第3話<下>
藤間くんに怒られてまでわたしがそうしたいと強く主張したのは、当然、病気の彼を心配してのことだった。
だけど、同時に古河さんへの嫉妬心があったのも確かだ。
或いは、対抗意識。
彼女の勝手知ったる他人の家と言わんばかりの様子は、過去に何度もここにきていることを如実に示していて、それが悔しかった。
彼は少し眠ると言って寝室へと入った。
その間にわたしもエネルギィの補給をしておこうと思う。キッチンのものは自由に使っていいと言ってくれているので、お言葉に甘えてパスタと生野菜のサラダを作って簡単な食事にした。
それからお風呂の用意をする。
バスタブにお湯を溜め、その間、言われた通りに脱衣所の戸棚を見てみれば、そこに新品のタオルとトラベルセットがあった。トラベルセットは男性用と女性用がそれぞれふたつずつ。
「……いつでも女の子を泊められるように、じゃないでしょうね」
勝手に邪推して勝手に頬をふくらませる。
次に家へ電話。
母に友達の家に泊まると告げると、特に心配されることも咎められることもなかった。信用されているといえば聞こえはいいけど……。思わず苦笑。男の子の家だと言ったらどんな反応を示すのだろうか。
程なくお湯が満たされ――家にいるときよりも早い時間だけど、お風呂に入った。楽に足が伸ばせるほど広いバスタブで湯船に浸かり、ふとそれを口にする。
「不思議。ひとり暮らしの男の子の家でお風呂に入ってる……」
「……」
足を引き寄せ、両膝を抱える。
顔が熱い。考えすぎて気持ちがのぼせてしまわないうちに上がろう。
お風呂から上がってまた同じものを着るのは抵抗があったけど、朝には家に帰るのでそれまでのことと思って我慢することにした。次にくるときはもっといろんな用意をしてこようと思う。
リビングに戻り、ホームシアターかと思うような大きな壁掛けのテレビを点ける。ボリュームを絞ったのは寝室で藤間くんが寝ていることもあるけど、考えごとをしたいのもあった。
そう、考えごと。
実は藤間くんと積極的に関わるようになってから、わたしの心に引っかかっていることがある。
わたしは去年の春よりももっと前に、彼と会っているかもしれない――。
かろうじて耳に届くくらいのテレビの声を、さらに右から左に流しながら考える。
いつ?
どこで?
思い出そうとしても思い出せない。
最初は気のせいかとも思ったけど、日に日にその思いは強くなって、今では確信に変わっていた。わたしと彼は絶対にどこかで会っている。
去年の春、藤間くんが忘れているなら思い出させてあげる。わたしもちゃんと覚えていることを思い知らせてあげる――そう思って彼に近づいたのに、わたしのほうが埋もれている記憶に気づくことになるとは思いもよらなかった。
彼との本当の出会い。
わたしたちはいつどこで出会ったのだろう。早く思い出したかった。
ドア一枚隔てた電話での会話から二時間ほどがたって、藤間くんが起きてきた。
力の入っていない、ふらふらした足取りでリビングに出てきて、
「うわっ」
わたしの顔を見るや、また引っ込んでしまった。
「ちょっと藤間くん、どうして隠れるの?」
何かとてつもなく失礼な態度を見せられた気がする。少しの間があって、覚悟を決めたような様子で再度出てくる。
「いや、うっかり槙坂先輩がきてるのを忘れてたんだ。正直、着替えたい気分だ」
そういう彼はさっき一瞬だけ見たときに比べて、乱れていたパジャマも跳ねていた髪も心なしか整えられていた。ドアの向こうで慌てて直したのだろう。
藤間くんが向かいのソファに腰を下ろした。
「いいじゃない。かわいいわよ」
「……くそ、制服に着替えてくる」
そして、またすぐに立ち上がった。
「今から制服を着てどうするつもり。ごめんなさい。ちょっとからかいすぎたわ」
そう謝って彼を座らせ、入れちがいにわたしが立った。パジャマ姿がかわいいのと、その恰好で不貞腐れたように肘掛けに肘を突いているのを見ていると、またからかいたくなりそうだった。
「コーヒーでも入れる?」
さっきキッチンを見たときにコーヒーメーカーもインスタントコーヒーも確認ずみだ。
「遠慮しておく。一日の半分を寝て過ごしたんだ。そんなもの飲んだら、夜寝られなくなりそうだ」
「そのときは朝までつき合うわよ。お話でもそれ以外でも」
「そっちも遠慮」
それは残念。
「冷蔵庫にスポーツドリンクがあるはずだから、それを」
「わかったわ」
言われた通り冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、戸棚から出してきたグラスに注いだ。コースタも一緒にリビングにもっていき、彼の前に置く。
「どうぞ。……わたしも烏龍茶をもらうわね」
もう一度キッチンに戻り、今度は自分のための烏龍茶を用意した。
「まるで我が家だな」
「機能的なキッチンほど合理的に最適化されてるものよ。少し見ただけでものの配置はだいたいわかるわ」
特にこういう高級マンションだと、最初から使いやすさを追求しているのでわかりやすい。
「具合はどう?」
彼と向かい合って座り、尋ねる。
「おかげさまでずいぶんよくなった。明日には学校にいけると思う」
「むりはしないほうがいいわ。わたしのことは気にしないで。あなたが治るまで何日でも通うから」
「そんなこと言われたら這ってでも行きたくなる」
この子の天の邪鬼は少々の風邪も関係ないらしい。
馬鹿な言い合いはここまでで――藤間くんはさっきまで寝ていたこともあって目が堅く、この後しばらくはふたりで他愛もない話をしていた。
「ねぇ、気になっているんだけど。あれは何?」
わたしが視線で示したのは、リビングの壁にかけてある額だった。
中には紙が一枚。英字新聞の見出しに使われるようなフォントのアルファベットらしき文字が並び、原色が多く使われた絵も添えられていた。古い本のように見える。
「ああ、それは装飾写本の1ページだ」
わたしの印象は正しかったらしい。
「どこかのバカがバラバラにして売り出したみたいで、たまたま手に入れたんだ」
「どういうものなの?」
「要するに、まだ印刷技術が安定的に確立されていなかった時代、よい書物を広めるために手書きで複製したものだと考えればいい」
そう言いながら藤間くんは額を壁から外し、わたしに手渡した。
「読めないわ。何が書かれてるの?」
「さぁ?」
と、彼。
「ラテン語だからね。僕だって読めないよ。ただ、写本が盛んだったのは十四、五世紀のキリスト教の世界で、当時いちばん多く書き写されたのは聖書だから、たぶんそれもそのうちのひとつだろう。ベテランの写字生がふたりいれば、七日で一冊の聖書を書き写したそうだ」
少なくとも歴史がひっくり返るようなものではないだろう、と藤間くんは笑う。
「すごいと思わないか? そんな古いものなのに字も絵も未だに鮮やかなままだ。今じゃ電子書籍なんていう質量ゼロの本が溢れ返ってるけど、これはその対極だ。一字一字、一色一色すべてが人の手で紙の上に乗せられていった。その紙だって大量生産できず貴重だっただろう。そう思えばここにあるこの質量は決して軽いものではないし、
そう語る藤間くんは、知識を披露するときのような淡々とした口調ではなく、もっと情熱的な語り口で――このときのわたしには、それがとても新鮮で印象的だった。
やがて時計の針が二十三時を回るころ。
「本当にそこでいいのか?」
寝室から来客用らしい掛け布団を一枚持ってきた藤間くんは、改めてわたしに確認した。
「ええ。さっきも言ったでしょ? わたし案外どこでも寝られるのよ?」
「だからって僕がベッドに寝て、槙坂先輩がソファというのもな……」
でも、お互いの寝場所についてまだ納得していないらしく、毛布をなかなか寄越さない。
「シーツもカバーもぜんぶ取り替えるから、ベッドに寝てくれないか」
「だーめ」
こちらも梃子でも動かない決意で、さっきからソファに座ったままだ。わたしだって病人をソファに寝かせる趣味はない。彼のこういう口は悪いくせに紳士なところも好きだけど、こればかりは譲れない。
「そんなにわたしをベッドに寝かせたいなら、方法はなくもないわよ?」
「わかった。僕が悪かった。もうソファでも床でも好きなところに寝てくれ。因みに、僕のオススメはあなたの部屋にある使い慣れたベッドだ」
そう言うと藤間くんはようやく布団を渡してくれた。が、まだ渋い顔でソファを見ている。
わたしは「あ」と何かを思い出したように発音し、
「スカートがしわになると困るから脱がないと」
ダメ押し。
藤間くんは突風のように寝室に逃げていった。
§§§
真夜中。
わたしはぱちりと目を開けた。
一瞬、なんでこんな時間に目が覚めたのだろうと思ったけど、すぐにここがどこかを理解して納得した。やっぱり人の家で、しかも、ソファで寝ていると眠りが浅かったようだった。
ソファから立ち上がり――向かったのは藤間くんの寝室だった。
ドアのレバーに触れると、それは軽く力を入れるだけで角度を変えた。鍵はかかっていないらしい。
(不用心よ、藤間くん)
静かにドアを開け、中に這入る。睡眠の妨げにならないように光量を絞り込まれた間接照明のおかげで、中の様子はすぐに把握できた。ダブルベッドと扉付きの書棚、それにライティングデスクがある。
わたしはゆっくりとベッドに歩み寄った。
彼が眠っている。穏やかで規則的な寝息で、特に苦しそうな様子はない。ほっと胸を撫で下ろす。夜中になって熱が上がったりはしていないようだ。
わたしは手を伸ばし、彼の額にかかっていた前髪を払った。その口から「ん……」と悩ましげな声がもれたけど、目を覚ます様子はない。
彼の寝顔をじっと見る。
「ねぇ。初めて会ったときのこと覚えてる?」
気がつけば我知らず問いかけていた。
「わたしはまだ思い出せないの」
あなたはそれを知っていてわたしに近づいてきたの……?
§§§
朝になって一緒に朝食を食べた後、わたしは早々に彼の部屋を出た。学校に行く前に一度家に帰らないと。着替えもしたいし、鞄の中は昨日の時間割りのままだ。
早朝のマンションの前で「うーん」と伸びをする。
「朝帰り。気持ちいい」
新鮮な気分だった。
ちょうど通りかかったサラリーマンらしき男の人がこちらを見てぎょっとしていたけど、わたしは笑顔で返しておいた。
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