第11話<下> (本編最終話)

 槙坂先輩と中庭を歩く。


「まったく。これで学校にきにくくなった」

「そう? わたしは平気よ」


 まぁ、そうだろうな。そうじゃないと『槙坂涼』なんてやってられないにちがいない。


 僕も登校拒否するわけにもいかないだろう。逃げれば逃げるほど出ていけなくなるパターンだ。先ほどの授業をとっていないのだけが救いか。


「本当、あなたは天邪鬼ね」

「何のことだ?」


 と聞き返してみたところで、心当たりがありすぎる。そして、今にかぎって言えば、どのことかは明々白々だ。


「さっきのことよ」

「……」


 それしかないだろうな。


「だってそうでしょう? 藤間くんがわたしをつれていくにせよ、わたしが勝手についていくにせよ、結果は同じだもの」

「だが、僕の矜持の問題が残る」


 勝手についてこられるというのもそれはそれで男冥利に尽きるのかもしれないが、僕としては立つ瀬がないのである。


 それはさておき。


「さて、これからどうするか……」


 覚悟を決める覚悟はできたが、覚悟だけではどうにもならないこともある。現実的なことも考えなければな。


「どうにかなるわ」

「簡単に言ってくれる」


 と、そこで不意に槙坂先輩は、一見して関係ないと思えるような話を振ってきた。


「藤間くん、1450年は何の年だったかしら?」

「1450年? ずいぶんと曖昧な問題だな」


 歴史の教科書を開けばいろいろと出てきそうだが、ほかでもない僕に出した問題であることを考えればおのずと答えは見えてくる。


「グーテンベルクの活版印刷?」

「正解」


 出来のよい弟を褒める姉のように彼女は言う。


 図書館史はヨハネス・グーテンベルクの活版印刷を抜きにして語ることはできない。書物の大量生産を可能にした革新的な技術がこの活版印刷で、火薬、羅針盤とともにヨーロッパに変革をもたらした三大発明のひとつとされている。


 その最初期に印刷された聖書は、『グーテンベルク聖書』『四十二行聖書』と呼ばれ、世界大百科事典には次のように記されている。




『それはゴシック書体の傑作であるうえ、いずれの点からみても非のうちどころのない、活版印刷最初の本であり、人はその語間から発する精神に読む以前すでに打たれたという』


 


 僕はいくつかの書籍のカラー口絵でしか見たことがないが、美しい書体と五百年以上たってなお色鮮やかな装飾は、百科事典にそう書かれるだけのことはあると万人が認めることだろう。


 グーテンベルク聖書の印刷部数は百六十~百八十で、現存しているものは四十八部のみ。それらは世界中の大学図書館や博物館で厳重に保管されている。


 日本にも一冊、慶應義塾大学の図書館に所蔵がある。1987年に競売に出され、丸善が八億円弱で落札したものだ。本来、グーテンベルク聖書は上下二巻なのだが、これには上巻しかない。しかし、それでも現存するグーテンベルク聖書の中で最も美しいものの一冊とされているのだ。


「知ってる? グーテンベルクは1450年よりも以前に印刷技術を完成させていたの。でも、すぐに世に出すことを躊躇った。これによって悪書が粗製濫造されることを心配したのね」

「それは知らなかったな」


 図書館史には当然興味はあるのだが、あまり人物背景には目を向けたことはなかった。


「どこでそんな知識を?」

「もちろん図書館よ。言ったでしょう? 最近わたしも図書館で調べものをするって。グーテンベルクのことを調べようと思ったのは、藤間くんが興味をもつものにわたしも惹かれたからかしらね」


 そう言って槙坂先輩は苦笑した。

 再び話を戻す。


「結局、グーテンベルクは数年考えて世に送り出した。どうにかなる、そんなに考えることじゃない、って」

「まさかそれが結論か?」

「ええ」


 自信満々でうなずく槙坂先輩。


 希望的観測。楽観論。オプティミズム。……ケ・セラセラ (Que Sera, Sera=なるようになる)かよ。僕としてはセ・ラヴィ(C'est La Vie=人生そんなもの)といったところなんだがな。


「心の持ちようでどうにかなる問題じゃないよ」


 尤も、それについては僕にも言える話ではある。


 校舎に囲まれた中庭の小道は、校舎同士をつなぐ連絡通路の役割を果たしていて、休み時間ともなると教室の移動のために多くの生徒が行き来する。皆が皆ここを通るわけではないが、それでもこうして歩いているとたくさんの生徒とすれちがう。そして、その中の何人かは並んで歩く僕と槙坂先輩を目で追うようにしながら通り過ぎていった。どうやら久方ぶりのふたり一緒の姿が目を引くようだ。今でこれなのだ。先の一件が広まるのかと思うと頭が痛くなる。


「そうね。わたしも藤間くんと同じように留学するのがいちばん現実的な手じゃないかしら。ひとまず日本の大学に進んで、その後で海外でやりたいことができたとでも言えばいいわ」

「それでいいのかよ。家の人は?」

「うちは放任主義だから。ほら、たびたび外泊しても何も言わないでしょう?」

「……なるほど」


 うなずく僕の声が自然と苦々しいものになる。人の家をセカンドハウスにしないでもらいたい。


「それでも世間体は気にするし、案外ブランド志向だから、成績優秀、眉目秀麗な娘がアメリカに留学するとなったら、きっと諸手を上げて喜ぶわ」


 自分で言うかよとも思うが、それが僕の前での槙坂先輩であり、まったくもってその通りなのだから困ったものである。


「後で男の子と駆け落ち同然の留学だと知ったらどんな顔をするやら見てみたいところではあるけど、向こうで知り合った男の子と一緒になった、くらいにしておきましょうか」

「……」


 親もまさか娘がこんな神算鬼謀、怜悧狡猾な少女だったとは思うまい。


 それにしても、親を試すような彼女の言動に正直驚かされた。槙坂先輩なら家に帰っても絵に描いたような仲のよい母娘、円満家庭だと思っていたのだが、意外とそうでもないのかもしれない。それとも放任主義というところに、彼女自身にも無自覚な不満があるのか。……まぁ、僕が詮索するようなことではないな。


「考える時間なら十分にあるわ」

「そうだな」


 僕が卒業するまで残り一年。それ以降の僕らのことを決めるのに、一年という時間は長いのか短いのか。


「朝までじっくり話し合いましょう?」

「そっちじゃねぇよ」


 しかし、槙坂先輩にとってはあながち冗談でもなかったようで――彼女はまるで行く手を遮るようにして素早く僕の前に回り込んだ。こちらが思わず足を止めたところで、僕のネクタイに手を伸ばしてくる。


 そうして器用にもテキストを小脇にはさんだままでネクタイを整えながら、諭すように言うのだった。


「あのね藤間くん、一度は捨てようとした彼女が戻ってきたのよ? それなりの態度というものを示しましょうね?」

「……」


 どっちが捨てただの見限っただのは、この際問うまい。少なくとも、悪いのは僕であることだけははっきりしているのだから。


「……悪かったと思ってる」

「そう。じゃあ、しっかり行動で証明してもらうことにするわ。……もちろん、優しくなんてしなくてもいいわよ」


 槙坂涼は笑う。

 例の小悪魔めいた笑みで。


 僕は内心の動揺を悟られまいと、顔を逸らす。と、丁度そこに通りかかった男子生徒に舌打ちされてしまった。往来の真ん中でこんなことをしているのだから当然か。


 僕はネクタイが直った頃合いを見計らい――というか、ほっておくといつまでも触っているので、槙坂先輩の手をやわらかく払いのけ、歩き出した。


 彼女がくすりと笑ったのが聞こえた。


「わたし、藤間くんと一緒になってよかったわ」


 追いついてきて横に並んだ槙坂先輩が言う。


「まさか日本を飛び出すことになるなんて。きっとこの先ずっと退屈しないわ。藤間くんもそう思うでしょう?」


 ああ、そうだ。彼女はこういう性格だった。――槙坂涼は何よりも退屈を好まない。


 ならば、退屈と平和と本を愛する一介の高校生である僕はこう答えよう。


「まさか。ないね。ファウスト博士じゃあるまいし、僕には悪魔メフィストフェレスと契約する趣味はないよ」

「もぅ……」


 僕の返事がお気に召さなかったようだ。


 僕は槙坂先輩とはちがう。退屈な日常を好み、その退屈の中に時々スパイス程度に面白いことがあればいいのだ。でも、彼女はそのスパイスにしては少々強すぎる。


「それで、あなたの本音は?」




「ま、最悪、僕が迎えにいくさ」

「……天邪鬼」




 彼女は呆れた調子で苦笑する。


 そもそも、槙坂先輩が留学を反対されるかもしれないし、彼女をつれていくという僕の覚悟が固まらないかもしれない。今ここで話していることもこれから決めることも、きっと課題の多いものばかりになることだろう。前途は多難だ。


 それでも僕は、例え今は無理だったとしても、必ず彼女を迎えにいこうと思う。


 


 好みなんて変わるものだ。


 読書の傾向がころころ変わるように。

 恰好つけることに飽きるように。


 どうやら僕はいつの間にか、退屈な毎日より刺激的な日々を好むようになっていたらしい。




 強めのスパイスも悪くはない。


 願わくば、いつまでも彼女の小悪魔のような微笑みが僕の隣にありますように。

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