第8話

 平和と退屈と本を愛する一介の男子高校生に与えるにはあまりにも立派すぎるマンションのリビングで、朝、僕はコーヒーの入ったマグカップを片手に体をソファに沈め、天井に向かって深々とため息を吐いた。


 迂闊な自分を呪う。


 あの後、僕と槙坂涼は無言で歩いた。僕はどんな話題を口にすればいいかわからず、槙坂先輩の言葉を待ち――その彼女もまた、同じく無言。そのときの槙坂先輩が何を考えていたかは、僕には知る由もない。想像もできない。結局、お互い駅までひと言も喋らず、最後の最後、僕が改札口を通るときになって、槙坂先輩はひと言「じゃあね」と笑顔で言った。


 それから二日がたった。


 昨日は彼女と会っていない。――否。意図的に避けた。


 幸いにして同じ授業はなく、昼食は予めコンビニで買っておいて、遭遇率の高い学食には近寄りもしなかった。スマートフォンもわざと家に忘れていった。もちろん、家に帰って確認してみれば、不在着信とチャットがあったのは言うまでもない。それに対して折り返し電話をかけず、チャットもロック画面で確認しただけで中身を見ないでいたら、当然のように夜には電話がかかってきたが、やっぱり出なかった。出なかった理由はまだ用意できていない。さて、問い詰められたら、どう言い訳したものか。


 改めてため息を吐き――己の迂闊さを呪う。


「まさか雰囲気に流されて、あんなことをしてしまうとは……」


 最近踏み込みすぎ、というか、踏み込まれすぎだろ。


 あれを気の迷いと斬り捨ててしまうのは、自分に対する嘘以上に彼女に対してあまりにも失礼だろう。しかし、自分の気持ちを整理するためにも、少し時間がほしいのもまた事実だ。


「そろそろ行くか」


 点けっぱなしにしていた朝のテレビ番組の流れを判断材料に、僕はソファから立ち上がった。


 昨日の朝も今と同じことをしていたし、いつまでもこうしていても仕方がない。今日は槙坂先輩と同じ授業があって、おそらく会うことを余儀なくされるだろうが、だからといって学校に行かないわけにはいかないのだから。


 僕はマグカップを簡単に洗ってから、鞄を持って家を出た。




                  §§§




 学校に着き、大教室のいつもの席に行けば、そこには浮田がすでにいた。


「やあ、久しぶり」

「久しぶりでもねーよ」


 彼は苦笑交じりに言い返してくる。


「そうだったか。球技大会をはさんで昨日も会っていないせいか、どうも久しぶりに顔を見た気がしたんだ」

「その球技大会じゃ卓球で地味に活躍したそうじゃん」

「いちおうベスト8だね。クラスの総合成績に貢献できたと自負してるよ。……そっち詰めてくれ」

「お前ね、その態度横暴だと思わないの?」


 文句を言いつつも、浮田はひとつ奥の席へと移った。

 空けられたそこに僕が座る。やはり通路側のほうが圧迫感がなくていい。


 席に着いて、持っていたテキストとノート、読みかけの文庫本を置いたところで、教室内の無秩序な喧騒が一定の指向性をもったざわつきへと変わった。――お馴染みのあれだ。


 教室の中ほどにある入り口に目をやれば、案の定、槙坂涼の姿があった。


 何人かの友人とともに、大教室を前後に分ける通路を歩いてくる。相変わらず輪の中心にはいるが、グループのリーダーというよりは彼女の動きに合わせて周りが一緒についてきている感じだろうか。席へと向かう途中、彼女はまるで不意打ちのようにこちらを見――微笑みながら小さく手を振った。瞬間、僕ははっとして、咄嗟に文庫本を開きつつ顔を背けた。気づいていない振り、見ていなかった振りのつもりなのだが、やや逃げ遅れた気がしないでもない。そして、肌で感じるほど周りからの視線が痛かった。


「お前、槙坂先輩と今どーなってんの?」

「……別に。どうもなってないよ。もともと偶然顔見知りになっただけの単なる先輩後輩だからね」


 浮田の非難めいた問いに、僕はさらりと答える。激しく嘘だった。


 そのまま僕は全身でこれ以上の質問は受けつけないオーラを出しつつ、文庫本のページをぱらぱらとめくる。程なくしてスラックスのポケットに突っ込んだスマートフォンが震えた。チャットの着信だった。


「誰? もしかして槙坂さん?」

「何でだよ。すぐそこにいるんだから、直接話せばいいだろ」


 だが、そう答えながらも僕は、このチャットの送り主が槙坂先輩だと確信していた。何せ彼女は近くにいながら電話で話したり、メールやチャットを送ったりが好きなのだ。そして、開いてみればやはり、だ。




『誰かお昼に誘ってくれないかしら? 誰でもいいから一昨日の話がしたくて仕方がないの』




「……」


 中身は遠回しの脅迫文だった。今日も携帯端末を家に置いてきていたらと思うと、考えるだに怖ろしい。


 僕はすぐさまチャットを送り返した。




『わかった。その話は僕としよう。よかったら一緒に昼食を食べないか?』




 これに対する返事は、なぜかすぐには戻ってこず――まるで勿体つけるようにして、授業の半ばになってやっと送られてきた。


 もちろん、快諾だった。

 だったら早く送ってこいよと思う。




 その後、午前最後の授業をはさみ――そして、昼休み。


 僕たちは学食の入り口で待ち合わせをした。


「こんにちは、藤間くん」

「……ああ」


 先にその場にきていたのは槙坂先輩のほう。丸一日ぶりに槙坂涼と面と向かって相対した。彼女はいつも通りに挨拶をしてくるが、僕は気まずさと後ろめたさで、ぎこちなく返すのがやっとだった。


「七月に入って日に日に暑くなるわね。早く中に入りましょ」

「だったら中で待っていればよかったのに。どうせならいっそのこと、さっさとひとりで食べててくれてもかまわなかったんだけどな」


 ぜひそうしてほしかったものだ。


 その一方で悪いことをしたとも思う。ここまでくるのに足取りが重かったせいで、たぶんいつもより時間がかかっていたはずだ。学食は独立した建物だが、講義棟1と接しているため入り口付近は日陰になる部分が多い。とは言え、外より中のほうが涼しいのは確かだ。僕が遅れた分だけ、彼女は暑いところで待っていたことになる。


「そんなことできるわけないわ。せっかく藤間くんがお昼に誘ってくれたのに」

「誘ったというよりは、誘わされたという気がするがな」

「じゃあ、きっとわたしって誘われ上手なのね。一昨日もまんまと藤間くんに乗せられたし」

「……」


 蒸し返してくれるなよ。いや、もとより蒸し返す気満々で、そのためのこの席なのか。


 言葉を詰まらせる僕にはおかまいなしに、槙坂先輩は学食へと入っていく。僕もすぐに後を追った。


 中に入ると、そこで一旦僕たちは別れた。

 席の確保は弁当持参の槙坂先輩に任せ、僕は自分の昼食を買いにいく。待たせている手前ノータイムで日替わりランチを選択。メインディッシュは豚の生姜焼きにした。手早くトレイにメニューを揃え、支払いを済ませてあたりを見れば、いつものように最奥の壁際の席に彼女はいた。


 そばには三人ほどの同学年らしき女子生徒がいて、笑顔で言葉を交わしている。が、僕の接近に気づくと、彼女たちは手を振って槙坂先輩のもとを離れていった。


(……よけいな気を遣ってくれる)


 僕は思わずひかえめなため息を吐き出す。

 そうしてからテーブルの上に小さな弁当箱を置いた槙坂先輩の向かいに腰を下ろした。


「ね、言ったでしょ? みんなも藤間くんとの関係を大事にしてくれるって」

「らしいね」


 周りは敵ばっかりか。やれやれだ。


 それ以上その話には触れず、僕は塗り箸を手に取った。待ってくれていた槙坂先輩も弁当箱の蓋を開け――僕たちは一緒に昼食を食べはじめる。


「さて、まずは昨日連絡が取れなかった弁明から聞かせてもらいましょうか」


 少ししてから、さっそく彼女が口火を切る。


「うっかりスマホを家に忘れて出てきてしまったんだ」

「ええ、サエちゃんから聞いたわ」


 そう言えば、昨日こえだの突撃を受けた際に、槙坂先輩を見かけたら家に端末を置き忘れてきたと伝えてくれと言っておいたのだったな。


「夜にも電話をしたわ。どうして出てくれなかったの?」

「ああ、悪い。そっちについてはまだ理由は考えていない」

「そう。いい理由を思いついたらおしえてね」


 彼女は魅力的な笑顔でそう言い、僕は肩をすくめた。


 一度会話を切り、食事を進める。


 とてつもなく居心地が悪かった。かと言って、いま僕から何か話を振ったところで、単に話題を逸らそうとしているだけにしか見えないだろう。しかも、話題は逸れない。


「会いたかったのよ? 声だけでも聞きたかった」


 しばらくして彼女は、少し怒ったように口を開いた。


「何を急に。今までだって二、三日会わなかったことくらい、いくらでもあっただろう」

「そうね。確かにそうだわ。自分でもちょっと不思議。あんなことがあったからかしら?」


 頬に手を当て、首を傾げる。少しばかり演技めいた動作だ。


「藤間くんはわたしに会いたくならなかった?」

「いや、ぜんぜん。むしろできれば会いたくなかった」

「そのようね」


 槙坂先輩は小さく笑った。面と向かって会いたくなかったと言う人間を前にして笑えるのだから、槙坂涼はやはりただものではないと思う。


「でも、どうして?」

「……正直、どんな顔をして会えばいいかわからなかったんだ」


 僕が無意味にサラダをつつきながら、渋々そう言うと――瞬間、槙坂先輩はぷっと吹き出した。


「そういうところ、かわいいわ。でも、女のわたしなら兎も角、あなた男でしょう? 初心ウブな中学生の女の子じゃないんだから、もっと堂々としていなさい」


 年上らしく叱るように言われてしまった。


 確かに尤もである。実際、こうして顔を合わせてみれば、どうにかいつも通りに話せている。気持ちの整理がついたということか。今となっては場当たり的な小細工で逃げ回っていた昨日の僕は何だったんだろうなと思わなくもない。


「自分なら兎も角、ね。そう言うわりには、そっちは普段通りだな」


 一方、僕の目の前にいる人物は、いつも通りすぎるくらいいつも通りだった。


「あら、そうでもないわよ。その日の夜は大変だったし、昨日はわたしだって藤間くんと顔を合わせるのが恥ずかしかったもの」


 槙坂先輩はそう言いながらころころと笑う。


 この感じだときっと口先だけだな。彼女は昨日も平常運転だったにちがいない。なるほど。あれくらいでは動じないということか。さすがは槙坂涼だ。


「ま、でも、誰かさんが逃げるものだから、それもぜんぶ吹き飛んじゃったけど」


 非難の半眼が僕に向けられる。


「悪かった。仕方ないだろ。こういうことは初めてなんだから」

「そう。初めてなのね。安心したわ。藤間くんのことだから、案外しれっとやることはやってるんじゃないかって思ってたの」

「……」


 いったい彼女の目に僕はどんなふうに映っているのだろうな。


「言っておくけど、わたしも初めてよ?」

「それは初耳だが、言っておかなくていい」


 過去の会話からしてそうだろうとは思っていた。それだけに己の罪深さと責任の大きさに告解部屋へと駆け込みたくなる。宗教裁判的に裁かれたら、確実に有罪だろうが。


「兎も角――ようやくなってきた感じね」

「らしく?」


 その漠然とした言葉に、僕は思わず聞き返した。


「彼氏彼女」

「待て。誰と誰が、なんだって?」


 無論、彼女の言っていることの意味がわからなかったわけではない。わかった上でこう問うているのだ。それは何の冗談だと。


 僕の再度の反問に、彼女はさも当たり前のように言う。


「あら、わたしたちってそういう関係じゃなかったの?」

「いつも言ってるが、断じて違う」

「好きって言ってくれたわ」


 人をからかうような調子の槙坂先輩。


「……悪い。記憶にないな」


 少なくとも、そうは言っていないはずだ。……我ながら苦しい言い分だが。


 婉曲、且つ、文学的な表現を使って何かを言ったこともあった気がするが、あれはすでに僕の中では単に月を見ての感想を述べただけであり、それを彼女が恣意的に解釈したことになっている。月なんか出ていなかった気もするが、記憶の忘却とすり替えは人間のもつ偉大な自己防衛機能のひとつだ。


「すっかりそうだとばかり思っていたわ」


 おかしいわね――と、槙坂先輩。


「『望んだものを手に入れたと自惚れているときほど、望みから遠ざかっていることはない』。――ゲーテの言葉だ」

「つまり油断はするなということね。覚えておくわ」


 槙坂涼はよからぬことを企む悪魔の笑みを浮かべる。……どうもさっきから生姜焼きを食べているはずなのに味がしなくなっているな。


 突然、槙坂先輩が何かに気づいたように言葉を発した。


「大変。それだとわたしが、つき合ってもいない男の子とキスをしたことになってしまうわ」

「そうらしいな。槙坂涼の新たな一面だ」


 せっかくなので僕は鼻で笑ってやる。




「仕方ないわね。それならそんなわたしにお似合いの、つき合ってもいない女の子とキスをするような男の子をさがすことにするわ」




 そこで槙坂涼は真っ直ぐこっちを見た。


「心当たりはある?」

「残念ながら」


 僕は首を横に振る。そんな不誠実な男が世の中にいるとは驚きだ。縛り首にしてしまえ。


「藤間くん、家に鏡は?」

「……今の話とそれがどう関係あるのか知らないが、あいにくと先日ぜんぶ割れてしまってね」

「ご愁傷様。それは不便ね。今度わたしが泊まりにいくときまでに替えておいてくれると助かるわ」

「……」


 ぜひともこないでくれ。


 不意に槙坂先輩は、わざとらしく悩ましげなため息を吐いた。




「誰か放課後にカフェに誘ってくれないかしら? 誰かにその相談がしたくて仕方がないの」




「わかった。その話は僕としよう。よかったら帰りにカフェに寄らないか?」


 もちろん、僕は間髪いれずそう切り出した。


 彼女の快諾は、笑顔とともにすぐに返ってきた。

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