第7話<下>

 そうして夕方、球技大会がつつがなく終わると、僕と槙坂涼は『天使の演習』へと足を運んだ。


 僕に卓球をおしえてくれたマスターに本日の報告をしておかないと。


 因みに結果は、あれからふたつ勝ち、準々決勝での敗退となった。自己分析を上回る好成績だったといえる。そして、それを聞いた店長は「健闘しましたね。おしえたのが僕じゃなかったら、もっといい結果が出ていたんじゃないでしょうか」と笑っていた。


 今、僕たちはその『天使の演習』からの帰りだった。


 隣を槙坂先輩が歩いている。


 尚、彼女は出場したテニスでしっかり優勝していた。ずいぶん様になっていたので経験があったのかと問えば、小学校のころテニススクールに通っていたとのことだった。経験者の参加はルール違反くさいが、そのあたりまでなら許容範囲のようだ。団体種目を見れば、ミニバスや少年野球、サッカークラブに所属していた生徒はわりとよくいる。


「そのわりにはあのホームランは見事だったな」

「あ、あれは……」


 槙坂先輩が恥ずかしそうに口ごもる。


 大会中、健闘しつつも敗退した僕は、槙坂先輩が決勝まで勝ち進んだことを小耳にはさみ、今まさに決勝戦をやっているであろうテニスコートへと足を運んだ。そして、そこで最初に見たのが、サーブで盛大に明後日のほうへとボールを飛ばす彼女の姿だった。


「あれは急にあなたがきたから……」

「僕は関係ないだろ」


 何を急にボールがきたのでみたいなことを言っているんだ。そんなのでよく決勝まで残れたな。


 当然だが、各種目の決勝戦は大会終盤に行なわれ、それだけに人が集まる。とりわけ槙坂涼が勝ち残った女子テニスの決勝戦はギャラリィが多かった。どの種目でもクラスメイトが決勝にまで残らず応援する相手のいない生徒や、いてもそれを放棄した連中やらが、彼女見たさに集まってきていたのだ。


 僕もその中のひとりだったのだが、槙坂先輩は目ざとく僕を見つけ――直後、あれをやらかしたのだった。


「もういいわよ……」


 彼女は不貞腐れたように口を尖らせた。


 まぁ、確かにどうでもいい話だ。それにいつまでも人の失敗をつつくのは、あまりいい趣味とは言い難いしな。


「さて、お待ちかね。ついに藤間くんの秘密をおしえてもらう時間ね」


 槙坂先輩はことさら明るい口調で、やや強引に話を切り替えてくる。


 きたか。

 まぁ、忘れているとは思っていなかったが。


「どれにするかな……」


 それにこの勝負、もとより僕が負けるだろうと予想していたので、いくつかおしえても差し支えなさそうな話を用意しておいた。そのどれにするか、なのだが。


「迷うなら好きな女の子の名前でもいいわよ?」

「やめておく。あまりにもおしえたくなくて嘘を言ってしまいそうだ」

「相変わらず天の邪鬼ね」


 槙坂先輩は呆れたように苦笑する。……そういう決定的な部分でだけは嘘を口にしたくないんだ。それなりに誠実な人間だと思ってほしいね。


 それは兎も角、


「じゃあ、これだ。――実は僕は左右の目の色がちがっててね、右目が微妙に赤褐色なんだ」

「……本当なの?」

「らしい」


 かなり暗い赤褐色で、日本の伝統色でいうところの黒鳶というやつだ。


 自分のことなのに『らしい』としか言えないのは、僕自身それを認識できていなくて、実感がないからだ。だが、母がそう言うのだから本当なのだろう。時折、鏡の前にいるときに光の加減でそう見えるときがあるが、瞬きをした次の瞬間にはもう左右同じに見えている。僕としてはその程度。男と女で色に対する分解能の精度がちがうというのは本当らしい。


「遺伝なんだ。父親じゃなくて、母親からの」


 母は両目とも、それとわかるくらいはっきりと鳶色をしている。だが、僕にはそれが片目だけに発現してしまったようなのだ。メンデルも驚く遺伝の不思議である。


「見せて」


 槙坂先輩は好奇心いっぱいにねだってくる。


「今か?」

「今よ。ベッドの上まで待てないもの」


 そして、有無を言わさぬ調子で言い、僕を自分のほうに向かせた。


 僕らは住宅街の道の真ん中で向かい合う。


 槙坂先輩が僕の目を覗き込んできた。彼女の目がわずかに左右に揺れている。僕の目の右と左のちがいを確かめているのだろう。僕は微動だにせず、その視線を受け止めた。


 とても落ち着かない気分だった。距離は普段彼女が僕のネクタイを直すときよりも近い。そういえば夏服になってネクタイから解放されたせいで、あれもしなくなったな――などと現実逃避気味に思考する。


 目を見るという行為であるが故に、こちらも目を逸らすわけにいかなかった。


 そして、気づく。彼女の瞳に映る自分の姿に。それは僕が槙坂涼の瞳の中に閉じ込められているようで、まるで何かの暗喩のようでもあった。


「本当ね。確かに右目だけ赤みがかってるわ。素敵よ」

「そりゃどーも」


 わかったのならもういいだろう――僕は彼女から顔を背け、そのまま逃げるように歩き出そうとする。


 が、


「待って」


 だがしかし、僕は呼び止められ――あろうことか彼女は僕の腰に手を回して、こちらの動きを制すると同時、僕を引き寄せた。


 僕たちは再び向かい合う。


 否、見つめ合う。


 槙坂先輩が改めて僕の目を覗き込んできたのだ。その瞳に熱っぽいものが含まれているように見えるのは、僕の気のせいだろうか。


「これってあなたの罠だった?」

「どういうことだ?」


 罠とはまた剣呑だな。




「キスがしたくなったわ」




「……」


 冗談、というわけではなさそうだ。それは僕を見つめる彼女の瞳が雄弁に物語っている。


 槙坂先輩がそっと目を閉じた。


 さすがに僕でも彼女が何を求めているかわかる。


「……やめよう」


 だが、僕はそれには応えなかった。


「どうして?」

「相応しい相手がいるだろう」


 目を開け不思議そうに僕を見返していた彼女だったが、次の瞬間、目に見えて不機嫌な表情へと変わった。


「……それは、誰?」

「それは――」


 少し考えただけでも何人か思い浮かぶ。槙坂先輩に匹敵する秀才(実際には万年二位だが)で生徒会長もしている三年の彼や、運動部のいくつかにはエースと呼ばれて将来を嘱望されている生徒もいる。彼らなら槙坂涼に釣り合うだろう。


「いいわ、言わなくても。その代わり質問を変えるわ」


 言いかけた僕の言葉を遮る。




「今あなたが思い浮かべた中で、誰ならわたしとキスをしても納得できる?」




「……」


 誰だ?

 誰なら許せる?


 ……。

 ……。

 ……。


 だが、考えても答えは出ず――、




 答えの代わりに僕は槙坂先輩に顔を寄せ、彼女も再び目を閉じてそれに応える。

 僕たちは唇を重ねた。




 これでも答えが出なかった理由はわかっているつもりだ。考えるまでもない。もとより答えの出るはずのない問いだったのだ。もちろん、『ああ、そうか。僕は――』なんて、今ごろ気づいたようなことを言うつもりもない。


 自分のことは自分がいちばんよくわかっている。

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