第5話<下>

 生徒が学校に残っていられるのは午後七時までと決まっている。学園祭が近づけばもう一、二時間くらいはお目こぼしをもらえるかもしれないが、今はこれが限界だ。


 そんなわけで本日の実行委員は午後七時をもって散会となった。


 今は帰り、僕はこえだ、加々宮さんとともに電車に揺られている。

 ちょうど空いたふたり分のシートにかわいい後輩たちを座らせ、僕はその前に吊り革を持って立っていた。


「あーあ、今日もこんな時間かぁ」


 と、加々宮さん。


 七時になってから片づけをはじめ、それから下校して駅で電車に乗って――で、今はもう七時半を回っている。


「学園祭が近づけば、もっと遅くなるだろうね」

「そうなんですか?」

「経験から言えば、たぶんそう」

「ぐえぇ」


 中学のころからいろいろやってきたが、ほぼ例外なくそうだった。イベント自体は立てた計画通りにいく。だが、その準備や計画に対しても、誰が何をする、いつまでにする、といったスケジュールを組むのに、なぜかそちらは計画通りにいかないのだ。だいたい最後になってバタバタする羽目になる。今回も順調に予定が遅れつつあった。


「真ってば、よくこんなの今までやってきたよね」


 謎のうめき声を発する加々宮さんの横で、こえだが感心したように言う。


「苦労した分、成功したときの喜びは大きいからな」


 結局、そのあたりが原動力なのだろうな。思い通りにならないことの多い世の中で、せめてイベントくらいは思い通りに進めてみたいのだ。まぁ、さすがに高校の学園祭となればこれまでにない規模で、次から次へとやることが回ってくるが。なかなか一筋縄ではいきそうにない。


「終わって打ち上げでもやれば、報われたって実感も出てくるさ」

「やるのかなぁ、打ち上げ。ぜんぜんそんな話ないんだけど」

「そりゃあ今はそんな余裕ないからな」


 終わってもないのに終わった後の話などできるはずもない。そんな話ができるのは、まだはじまってもいないころ、取らぬ狸の皮算用が笑って許されたころだ。


「でも、こんなのは終わったら打ち上げと相場が決まってる。なかったらなかったで、僕たち三人でささやかにやればいいさ」

「ほんと!?」「本当ですか!?」


 ふたりが同時に喰いついてきた。


「あたし、そのほうがいいかも」「ねー」と言い合っているふたりを見ていると、これは実行委員とは別個に身内だけの打ち上げをするのもいいもしれないと思えてきた。


「あ、わたし、次ですから」


 次の駅名を告げるアナウンスの中、加々宮さんがそう切り出してくる。


 こうして委員会で帰りが一緒になってわかったことだが、加々宮さんの家は学校からけっこう近いらしい。電車ならふた駅分。僕よりも先に降りる。


「今さらだけど、送ろうか?」


 七時半なら夏場でも外は真っ暗だ。いつも別れた後に送ったほうがよかったかと考えていたのだが、今日は忘れずに言い出すことができた。


「大丈夫です。お母さんに迎えにきてもらいますから。家まで歩いて十分くらいなんですけど、遅くなったときは呼ばないとうるさいんです」


 そう苦笑しながら言うと、加々宮さんは立ち上がる。


 と、思いがけず互いの顔の距離が近くなった。彼女が何も考えず立ち上がったのと、僕が避けそこなったことが原因だ。お互い軽くぎょっとした。僕は慌てて一歩下がる。


「前言撤回。真先輩、やっぱり送ってください」


 そう言う加々宮さんの頬は心なしか赤い。


「こちらこそ前言撤回だ。そこまで話がついてるなら、僕が送るほうがややこしくなりそうだ」

「ちぇー」


 口を尖らせる加々宮さん。


 間もなく電車は駅に着き、そうして彼女は開いたドアから出ていった。ばいばーいと手を振る加々宮さんに見送られ、電車は再度出発する。


 ひとりが降りて、残ったのは僕とこえだ。


「お前は送らなくていいな」

「ひどっ。何その差!?」

「だってお前、駅からバスだろ?」

「そうだけどさ……。なんか釈然としないんだよなぁ」


 こえだは口を尖らせる。


 シートはこえだの隣が空いたが、僕はそこに座らず立ったままだった。こんな時間まで委員の仕事をしていたせいかそこそこ疲れていて、一度座ってしまうと今度は立つのが億劫になりそうな気がした。どうせすぐに降りるのだし。


「あのさ、真」


 やがてこえだがタイミングをはかるみたいにして口を開いた。車窓の夜闇に浮かぶ街灯りをぼんやりと見ていた僕は、その視線をこえだへと向ける。


「あの話、涼さんとした?」

「あの話?」

「うん、あの話」


 出たな、あれあれ詐欺。


「留学の話っ」


 僕が思い出せない振りをして黙っていると、こえだは怒って声を荒らげた。


「ああ、その話か。……まだしてない」

「なんでしてないんだよぉ。早くしろよ……」


 まるで泣きそうな声で拗ねたように言い、こえだは黙り込んだ。


「……いずれな」


 そして、僕もまたそう短く返して、口を閉ざした。


 結局、これ以降、僕が電車を降りるときまで、こえだと言葉を交わすことはなかった。


 加々宮さんと同じで、こいつもこいつで何かを感じているのかもしれないな。鋭いことだ。女という生きものは、年齢や人生経験に関係なく女のカンがはたらくと思ったほうがいいのだろう。




                  §§§




 駅を出て五分と歩かずに僕の住むマンションに着く。


 と、そこに槙坂涼がいた。


 エントランスの前の玄関ポーチに人待ち顔で立っている。制服姿だが、制鞄は持っていなかった。家には帰ったけど着替えはしなかった、というところか。


 彼女は姿を現した僕を見つけて、笑顔を浮かべた。


「『また明日』なんじゃなかったか?」

「気が変わったのよ」


 槙坂先輩はあっさりとそう言う。


 僕はその相変わらずの調子に、思わずため息を吐いた。……結局こうなるのか。会えなかったら会いにくるのが槙坂涼という女性だ。今さらながらにそれを実感した。


「待ってるんだったら連絡してくれ。だいたい、僕がもう家に帰ってたらどうするんだ」

「大丈夫よ。藤間くん、学校にギリギリまで残ってるって言ってたもの。それに合わせてきたから、さほど待たなかったわ」


 それでも何かの拍子に早く帰れたら、それだけでアウトだと思うのだがな。まぁ、現状の進捗状況ではあり得ないか。


「このところ忙しそうね。ほら、ネクタイが緩んでるわ」


 そう言うと槙坂先輩はすっと僕に近づき、ネクタイに手を伸ばした。そう言えば委員会のデスクワークのときに緩めてそのままだったな。もう家に辿り着こうとしているのに今さらではないだろうか。


 思えばこうしてネクタイを直されるのも久しぶりのような気がする。春にはよくされていたが、夏服にはネクタイがない。十月に入り冬服に戻ったが、確か今期はこれが初めてだ。それだけ忙しさを理由に槙坂先輩と会っていなかったということだろうな。正直、少しだけ懐かしく思う。案外彼女もそう思ったから、あえてこんな無駄なことをしているのかもしれない。


 きゅっとネクタイが締められる。直ったようだ。


「で、何しにきたんだ?」

「藤間くん、忙しそうだから夕食でも作ってあげようと思ったの」

「それはありがたいね」


 八時前の今から何か作るのは面倒だと思っていたところだった。実際、ありがたくはある。


「でも、槙坂先輩を家に上げたくない。外に食べにいこう」

「あら、ひどい」


 槙坂先輩はそう苦笑しながらも、踵を返した僕の後をついてくる。このあたりだとどこがいいだろう。ファミレスか、サクラ・ヤーズのレストラン街か。


「学園祭の準備は順調?」


 隣に並んだ槙坂先輩が問う。どうやら外で食べることに特段の異論はないらしい。


「順調。順調に予定が押してきてる」

「大丈夫なの?」

「たぶんね。致命的な遅れや破綻は見当たらないから、ちゃんと間に合わせるさ」


 本番までの裏方なんてたいていはこんなものだ。多少予定が狂っても、最後にはちゃんと帳尻を合わせる。


「そう。楽しみにしてるわ。特に今年は藤間くんが実行委員だものね」

「別に僕がいたからって、これまでとちがった学園祭になるわけじゃないよ」


 僕は何かやりたい企画があって学園祭の実行委員に名乗り出たわけではない。そこそこ企画立案はしているが、去年一生徒として感じた運営側の不備を補強する程度のものだ。


 それでも楽しみにされると悪い気はしない。成功させようと改めて思う。


「当日は少しくらい一緒に回れそう?」

「生憎と僕は運営としての業務に従事する忙しい身でね」


 と、はぐらかそうとしたのだが、


「嘘おっしゃい。サエちゃんから実行委員も交代で自由時間があるって聞いてるわよ」

「……努力する」


 やはりこうなるらしい。


 確かにその通りなのだが、努力しなければならなそうなのも確かだった。与えられた自由時間でクラスの出し物も手伝わなければならないし、雨ノ瀬も遊びにくることになっている。時間のやりくりが必要そうだな。


「……」


 ま、どうにかなるだろう。

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