第10話<4>

 実際、後日、本当に妙な流れになり――そして、僕はそれに一瞬で決着をつけたのである。


 それはある日の、やはり放課後のことだった。


「藤間」


 教室を出てしばらくしたところで、雨ノ瀬が後を追ってきて声をかけてきた。


「今日、一緒に帰っていい?」


 普段なら許可など求めたりしないのに、妙だなと思いつつも「いいよ」と返事をした。一緒に昇降口へと向かう。


「あ、あのさ……噂、聞いてる?」

「噂? 何の?」


 噂なんていくらでもある。体育の某先生はヌンチャクを振り回しながらスクータに乗っているなんていう荒唐無稽なものから、理科の某先生は若かりしころは国体選手だったなんていうほぼ事実なものまで。


「あたしと、藤間」


 雨ノ瀬は言いにくそうにそう切り出した。


「つき合ってるんじゃないかっていう」


 その声は周りを気にするように小さい。


 そんな話は初耳だった。


「どうも見られてたみたいなんだよね。この前、一緒にカラオケ行ったの。でさ、ほら、あのとき黒のワンピ着てたでしょ? あれのせいで、あたしがすっごい気合入ったカッコでデートしてたとか、そんな感じの話になってて――」


 雨ノ瀬はまるで言い訳をするかのようにまくし立ててくる。


 なるほど。それでクラスメイトの目を気にして教室を離れてから声をかけてきたり、わざわざ一緒に帰っていいか尋ねたりしたのか。


「いや、初めて聞いた」


 こういうのは得てして女子のネットワークのほうが伝達が速いものだ。スマートフォンを持っているか持っていなかの差も大きい。いずれ持っていない僕の耳にも入ってきて、直接問い質されたりするのだろうな。何かテキトーに回答を考えておくか。


「そ、そっか。……どう思う?」

「どうって?」

「迷惑とか……その反対、とか……」


 僕の反応を窺うような様子の雨ノ瀬。


「別に。あくまでも噂だからな。ちがうなら否定すればいい」


 僕はあえて一般論にまで落として答えた。


 尤も、一方で『火のないところに煙は立たぬ』とも言い、今回のはそのいい例だと言えた。何せ噂となる下地はしっかりとあったわけだから。


「そ、そうだよね。よし、じゃー、この話はこれでおしまいっ」


 雨ノ瀬はきっぱりとそう宣言する。あまり終わらせたい感じには見えないのだが、本人がそう言っている以上、わざわざ続けさせることもないだろう。……そう、ここで終わっておくのが無難というものだ。


 そこでちょうど昇降口に着き、僕たちは上履きからスニーカーへと履き替えた。


「藤間は高校、どこ受けるの?」


 歩きながら他愛もない話をしていたが、校門を出たあたりで雨ノ瀬がそんな話を振ってきた。


「明慧、だろうな」


 明慧学院大学附属高校。


「もう決まってるんだ。あれ? それって古河先輩が行ったところじゃなかったっけ? やっぱり藤間と古河先輩って……」


「ちがうって言ってるだろ」


 僕は苦笑する。


「志望動機はちゃんとあるよ。たとえば、単位制だからある程度好きに授業を選べるとか」


 自由に選べるということは、小学校、中学校みたいに一緒に授業を受けるメンバーが固定しないということだ。かつて群れるのがきらいだった僕は、その反動だろうか、どういうわけかできるだけ多くの人をこの目で見てみたいと思っていた。そんな僕に単位制は都合がいいのだ。


「ほかにも附属の生徒なら大学図書館を使わせてもらえるとか。それに――」


 そこで言葉を切り、続きを言おうかどうか迷う。


「それに?」


 しかし、雨ノ瀬に促され、話すことに決めた。


「会いたい人がいるんだ。前に一度だけ会った人で、美沙希先輩と同じ明慧の制服を着てた」

「女の人?」


『美沙希先輩と同じ』という部分でピンときたのだろう。雨ノ瀬が聞いてくる。


「そう。とてもきれいな人で、すごく印象的だった」


 僕の目には未だにその姿が焼きついている。できることならまた会いたいと思う。


「ふうん。それってひと目惚れ? 会えたら告白とかしちゃったりする?」

「さぁ? 好きとかそういうのとはちがう感じはするな。会ってどうするかは……近くに行ってから考えるさ」


 軽い調子で聞いてくる雨ノ瀬に、僕も軽い調子で答える。


「こんなことで高校を決めるって、自分でもどうかしてると思うよ」


 そして、自嘲。


 それに対して雨ノ瀬からの言葉はなかった。彼女は視線を落とし気味にし、黙ってただ歩く。僕も、少なからずの申し訳なさがあり、呼吸を合わせるようにして影のように一緒に歩を進めた。


「藤間ってさ――」


 やがてしばらく歩いたところで、雨ノ瀬が再び口を開く。


「古河先輩の前だと、自分のこと『僕』って言ってるよね?」

「ん? ああ、まぁな」


 聞かれていたか。まぁ、中学校の校区なんてせまいものだ。僕と美沙希先輩が一緒にいるときに雨ノ瀬と出くわしたことはあの夜だけではなく、以降もちょくちょくあった。聞かれていないとは思っていない。


「やっぱり古河先輩って、藤間には特別なんだ」

「言っただろ。あの人は人生の先輩だって」


 だいたい、男子なら誰だって『俺』と『僕』を使い分ける。友達同士でしゃべっているときは『俺』だし、先生と話すときは『僕』。そんなものだ。それが僕の場合、美沙希先輩相手にも適用されているだけ。


「ああ、ごめん。ちがうの。言いたいのはそういうことじゃなくてさ。藤間が素直になっちゃうくらい、あの先輩は特別なんだなってこと」


 苦笑まじりにそう言われてもな。僕には何と答えていいやら。


 友達同士で自分のことを『僕』なんて言っていたら、少なからずバカにされてしまうのがこの時期の男子というものだ。でも、美沙希先輩には一度、僕が世間をどう見ているか、周りをどう思っているかを見透かされてしまっていて、その上でそんなものは流行病みたいなものだと一笑に付されている。だから、突っ張るだけ無意味であり、そうする必要もないのだ。


「カッコつけてる藤間もちゃんとカッコよくていいけど、ああいう素直な藤間もいいよね」


 雨ノ瀬はちょっと照れながら、そんなことを言う。


 きっと彼女はけじめをつけたいのだろう。ちゃんと言葉にしてから終わらせたいのだ。


 だから、僕は黙ってそれを聞く。


「前にさ、藤間が女子に人気あるって言ったでしょ?」

「……言ってたな」

「でも、みんなそこまで本気じゃないと思うんだ。アイドルとか芸能人を見るような感じ?」


 だから――と、雨ノ瀬。




「だから、本気で好きなのはあたしだけだと思う」




「……」

「あーあ。あたし、どの子よりも藤間が好きな自信あったんだけどなぁ。藤間がそれじゃダメかぁ」


 何かを吹っ切るように、声のボリュームを上げて雨ノ瀬は言う。


「悪い」

「嘘ばっかり。悪いとか思ってないくせに。わざと今その女の人の話したでしょ?」

「悪いとは思ってるよ」


『わざと』の部分には触れないでおいた。否定も肯定もしない。


 結局、僕も恋愛とかつき合うとか、そういうところにまで踏み込めないひとりだったということだ。自分をそこに置いて考えてみたとき、ぜんぜんピンとこなかった。


「ね、ちょっと遠回りしない?」

「わかった」


 僕はうなずき、彼女とともに歩き続けた。いつもは曲がらない角を曲がり、馴染みのない住宅地を進む。


 その間、雨ノ瀬はひと言も発しなかった。

 僕は彼女の気がすむまでつき合うつもりでいた。


 やがて住宅地を抜けると河が見えてきた。たぶんここが僕たちの中学校の校区の端になるのだろう。この河の向こうの町名は何だっただろうか。


「こんなところに河があったんだね」


 雨ノ瀬は足を止め、夕暮れの河を眺める。


 僕はそのやや後ろで、彼女の背中と河を見ていた。


 不意に雨ノ瀬が体ごとこちらへ振り返った。潤んだ瞳が僕を見る。その顔は思いつめたような、切羽詰まったような表情をしていて――。


 やがて彼女は感極まったように、駆け寄ってきた。




「うわーん、藤間、ここどこーっ!?」




「……」


 抱きついてくる雨ノ瀬を、僕はわりと本気で河に投げ込んでやろうかと考えた。


 家の近所で迷うなよな。


 仕事しろ、方向感覚。帰巣本能でもいいからさ。




                  §§§




 僕は思わず鼻で笑ってしまった。


「どうしたの、急に笑い出して」


 隣を歩くとてもきれいな悪魔が聞いてくる。


「あいつのことを思い出してた。本当に未確認動物UMAだったなと思って」


 おかしなやつだったけど、結局、僕と雨ノ瀬は卒業するまでよき友人だった。


「昔の彼女のことを思い出すのもけっこうだけど、今の彼女はわたしよ。そこを忘れないでね」

「わかってるよ」


 僕はテキトーな調子で返事をし――そこでふと思い出して、携帯端末を取り出した。確か僕も雨ノ瀬も高校への合格を決めた後、親にスマートフォンを買ってもらい、卒業式の日にはアドレスの交換もしたはずだ。


 アドレス帳を開き――やはりあった。




 雨ノ瀬由真




 僕と同じように無難に高校生になったあいつは、まだダンスを踊っているのだろうか。それとも別の何かに打ち込んでいるのだろうか。今度、機会があったら連絡をとってみよう。そう思い、僕は端末をしまった。


 隣を見ると、槙坂先輩が赤い顔で、それを隠すように視線を足もとに落としながら歩いていた。


「どうした?」

「な、なんでもないわ……」


 慌てた素振りで首を横に振れば、長い黒髪もそれに合わせて揺れた。


 なんでもないようには見えないのだが……まぁ、いい。そういうときは追求しないのが僕のスタンスだ。ほうっておくことにしよう。


「わかってるなら、いいの……」

「?」


 僕が何をわかっているというのだろう。


 首を傾げつつ顔を前に向ければ、ちょうど路側帯をオレンジのサイクリングウェアに身を包んだ女性の自転車便メッセンジャーが通り過ぎるところで、僕は何を思うともなくそれを見送った。

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