第4話<2>

 今は夏休みではあるが平日の日中のせいか、図書館にはあまり利用者はおらず、思ったより閑散としていた。蒸し風呂みたいな家から避難してきている人が多いかと思ったのだが。きてしまえば涼しいが、まず家から出るところにハードルがあるということか。


 僕は一階奥の全面窓に面した六人掛けの閲覧席に陣取り、勉強をしていた。向かいでは槙坂先輩が書架から取ってきた本を読んでいる。このテーブルには僕たちのほかには誰もいない。


 なにげなくその様子を窺うとと、彼女は本を読みながら難しい顔をしていた。


「何を読んでるんだ?」


 よほど硬い本でも読んでいるのだろうと思い、聞いてみる。


 図書館は参考調査図書館レファレンス・ライブラリであるべきと主張したエドワード・エヴァレットは、硬い本を推奨し、将来のアメリカを担う若者を育てようとしたのだそうだ。


「……ボーイズラブ小説」

「……」


 軽い後悔が僕を襲う。


「そういうのが趣味なのか?」


 我らが槙坂涼に意外な趣味が発覚、だろうか。僕はおそるおそる問いを重ねた。


「趣味というよりも興味ね。わたしの周りでもたまにこの手の本が話題にあがるから」


 槙坂先輩は何の未練もない様子でページを閉じると、ようやく顔を上げ、本を振って示しながら言う。


 堂々と語る人がいるのか。猛者だな。


「藤間くんはこういうのも読むの?」

「なわけないだろう」


 そんなのを積極的に読む男は稀有だろう。基本、僕は大多数に埋没する人間なのだ。


「男の子ならやっぱり女の子同士のほうがいいのかしらね」

「僕は少数派の恋愛形態を否定するつもりはないよ」


 笑いながら問うてくる槙坂先輩に、僕はあえて論点をずらして答えた。


「それにしても、こういうのを図書館に置いていいものなの?」

「まぁ、尤もな疑問だろうな」


 過去、図書館に所蔵するべきかどうか議論になった作品はいくつもある。『ピノキオ』、『ちびくろサンボ』などがそれに代表される。いわゆるBL小説と呼ばれるジャンルも『はだしのゲン』とともに近年話題の作品だ。尤も、ひとつのジャンルを丸ごと規制の対象にしようとした例は初めてだろうが。


 しかし、図書館は『図書館の自由に関する宣言』で、選書、収集、所蔵の自由を声高に主張している。僕も図書館が宣言の前文にある通り、『基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務』としているかぎり、それは何ものにも侵されない権利として保障されるべきだと思う。所蔵資料は国や自治体が頭ごなしに一括で規制するものではないし、図書館も一部の団体による執拗な抗議や弾圧に屈するべきではない。


「つまり、特定の思想や信条に基づく所蔵資料の偏りがあってはいけないということね」


 僕の説明にそう納得すると、槙坂先輩は次の本を手に取った。


 ほどなく――、


「ねえ」

「うん?」

「逆ハーレムって効率が悪いんじゃないかしら?」


 今度は何を読んでいる!?




 勉強に行き詰まった。


 ずっと化学の演習問題を解いていたのだが、難問にぶち当たってしまった。シャーペンを走らせる手がすっかり止まってしまっている。いいかげん化学式や構造式を見つめすぎたせいか、ゲシュタルト崩壊を起こして、意味がわからなくなってきた。何か参考になりそうな資料を探してくるか、それとも気分転換に借りて帰る読みものでも物色するか。どちらにせよひと息入れようと顔を上げれば、向かいでは相変わらず槙坂先輩が本を読んでいた。


 いったい何を読んでいるのだろうか。またコアなジャンルの本に意欲的に挑戦しているのだろうかと思ったが、今は涼しげな顔で読書に没頭している。長く艶やかな黒髪が流れ落ちてきたのか、彼女は髪をかき上げ、耳の後ろへと流した。


 僕はそれを優雅な仕草だと思った。

 見惚れてしまう。


 と、そのとき槙坂先輩が僕の視線に気づいた。顔を上げ、軽く首を傾げ――問う。


「どうかしたの?」


 それはあまりにもたちが悪かった。


 槙坂涼ならとっくに視線に気づいていて、意地悪く「いつまで見ているのかしら?」と不意打ちをしてきてもよさそうなのに。むしろそのほうがよかったとすら思う。しかし、今のそれにはそのままの意味しかなく、その笑みもとても自然だった。


 だからこそ、どきっとする。


「あ、ああ、ちょっとわからないことがあって、考えてたんだ」


 僕は思わずバカ正直に答えていた。


「あら、どうして早くわたしに言わないの」

「え? いや、わかると思わなくて……」

「失礼な子」


 槙坂先輩はくすりと笑う。


「あなたはすっかり忘れてるかもしれないけど、わたしは先輩なのよ? 見せて。たいていのことはおしえられると思うわ」

「い、いや、いいよ。もう少し考えてみる」

「考えてもわからなかったのでしょう?」


 彼女は立ち上がり、テーブルを回り込んで僕の隣に座った。


「さて、どんな問題?」


 体を寄せ、手もとにあったテキストを覗き込んでくる。……近い。髪が揺れ、僕の肩に触れた。僕は慌ててテキストを押しやり、槙坂先輩を遠ざけた。


「ああ、高分子化学ね。これなら大丈夫だわ。この問題のポイントはここと――」


 これはマズいと思い、僕はポイントポイントにマルをつけていく槙坂先輩の手もとに集中する。これが奏功し、ひとまず雑念を払うことができた。


 一般に、できる人間はおしえるのに不向きだと言われている。すんなりと理解してしまったが故に、できない人間がどこでどうして躓いているかを理解できないからだ。しかし、どうやら槙坂先輩にそれはあたらないらしい。本当にできる人間は何でもできるということか。


「わかった? じゃあ、やってみて」

「あ、ああ」


 さっそくおしえられたことを念頭に、問題に取りかかってみる。


 さっきまでできなかった人間が少しアドバイスをもらっただけで劇的に変わるはずはないが、それでもところどころ詰まりながらではあるが解答まで辿り着いた。


「……できた」


 シャーペンを置き、ノートを眺める。さっきは何も書けなかったそこには、解答とそれに至る過程がしっかり書かれていた。


「よくできました。さすが藤間くんね」


 槙坂先輩は、弟を褒める姉のように微笑む。


 邪気がなく、無垢なそれは、例えば学校で周りの生徒たちに見せている槙坂涼の笑みとはちがっていて――。


(ダメだ。これはやられる……)


 だから、たちが悪かった。


「ほかにわからないところは? なんでも聞いてくれていいわよ?」

「い、いや、いい。……悪い。ちょっと書架を回ってくる」


 僕は槙坂先輩の返事も聞かず、席を立った。


 閲覧席を離れ、参考資料コーナーを抜け、カウンタ前の階段から2階へ上がる。資料を探す利用者も排架している図書館員もいない場所を探して辿り着いたのは、5門の技術・工学の書架だった。興味のかけらもない本の背表紙を無意味に眺めつつ、深々とため息を吐いた。


 心がどうしようもなく揺さぶられる。


 最初からわかっていた。初めて彼女を見たときから、僕は負けていたのだ。知れば知るほど敗色濃厚となり、今や惨敗だ。それでもどうにか自分を誤魔化してここまでやってきたが、それもいよいよ利かなくなってきたらしい。ため息とともに気持ちまで吐き出して、どこかへやってしまいたかった。水の中に垂らした一滴の墨汁のように、雲散霧消してくれないものだろうか。


 できないならせめてフラットにしろ。ニュートラルに戻せ。


 だが、ときとして努力は嘲笑われるためにあるかのように振る舞う。




「どうして逃げるの?」




 それは槙坂先輩の声だった。


 そっちこそどうして追ってくるんだよと聞き返したい。

 声のしたほうを見れば、彼女は通路の真ん中で仁王立ちしていた。


「別に」


 しかし、逃げたのが図星だっただけに、僕は饒舌に否定はできなかった。


「ただ本を探しにきただけだ」

「あら、そうだったの? 藤間くんがこの手の分野に興味があるとは知らなかったわ」

「……」


 僕は書架に並んでいる本の題名を見た。材料力学に構造工学、低温プラズマ材料化学。僕にこんな趣味があったとは、僕も初耳だ。


「ウソばっかり」


 当然、槙坂先輩も本気にはしていなかった。あっさり一蹴する。


 彼女は勝ち誇ったように、少しだけ意地悪く笑った。


「もしかしてどきどきしちゃった?」

「っ!?」

「そうね。夏は薄着だものね。恥ずかしがり屋さんの藤間くんには刺激が強すぎたかしら?」


 からかうように言う槙坂先輩は、スカートの裾を指でつまみ、横に広げて見せた。フレアのミニスカートが扇状に広がる。


 僕は顔を逸らし、投げやりに答えた。


「それだったらまだいいさ。単に僕が欲情したというだけの単純な話なんだから」


 だけど、本当はそんなシンプルな話じゃない。いや、ある意味ではそうなのか。


 槙坂涼は優雅で、知的で、そのくせいたずら好きで人を意地悪くからかうのに、こちらがかまえているときにかぎって裏も表もなくやわらかく笑ってみせる。


 魅力的な女性だ。


 それを今日、改めて思い知らされた。


 尤も、ただ単に人を惹きつけてやまない魅力があるというだけなら、遠目に見ているだけでもわかっていた。でも、最近になって距離が近くなって、僕に見せてくるのは誰も知らない姿ばかり。よりにもよってその姿が、その顔が、ことごとく心を揺さぶってくるのだ。


 目を瞑り逃げようとしても 僕の心をとらえて離さない。


「あなたが手の届かない高嶺の花であってくれたらよかったのに。僕のところにまで降りてこなければ、こんな面倒なことにはなからなかった」


 言っても詮ないことを、僕は苦しまぎれに吐露する。


「これでも普通の女の子のつもりなのよ?」

「どこがだよ」

「そうね、少なくとも藤間くんの前では、かしら。こうして人を好きになるし、今日家を出る前にさんざん何を着ていこうか迷ったわ。どうかしら、この服」


 槙坂先輩は片手を腰に当ててポーズを決めてみせる。


「それに藤間くんのことを考えると時々眠れなくなるわ。大変なのよ、そういうときはいつも。詳しくはおしえられないけど」


 苦笑ひとつ。


「どちらにしても、僕にとっては面倒だ」

「そう、藤間くんは今の気持ちを面倒と考えるのね」


 そして、その表情は真剣なものへと変わった。僕を真正面から見据える。


 その視線は見透かしていた。

 僕の心の動揺を。僕がどんな精神活動を面倒だと表現しているのかを。


「その気持ちに素直になってはくれないの?」


 槙坂先輩は寂しさを含んだ声で問いかけてくる。


「そんなことできるわけがない」

「怖い? そういう行為が」

「……」


 そうじゃない。


 確かについこの間まで、僕は単に自分が臆病なだけだと思っていた。光の中に飛び込むようなその行為に、言い知れぬ不安を感じているのだと思っていた。当たり前だ。僕はまだ十七歳のガキなのだから。――でも、そうじゃなかった。


 彼女は目を閉じ、首を横に振った。


「きっとちがうわね」


 槙坂涼はどこまでも僕を見透かす。


「あなたを足踏みさせているのは、わたし」

「……」

「藤間くんは優しいから、自分の気持ちを押しつけていいのか迷っているのね。わたしに、槙坂涼に」


 そうだ。その通りだ。相手を誰だと思っている。槙坂涼だぞ。神聖不可侵の。それを僕なんかが穢していいはずがない。


「……だから言ってあげる」


 槙坂先輩はすっと間合いを詰めてきた。




「わたしはもう、心の準備ができてるわ」




「意味はわかってくれるわよね?」

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