アフタ・ストーリィ

その1 槙坂さん、キャンパスライフ

「涼さーん」


 四コマ目の講義が終わった後、キャンパス内――明慧学院大学の構内を足早に歩くわたしに、誰かが呼びかけた。


 聞き慣れた声。


 立ち止まって振り返ると、車椅子の女の子の姿があった。――唯子だ。膝の上にはスマートフォンが乗っている。


「レアキャラ発見」

「失礼ね」


 唯子が横に並ぶのを待って、また歩を進める。歩く速さは先ほどよりも落として、普通。別に車椅子の唯子に合わせたわけではない。車椅子を自分の足の如く巧みに操る彼女にそんな気遣いは無用だ。ただ単に先ほどのような速さでは話をするのに不適なだけ。


「会わないのは学部の違いじゃないかしら」


 わたしは工学部の建築デザイン学科で、唯子は保健学部のリハビリテーション学科。


 聞けば彼女は理学療法士になりたいのだという。残念ながら彼女の足の運動機能が今以上に回復する見込みはないが、それでも理学療法を学び、少しでも可能性のある人がいればその力になりたいのだそうだ。


 高校と同じ感覚で通えるこの明慧大に彼女の希望を叶える学部があったのは幸運だったと思う。車椅子が不可欠な唯子にとっては、生活スタイルや生活圏を変えるのは容易ではないはずなのだから。


「そもそも涼さん、あまり授業とってないでしょ?」

「そうね」


 わたしは来年、アメリカに渡る。藤間くんがわたしをつれていってくれるのか、わたしが勝手についていくことになるかはわからないけれど。どちらにしても、図書館学を本場のアメリカで学び、そのまま向こうで司書になりたいという藤間くんと一緒に渡米することになるだろう。


 だから、今の明慧大は腰かけ。


 講義もあまり取らず、取るにしてもテキストを買わなくていいものばかり選んでいる。唯子にレアキャラと言われてしまう所以だ。


「おかげで涼さんのことよく知らない男連中に、『今日槙坂さんは?』とか『槙坂さん紹介して』とか『槙坂さん合コンに呼んで』とか言われるんだから。人の顔見るなりそんなこと聞く? フツー」


 唯子は頬を膨らませる。


 どうやら附属から上がってきたのではない、よその高校からきた学生が『槙坂涼』の噂を聞きつけ、唯子を頼っているらしい。


「そう。でも、わたしにはもう決まった子がいるって言っておいて」

「はいはい。言ってます言ってます。数々の偉業とともに、ちゃんと言ってますとも」


 とても面倒くさそうに言う唯子。


 数々の偉業? きっとひとつは人前で藤間くんとキスをしたことにちがいない。


「学部と言えば、涼さんが工学部に進んだのは意外だったなー。しかも、建築」

「正確には、建築デザインね」


 やはり『槙坂涼』のイメージだと、人文学部か外国語学部あたりだろうか。


「涼さんってさ、やっぱ今年一年しかいないんだよね?」

「そうね。たぶんそうなるわね。でも、適当に学部学科を決めたつもりはないわ」


 本当に腰かけのこの一年を適当にやり過ごすつもりなら、それこそ『槙坂涼』のイメージに合わせた学部や、もっと単位の取りやすそうな学科に行けばいい。でも、わたしはちゃんと考えた末にこの道を選んだ。


「わたしね、大きな建物をデザインしてみたいの」

「国立競技場?」

「それはちょっと手に余るわね」


 スポーツ少女である唯子は気になる建物かもしれないけれど。


「そこまで大きくなくていいわ。でも、街のシンボルになるような建物をデザインしたいの」


 それを見るために人が集まってくるような、そんな建物。そして、それをきっかけにしてそこに興味がなかった人にも興味をもってもらえるような、外観だけでなく機能性も兼ね備えたような施設。


 そう、例えば図書館とか。


 へぇ、と唯子が感心していると、わたしたちの目の前に学術情報館が見えてきた。


 中にはパソコンが並んだ情報学教室やその方面の先生方の研究室、大学の情報システム部、そして、図書館とラーニングコモンズがある。学術情報館とはその総称だ。


「涼さんはあそこ?」

「ええ、そう」

「じゃあじゃあ、藤間君もくる?」


 どこか期待したふうの唯子の声。


「今朝、そう言っていたわね。それとも昨日一緒にお風呂に入ったときだったかしら?」

「あたし、藤間君のこと気に入ってるけど、別に取ろうとか思ってないから。そんな強烈なアピールしなくても……」


 唯子が引き攣り気味の苦笑をもらす。


 こういうことは、折に触れ、はっきりさせておかないと。特に唯子は、ことあるごとに足の不自由さを理由に藤間くんとくっつこうとするのだ。


「て、ていうか、涼さんと藤間君って、その、もうそういう関係なの?」

「『もう』というよりは『とっくに』というところね。去年の夏休みにはそうだったもの」

「え?」


 唯子のハンドリムを回す手が止まり、車椅子が減速した。


 思えばあの日の昼には市立の体育館で唯子と会ったのだった。初めてはその夜。とは言え、あまり関連性をもたせても唯子が困るだろうから、このことは黙っておく。


「さすが涼さん、なのかな?」


 うーん、と首を傾げる。手は再びハンドリムを回しはじめていた。


「詳しいこと聞きたい? 好きよ、そういう話」

「い、いや、いい、いい。あたしにはまだ早そうだから」


 惟子は激しく首を横に振る。


 それは残念。せっかくだから先日藤間くんの部屋に行ったとき、漫画雑誌が置いてあったので、そこに載っていた水着グラビアの真似をしてあげた話でもしようかと思ったのに。


 なお、藤間くんは最初、くだらないことをするなと言っていたけれど、最後にはちゃんと攻め落とした。


「涼さんっていつから藤間君に目をつけてたの? 誰もあんな子がいるなんて気がつかなかったのに」

「それなら忘れもしない、二年の春ね。みんなが今年の新入生にはカッコいい男の子がいないって騒いでたときよ」


 気がつかないのも当然だ。あの子は、休み時間にはまるで気配を消すかのように顔を伏せて本ばかり読んで、サイレントな目立たない生徒を装っていたのだから。


「うわ、最初から!? ……意外とハンター?」

「かもしれないわね」


 退屈な日常の中に現れた彼。

 わたしは自分の頭に押し当て、今にも引き鉄を引こうとしていたピストルを彼に向け、見事撃ち抜いたのだから。


 学術情報館が目の前まで迫ってくると、わたしたちは緩やかなスロープをのぼって入口へと向かった。唯子もついてくるらしい。最初から行くつもりだったのか、それとも久しぶりに藤間くんの顔が見たいからか。


 学術情報館の入口は、四コマ目が終わった後という時間もあって、図書館やラーニングコモンズ、情報学教室を利用する学生がひっきりなしに出入りしている。

 と、その中に見知った顔の男子学生二人組の姿があった。


「あ、槙坂さん。ちょうどよかった」


 彼らはわたしたちとは反対にそこから出てきたところで、こちらに気づき、寄ってくる。


 同じ建築デザイン学科の、確か幸塚君と安森君という名前だったと記憶している。今、声をかけてきたのが幸塚君だ。


「今度、何人かで遊びにいくんだけどさ、槙坂さんも一緒に行かない?」

「あら、いいわね」

「え、マジで!?」


 彼は驚きながらも喜色満面だ。そういう返事が返ってくるとは思っていなかったのだろう。


「でも、ごめんなさい。休みの日は彼と一緒に過ごすことにしているの」


 だけど、続きを聞いて、がっくりと肩を落とす。


 よく藤間くんに言われる。期待をもたせておいてひっくり返すのはやめろ、と。別にそんなつもりはないのだけど、どうやら一度は相手の意見や提案を肯定的に受け止めるのは『槙坂涼』の癖のようなのだ。


「ていうか、彼!?」


 安森君がはっとしたように我に返り、問い返してくる。


「ええ、彼氏。ロビーに高校の制服を着た男の子がいなかった?」

「え? ああ、そう言えばいた、かな?」


 やはりキャンパスの中で制服は目立つのか、少なくとも安森君は視界にその姿を認めていたらしい。そして、どうやらあの子はここにきているようだった。


「え、いや、でも、高校生……」

「そ、年下の彼」

「「……」」


 幸塚君と安森君は言葉を失くしたまま、説明を求めるように唯子を見た。


「残念だけど、本当なんだよねー」


 ふたりにそう伝える唯子は実に楽しそうだった。


「都合がつけば行くかもしれないから。また誘って。じゃあね」

「あ、ああ、うん……」


 気の抜けたよう返事をする幸塚君、安森君と別れ、私たちは自動ドアから学術情報館の中に入った。


「あーあ、見事撃沈。絶対もう誘わないと思うけどなぁ」

「そう? だったら縁がなかったのね」


 二枚の自動ドアにはさまれた前室を抜けると、そこはロビーになっていて、たくさんのテーブルとイスのセットが置かれている。左には図書館への入口があり、右手には情報学教室が並ぶ廊下が延びている。上階へ行く階段やエレベータはその廊下に入ってすぐのところにある。


 ロビーを見渡すと、おしゃべりをする学生でテーブルはほとんど埋まっていて――その中に制服を着た男子高校生の姿があった。藤間くんだ。


 彼はテーブルの上に数枚のプリントの束を広げ、ぱらぱらとめくり見ている。わたしたちが近づいていくと、ある程度のところでこちらに気がついた。わたしを見、唯子を見て――そうして立ち上がった。人好きのする笑みを浮かべる。


「お久しぶりです、伏見先輩」

「あ、うん。久しぶり……って、涼さんより先にあたし!?」


 こういう子だ。


 もちろん、先の笑みもわたしに向けたものではない。


「わたしとは毎日会っているものね」

「三日ぶりくらいと思ったが?」


 笑みを消し、しらっとした顔と口調の藤間くん。


「涼さん、さっき……」


 斜め下から唯子の視線が突き刺さる。


 確かにわたしもそれくらいだと記憶している。先ほど唯子に言ったことは嘘だ。心の中で舌を出す。でも、だいたい週に二日くらいは彼の部屋に行っているだろうか。


 あのね藤間くん、だったら先に彼女であるわたしに声をかけましょうね、と言いたくなったけどやめておいた。それでも藤間くんと唯子が顔を合わせるのが久しぶりであることにはちがいない。


「藤間君、藤間君」


 と、唯子が車椅子の上で両手を広げ、何やらアピールしている。これはイスに移動させてほしいという要求だ。もちろん、わたしとしてはそんなことはさせないのだった。


「はいはい、こうしましょうね。このほうが速いから」


 わたしはテーブルを囲むイスのひとつを横によけると、そこに唯子の車椅子を滑り込ませた。イスと机が固定されている大教室なら兎も角、こんなところでいちいちイスを乗り換える必要はない。


「もー、ちょっとした冗談なのにー」


 唯子は苦笑。


 わたしよりも先に藤間くんにお姫さま抱っこをしてもらった恨みは、ちょっとやそっとで晴れるものではないのである。


「で、藤間君、なに読んでたの?」

「論文です。読みたいのがあって、複写の取り寄せを頼んでいたのが今日届いたんです」


 途端、唯子が、ぎぎぎ、と首をこちらを向いた。


「……涼さん、こんな子、あたしたちの周りにいたっけ?」

「この子が特別なのよ」


 高校生で論文を読みたがり、そのために大学図書館で文献の複写を取り寄せる高校生などそうはいないだろう。少なくとも高校の三年間、わたしの周りでは藤間くんしか知らない。


「これは帰ってから読むことにして……ふたり一緒とは珍しいですね」


 藤間くんは文献の複写をA4サイズの封筒にしまいながら聞く。


「うん、たまたまそこで涼さんと会ってね」

「今度、唯子が合コンに誘ってくれるらしいの。なかなか学生らしいと思わない?」


 隣では唯子が「え?」という顔をしているけど、それにはかまわずわたしもイスに腰を下ろした。


「そんなことしてる場合か」

「あら、勝手に行けとは言わないのね」

「僕は冷静に判断して、そんなことをしている余裕はないと言っているんだ」


 むすっとして言葉を重ねる藤間くんと、思わず頬が緩むわたし。


 最近の藤間くんは、以前のように突き放したようなことを言わないことをわたしは知っていた。ようやく彼氏としての自覚が出てきたのだろうか。


 そして、実際にそんなことをしている余裕がないことも確かだった。留学の準備もあるし両親への説明、説得もある。何より急務は英語力の向上だ。語学学校への留学やワーキングホリデーではないので、求められる英語力は高い。ひとまず条件付きで出願して、指定の期日までに結果を出すというかたちになることだろう。


 でも、そこは同じ目的を持つ藤間くんがいる。彼と一緒に勉強することで目に見えて成果が出ていた(週に何度か彼の部屋に行くのは、その勉強も含んでいる)。


「じゃ、あたしはそろそろ」


 唯子は車椅子を少し下げると、先ほどわたしがどけたイスをテーブルに戻した。


「もう?」

「うん。もともと藤間君の顔を見るのが目的だったから。人と約束もあるしね。……じゃあね、藤間君、涼さん。また今度」


 そうして笑顔でそう言うと車椅子を泳ぐように進ませ、人にもイスにもぶつかることなくテーブルの間をすり抜けて、エントランスから出ていった。


 テーブルにはわたしと藤間くんが残る。


 周りからはいくらか好奇の視線が向けられているのがわかった。『槙坂涼』は大学に上がっても相変わらずで、高校のころのように知らない生徒はいないとまではいかないものの、そこそこ噂になっている。


 そのわたしが高校生の男の子と一緒にいるのだから目を引かない理由がない。わたしと藤間くんの関係は、附属から上がってきた子なら誰でも知っているだろう。でも、それは総合大学の学生の全体数から見ればほんのわずかでしかない。


「ねぇ、藤間くん。今度ちょっとした学園祭があるんだけど、こない?」


『遊友祭』と名付けられたそれは、新入生歓迎の意味を込めて行われる小規模の学園祭だ。五月の最終週の土日に開催される。


「なぜ僕が?」

「わたしが合コンに誘われる確率がぐっと減るわ」


 もちろん、わたしが藤間君と一緒に楽しみたいのもあるけど、彼氏がいると周知させることで唯子に迷惑をかけることも減るだろうし、わたしも煩わしさから解放される。先にも述べたように、わたしも暇ではない。高校のときみたいに曖昧なことや思わせぶりなことを言って、周りを楽しませたりわたし自身が『槙坂涼』で遊んだりしている余裕はない。


「……わかった。都合をつけるよ」


 藤間くんは殊更平静を装って、そう返事をした。


「さて、藤間くん。改めて、三日ぶりね」

「そうなるかな」


 話が変わって少しほっとした様子の彼。


「どうしてここに?」

「さっきも言っただろう。文献の複写が届いたから取りにきたんだ。それをここで読んでいた」

「それだけ? 読むのは家でも図書館の中ででもできるわ」


 わたしはまっすぐ藤間くんを見据え、重ねて問う。


 彼はしばらくの間、言いにくそうにしていたが、やがて観念したように口を開いた。


「今日あたりここで待っていたらあなたがくるかと思ったんだ」

「そう」


 わたしは思わずにっこり笑う。


「じゃあ、そろそろ行きましょうか」

「おい、それだけか」


 イスから立ち上がり、図書館へ向かおうとするわたしを、藤間くんが慌てて追いかけてくる。彼としては、わたしがもっと喜んだり藤間くんのことをからかったりするのを予想していたのだろう。


 でも、


「ええ、それだけよ。それ以上の言葉はいらなさそうだもの」


 今日、藤間くんとは特に約束をしていなかった。


 でも、彼はここにきた。

 昨日ではなく、明日でもなく、今日ここにきた。


 わたしもそう。

 今日ならここにくれば藤間くんに会える気がしたから。


 つまりはそういうこと。

 言葉は必要ないのだ。


「今日、部屋に行っていい?」

「……勝手にすればいいさ」


 藤間くんは、わたしが話題を変えたことや、女の子が言うにはとても大胆な、それでいて実にわたしらしい発言――それらをひっくるめて、あきらめた様子で投げ返してきた。


「あら、ここでその台詞?」

「どうせ僕が何を言ってもくるだろうしね」

「ええ、もちろん」


 わたしははっきりと言い切る。


「それに――そろそろそう言い出すと思ってた」

「わたしもよ。そろそろそう言ってもいいころだと思ってたわ」


 わたしと藤間くんは図書館の自動ドアをくぐると、それぞれ学生証とライブラリーカードを読み取り機にかざして、入館ゲートを通過した。

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