の肩紐部分が見えていた。そして、その肩からは――。


「ひとつ聞いていいだろうか? その肩から提げている旅行にでも行きそうな鞄は何なんだ?」


 旅行に行く前にここに立ち寄って餞別をたかりにきたとかなら、僕は喜んで差し出すのだがな。奮発してもいい。


「旅行というよりは外泊ね」

「……どこに?」

「あら、言わないとわからない? 藤間くんにしては察しが悪いわね。夏休みボケかしら?」


 察しが悪いというよりは、察したくないというのが正確なところだ。


 主婦の立ち話じゃあるまいし、玄関でこうしていても仕方がない。目的がわかった今から追い返そうとしても、まず帰らないだろうしな。


 僕は無言で来客用のスリッパを床に置くと、踵を返した。歩き出すと後ろから律儀に「お邪魔します」の声の後、軽やかな足音が追いかけてくる。


「エアコン、今いれたばかりなんだ。もう少し我慢してくれ」


 リビングに這入ると槙坂先輩は、テーブルの一人用のソファのところに読みかけの文庫本が伏せられているのを見て取り、ふたり掛けのほうに腰を下ろした。


「で、何でいきなりきたんだ?」


 僕は座らず、キッチンへ行って冷たいお茶を用意する。


「そうね。夏休みももう終わりだし、思い出作りってところかしら?」


 彼女のその返答に、僕は一瞬ぎょっとした。

 続く言葉に思わず身構えるが、実際には文章の上ではとても穏やかなものだった。


「わたし、この部屋が気に入ってるの。だから、ここでゆっくり過ごしてみたいと思って」

「なるほど」


 僕は胸を撫で下ろし、余裕ができたところで言い返す。


「わかった。そこまで言うのなら仕方がない。僕は三日ほど実家に帰ってるから、その間好きに使ってくれ」

「何を言ってるの。藤間くんもいるのよ。あと、実家に帰るのは将来のわたしが、あなたと喧嘩したときにすることよ」


 願わくば今すぐ実家に帰ってほしいのだがな。


 僕はグラスに氷を入れ、そこに買ってきてあったペットボトルの烏龍茶を注いだ。盆に載せて運ぶなんて面倒な上、ガラでもないので、両手にひとつずつ持ってリビングへと戻る。ひとつを槙坂先輩の前に置くと、彼女は「ありがとう」とひと言言い、さっそくグラスに口をつけた。


 槙坂先輩はソファに浅く腰掛けて、背筋を伸ばして座っている。片手でグラスを持ち、もう片手はグラスの底に添えていた。とてもきれいな姿勢と所作だった。


「だいたい、女の子が好きな男の子と一緒に過ごしたいと思うのは、ごく普通のことよ。理由が必要?」

「……」


 一般論にされると反論のしようがなくなるな。


 僕もさっきまで座っていたソファに腰を下ろした。リビングのソファは向かい合わせではなく、九十度写した位置で配置している。ティアードミニで座る彼女を斜めから見ていると、特にその足が気になってしまい、極力意識しないよう自分に言い聞かせる。


 ソファを向い合せにしておけばよかったとバカなことを思っている一方で、そうでなくてよかったとも思っていた。そして、後者のほうが支配的であるあたり、槙坂涼に曰く言い難い危険を感じている証拠なのだろう。


「今さらだと思わない? イギリスでも素敵な夜があったじゃない」

「僕としては健全な旅行にしたかったんだけどな」

「あら、それはご愁傷様。最後の最後で、そうはならなかったわね」


 僕が不満を隠さず言ってみても、しかし、槙坂先輩は気にした様子もなく、くすくすと笑うのだった。


「藤間くんがあんな姿を見せるからいけないのよ」

「何のことだよ」


 ともすれば妙な意味に聞こえてしまいそうだが、本当に何のことだかわからなかった。


「ほら、昼間、写真を撮らせてほしいって言ってきた人がいたじゃない」

「ああ」


 思い出した。


 旅行中、槙坂先輩に先のようなことを頼んできた現地の人間がいたのだ。一枚だけだと言うし、被写体となる当の本人が了承したのだから僕が口をはさむ筋合いではないと思ったのだが、バシャバシャ何枚も撮るものだから、いいかげん頭にきてしまった。「Oh,Cute!」じゃねぇよ。


 人種的に小柄な日本人は、欧米人からすると、十代後半の少女でもかわいらしく見えるらしい。結果、僕は拙い英語ながらいくらか文句を言い、むりやり槙坂先輩をつれてその場を離れたのだった。


「あんなふうに嫉妬する姿を見せられたら、藤間くんのものになってあげたくなるわ」

「……」


 男らしいとか恰好いいとかじゃないのか。


「でも、わたしとしては少しもの足りなかったかしらね。せっかく外国にきたのだから、もっとそういう気になってくれると思っていたわ」

「まさか、それでうちにきたのか?」


 もの足りなかったから?


「ええ。藤間くんの好きなミニをはいてきたわ。どうかしら、こういうの」


 そこで何を思ったのか彼女は、太ももの上に乗っているスカートの裾を少し自分のほうへと引き寄せた。これで本当にソファが向かい合わせなら、確実に致命傷ものの行為だ。


「……好きだと言った覚えはない」


 僕は、ただでさえ気になって仕方がなかったそこから、強い意志をもって視線を引き剥がした。


「あら、男の子ってこういうのが好きだって聞いたんだけど? それとも見えないはずのものが見えるのがいいのかしら? 女の子が自分からこういうことをすると魅力は半減?」


 槙坂先輩は悪魔のような笑みを浮かべながら聞いてくる。


「……だから、男のそういう心情に無遠慮に触れてくれるな」


 どちらにしても槙坂涼であれば破壊力は抜群だ。明らかに致死量。


「わたし、あなたのそういう顔、大好き」


 いたずらっぽい笑みを含ませた声で言う槙坂先輩。スカートの位置をもとに戻すのが気配でわかった。ほっとする。尤も、そこにある光景が気になることには変わりないのだが。


「こうなったら藤間くんの好みがどういうのか、ちゃんと聞かないといけないわね」

「またわけのわからないことを」


 そういうのはともすれば性癖みたいなものにつながりかねないから、迂闊には口にできない。


「実はいくつか当たりはつけてあるの。後は学校の制服とか、意外なところでこの前気に入ってくれた水着とか。藤間くんがカッターシャツを貸してくれたら、いつかの朝みたいな恰好もできるわよ」

「……は?」


 彼女が嬉々として語るその内容に、思わず唖然としてしまう。しかし、槙坂先輩はそんな僕を置いてけぼりにしたまま続ける。


「確かああいうことって、一枚ずつ服を脱いだり脱がされたりしながらするのよね? わたしもそのほうが盛り上がると思うの」

「い、いや、どうなんだろう……?」


 僕は槙坂先輩の勢いに、気持ちがたじろいでしまっていた。俗にドン引きというやつである。……この人、知識はあるようだが、どうやらその知識が少し偏っているらしい。


 そして、そんな僕の反応を見て、槙坂先輩は途端に自信をなくしたようだった。


「ち、ちがうの?」

「さ、さぁ……」


 行為そのものを楽しむのなら、そういうのもあるのかもしれない。だけど、経験値の低い僕には、正直何とも答えられなかった。


「……」

「……」


 気まずい沈黙。


 やがて、


「……ごめんなさい。今の冗談です」


 槙坂先輩は、目を逸らすようにして斜め下を見、ぽつりと発音する。


 ふと、ソファの横に置かれた大きな鞄の存在を思い出した。彼女がここにきたときに、肩から提げていたものだ。


「もしかして持って――」

「も、持ってきてないわっ」


 喰い気味に否定すると、槙坂先輩は行儀の悪いことに足でその鞄をソファの陰に押しやった。


 そうか。持ってきたわけではないのか。なら、その大きな鞄には何が入っているのだろうと当然の疑問がわくのだが――きっと彼女ほどの女性になると、単なる外泊にも用意するものが多いのだろう。

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