第4話

 カレンダは六月。

 気温だけでなく、暦の上でもいよいよ夏が迫ってきたある日のこと。


「こえだ。しっかり食べろよ。じゃないと、大きくならないぞ。ていうか、ふくらまないぞ」

「うわ」


 僕の隣で小さな弁当箱を前にしたこえだが、驚愕の声を上げる。


「うわうわうわうわ。真ってば、のっけから失礼。ていうか、普通にセクハラじゃん」

「何を言う。僕は心配してやってるんだぞ。向かいを見ろ。ああいう末路を辿りたくないだろ?」


 そして、テーブルをはさんだ僕たちの正面には、ざっくりウルフカットに猫目の美沙希先輩が座っていた。テーブルの上にはコンビニで買ってきたと思しきおにぎりや焼きそばパン、缶コーヒーが置かれている。まったく統一性がない。こえだが草食ならこっちは雑食だろうか。


「やかましい。今んとこ使い道がないからいいんだよ」

「使い道が決まってから努力しても遅いんじゃないですか」


 隣を見れば、こえだが何やら考え込んでいる。


「確かにな。……んで、お前は全方位に喧嘩を売って何がしたいんだ。喧嘩だったら男らしく正面からこい。アタシゃ体がなまってんだ。いつでも買うぞ」


 僕以上に男らしい美沙希先輩は言う。……おそろしいことを。僕は美沙希先輩の舎弟だが、この師を超える日は一生こないだろう。


「僕はただ昼食どきに相応しい、和やかな話題を提供してるだけですよ」


 今は昼休み。

 たまたま学生食堂で三人ばったり会った僕たちは、そのまま一緒に昼食と相成ったわけである。


 実を言うと、こういうのは珍しい。美沙希先輩とは中学のころからのつき合いで、僕が連れてきたこえだのこともかわいがってくれる。だが一方で、彼女が高校に上がったのを機に、昔みたいないつでもどこでも一緒に行動するようなつき合い方をやめてしまってもいる。だから、昼休みには学食に集まるといった暗黙の了解は僕らの間にはなく、たまに気まぐれで美沙希先輩から招集がかかる程度だ。


「どこが和やかなんだよ。ほかにあんだろうが」

「ありますか?」

「あー、例えばだな……」


 美沙希先輩は考え――そして、おもむろにこえだを見た。


「サエ」

「あ、あたし!? あたしに振られてもなぁ。……あ、ほら、夏服になったじゃん」


 こえだは両手を広げながら腰をひねり、隣にいる僕に夏服姿を見せつけてくる。明慧は六月に入ってから衣替えがあるのだ。一週間ほどの移行期間を経て、今では夏服一色。とは言え、夏服も半年ぶりで懐かしくはあるが、去年すでに見ているのでそこまで新鮮というわけではない。こえだは初めて着るので嬉しいのかもしれないが。


 そうか、六月か。


 もうというべきか、ようやくというべきか。槙坂涼と親しくなってからこっち、いろんなことがありすぎて、もう二年半ほどたったような気がしていたが、まだ本格的な夏にすらなっていないのだな。


 それとは別に、僕はこえだの夏服姿を見てしみじみ思う。


「夏服か。女性の格差社会を如実に感じさせるな。特に胸の辺り」

「まだ言うかっ」


 こえだが肩をぶつけてきた。


 そろそろ話を変えたほうがよさそうだ。


「もうすぐ球技大会がありますね」

「おう。そう言えばそんなのもあったな。真、今年も実行委員やんのか?」


 案の定、美沙希先輩が話に乗ってきた。


「いえ、やらないつもりです」

「はン。隠れ巨乳の槙坂とイチャついてて、そんな暇ないってか?」

「……」


 と思ったら、わざわざ向こうから蒸し返してきた。


 確かに出るところが出ててスタイルはいいよな、と思いつつ――しかし、槙坂先輩と四六時中一緒にいるみたいな言い方をされ、僕はむっとして反論する。


「そんなんじゃありませんよ。去年やったから新鮮味がないだけです」


 僕は平和と退屈と本を愛する一介の高校生である。だが、その一方で人生を、学校生活を、よりよいものにするためには努力を惜しまない。いろんな学校行事の実行委員や運営委員に手を挙げるのもそのひとつ。たまに刺激があるからこそ、平和と退屈を満喫できるというものだ。よって、慣れているからという理由で推薦されても、僕は引き受けるつもりはない。慣れと惰性は、刺激と対極の概念なのだ。


「そうだ、こえだ。お前、実行委員に出てみたらどうだ? 一年のときに球技大会の実行委員をやるのは、うちの伝統ってことでさ」

「伝統って、絶対今決めただろー。ていうか、『うち』ってどこ?」

「そりゃあ、美沙希先輩を筆頭とした、僕とこえだの……美沙希組、かな?」

「アタシゃそんなよくわからんもんのアタマになった覚えはないぞ」


 苦笑しつつ言いながらも、まんざらでもない様子の美沙希先輩。


「じゃあさ、槙坂さんも入る?」

「は?」

「いや、真ってば最近どんどん槙坂さんと仲よくなってるじゃん。だから、槙坂さんもうちのグループに入るのかなぁって」


 なるほど。そういうことか。


「入るわけないだろ」


 僕はため息混じりに答える。


「なんで?」

「あの人はそんな存在じゃないよ」


 学校という社会にいると、よほど孤立していない限り、皆たいてい仲のよい友達同士でグループを形成するものだ。僕だってそうだ。こことは別に、クラスでも浮田たち数人とグループを作っている。


 だが、槙坂涼はちがう。


 彼女はどのグループにも入るし、同時にどのグループにも所属しない。そういう特殊で稀有な存在なのだ。


「残念」

「……」


 気持ちはわからなくもないか。新入生にとって、槙坂涼の噂を耳にし、姿を目にしても、実際にお近づきになるのは困難を極めるのだ。こえだもできれば彼女と親しくなりたいのだろう。


「美沙希さんも真も、球技大会の実行委員なんてやってたの?」


 こえだが話を戻す。


「おう。あたしが一年のとき、こいつにやってほしい企画があるって面倒なこと頼まれてな。それやんのに球技大会が都合よかったんだよ」

「美沙希さんが一年っていったら、真なんかまだ中学生じゃん。真ってば、そんなときから明慧のイベントに口出してたの?」

「そこまでたいそうなものじゃないよ。ただ単に――」




「あら、今日は三人一緒なのね」




 不意に僕の言葉を遮ったのは、誰あろう槙坂涼だった。大人っぽい美貌が、嬉しそうに笑みをたたえている。


「わ、わ、槙坂さんだ」


 突然の彼女の出現に、こえだが興奮気味に動揺する。落ち着け。


「楽しそうね。わたしも入れてもらっていい?」

「ど、どうぞどうぞ」


 ほとんど即答で返事をしたのはこえだ。美沙希先輩も、たまにはそんなのもいいか程度のようで、広く陣を展開していたおにぎりやパンをかき集めている。場所をあけるつもりなのだろう。


 さて、僕はというと――、




「断る」




 きっぱりと言い切った。


 その発音には自分で思っていた以上にはっきりと拒絶の意思が込められていて、語気の強さに我ながら驚いた。


 空気が変わるのがわかった。


 槙坂先輩の表情が固まり、こえだはおろおろと忙しなく僕と彼女の顔を交互に見ている。美沙希先輩は油断のない表情で静観の構えだ。


「ちょ、ちょっと、真。よくふたりで食べてるんだから、別に――」

「それとこれとは話が別だ。僕ひとりのときならまだしも、今は美沙希先輩やお前がいるんだ。そこに踏み入ってこられるのは迷惑だ」


 このとき、僕はすでに槙坂先輩の顔を見ていなかった。こんなことを言って彼女がどんな顔をしているのか、それを見るのが恐かったのだろう。


「確かにそうね。ごめんなさい。少し無神経だったわね」

「……」

「静かなところで、ひとりでコーヒーでも飲んでくるわ。じゃあね」


 そう言うと槙坂涼は踵を返し、去っていった。僕は顔を背けたまま、気配だけでそれを察する。


 ……やらかしてしまった気分だ。


 なぜ僕はあんなことを言った? いつもの軽口ではなく。確かに今、僕は明確な拒絶の意思を持っていた。


「真ってば、今の態度はないんじゃない?」

「……うるさいな」


 たぶん僕は槙坂涼との関係を、周りの人間によって勝手に定義されていくのが腹立たしかったのだろう。少なくとも僕は、彼女のことをどう思っているか誰にも話したことはない。にも拘らず、美沙希先輩やこえだに、すでにつき合っているかのように見られていた。それが癪で、あえて彼女たちの前で槙坂先輩を突き放したのだ。


「アタシもサエと同じ意見だ」


 向かいで美沙希先輩が苛立ちを隠さない調子で口を開いた。


「なんですか、美沙希先輩もあの人に味方するんですか?」


 僕は生意気なだけのガキのように鼻で笑った。


「間違えんな。アタシはいつでもお前の味方だ。でも、女を泣かせていいとおしえた覚えはない」

「泣かせたらダメだとおしえられた覚えもありませんよ」

「屁理屈じゃん、そんなのさ」


 こえだが非難するように口をはさむ。


 わかってるよ、そんなことは。さっきも今も、子どもっぽい態度を取り続けていることもわかってる。


「真、アタシに絶縁状叩きつけられたくなかったら、槙坂見つけ出して謝ってこい」

「……」


 僕は黙って席を立った。




                  §§§




 学生食堂を出て僕が向かった先は、講義棟3だった。


 あそこにはベンチが備えられた自販機コーナーがある。学生食堂から遠いその場所は、昼休みのこの時間はほぼ無人のはずだ。去り際に言った「静かなところで、ひとりでコーヒーでも飲んでくる」の言葉から、槙坂先輩はここにいるだろうと確信していた。


 案の定、彼女はいた。


 が――、


(おいおい……)


 人気のない自販機コーナーのベンチで、槙坂先輩はコーヒーの缶を握りしめ、ひとり寂しそうにぼんやりしていた。


 僕はてっきり彼女のことだから、すぐに頭を切り替え、ここで悪魔みたいな笑顔で待ち構えているものと思っていた。先の彼女の台詞はそのためのもので、僕がここまで追いかけてくること自体、向こうの思う壺だと思っていたというのに。……まさか本気で落ち込んでるんじゃないだろうな?


 予想外の状況にどう対処していいかわからず――ひとまず僕もコーヒーを買うことにした。


 硬貨を投入してボタンを押し、吐き出された缶を取り出す。すでに彼女は僕に気づいているはずだ。しかし、言葉はない。


 振り返ると、槙坂先輩は座ったまま、拗ねたような顔で僕をじっと見上げていた。これまた前例のないことで、一瞬怯みかけた。それをどうにか内心に閉じ込め、彼女の隣に腰を下ろす。


「もしかして怒ってるのか?」


 僕は缶のプルタブを引き上げながら問うた。


「怒ってはいないわ。ただ、寂しかっただけ」

「どうして?」

「仲間はずれにされたのよ? 当然だわ」

「ずいぶんと俗なことを言うんだな」


 我らが槙坂涼らしくない。


「あなた、わたしを何だと思ってるの?」

「どこにでも入っていけるし、どこにも属さない。それが槙坂涼だろう? グループや派閥なんかとは無縁だろうに」


 いや、だからこそか? だからこそ拒絶されることに慣れていないということか?


 しかし、どうやら彼女の心境はもう少しだけ複雑だったようだ。


 槙坂涼はぽつりとこぼす。




「藤間くんもわたしに『槙坂涼』という偶像(アイドル)を求めるのね」




「……」

「残念だけど、それでは正解はあげられないわ」


 その声はまるで出来のいい弟の健闘を称える姉のよう。


「確かにわたしはどこにでも入っていけるし、どこにも属さない」


 槙坂先輩は、まずは先ほどの僕の言葉を繰り返す。

「そして、誰もわたしを束縛しようとしないし、してはいけないの。それが暗黙の了解。『槙坂涼』は孤高にして高貴、ある種の禁忌にも似た存在なのよ」

「……」




 つまり、永遠の仲間はずれ。




 ああ、確かにそうだ。僕だってそういう認識を持っていた。槙坂涼を組み込もうとしてはいけないのだと。それが彼女にとって何を意味するかもわからずに。


「これでも案外、中身は普通の女の子なのよ?」


 槙坂先輩は体から力を抜き、苦笑しながら吐露する。


「仲よしのグループを作って『毎日つまらない』って言いながら、いつも一緒にいたりしてみたいし、流行や男の子の話題で盛り上がってもみたい」


 どうやら僕は今、槙坂涼の密かな悩みを聞いているらしい。こういう状況をつくった責任の一端は僕にもあるし……仕方がない、つき合うか。


 黙って僕はコーヒーを呷る。


「ああ、そうそう。セックスにだって興味があるわ」


 そして、危うく吐き出しかけた。幸いにしてそんな無様は避けられたが、盛大に咽た。あまりにもストレートな単語は、僕の虚をつくのに十分だった。


「何を驚くことがあるの? 何も知らない子どもじゃないんだから。誰かがそんな話をしている横で、聞こえない振りをしながら聞き耳を立てているものよ。それで、いつまでも処女バージンじゃ恥ずかしいのかしら、なんて考えるの」


 ……まぁ、そんなもの、か?


「わたし、もの覚えはいいほうだし向上心もあるから、そう何度も藤間くんに不満な思いをさせることはないと思うのよね」

「……」


 僕は黙ってベンチの背もたれに肘を突き、さり気なく槙坂先輩に背を向けた。……僕を想定しないでくれ。


「意外と相性がよくて、最初からうまくいく可能性もあるんじゃないかしら」


 知らん!


 話がものすごく触りにくいところに行きつつあるな。


「とりあえず普通に憧れる気持ちはわかった」


 普通を逸脱した部分があったような気もするが。


「そう言えば、さっきこっちで美沙希組なんて話が出てたな」

「何なの、それ?」

(笑)カッコ笑い的な何かだろ」


 僕は残っていたコーヒーを飲み干すと、少し離れたところにあるゴミ箱へと缶を放り投げた。縁に当たり、あわや外れかと思われたが、どうにか中に入ってくれた。


「そこにわたしも入れてくれる?」

「まさか。槙坂涼はどこにも属さない。それはこれからも変わらないよ」

「でしょうね」


 槙坂先輩は諦めたように苦笑する。


 彼女は自分に与えられた役割というものを理解していて、今さらそこから外れることはできないのだろう。そして、残念ながら、僕とて槙坂涼に理想を押しつける側のひとりである。


「ただ、僕の尊敬する先輩と、かわいい後輩は紹介することはできる、かな」


 今さらではあるが。

 まぁ、儀式みたいなものか。


 少なくともこれで、人の人間関係に踏み込んでくるななどと、八つ当たり気味にほざく馬鹿はいなくなるわけだ。


「仲よくしてくれると嬉しい」

「ええ、きっとそうできると思うわ」


 立ち上がって振り返れば、槙坂先輩は嬉しそうに笑顔を浮かべてた。


「じゃあ、わたしもお返しに――」

「伏見先輩でも紹介してくれるのか?」

「ううん」


 彼女は首を横に振った。


「みんなに藤間くんを紹介しようと思うの。わたしの初めての彼氏よって」

「やめてくれ」


 僕の学校生活が音を立てて崩壊する。


 もしかしたら僕は今、吸血鬼を家に招き入れる愚行をやらかしたのかもしれないな。

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