第2話<上>
もう間もなくカレンダが8月に変わろうかという、夏休みのある日のこと
「暑い!」
空調の効いたコーヒーチェーン店の店内、美沙希先輩はひと口飲んだカフェラテのカップをテーブルに置きながら吠えた。
おそらくそれは今この瞬間の暑さではなく、今夏全般の暑さに対する文句なのだろう。ニュースでも今年は猛暑だと言っていた。毎年言っている気もするが。
「夏ですからね」
僕は店内の空調よりも幾分か温かみを加えた口調で、夏休みの課題をこなしながら答える。
明慧大附属は二期制の高校だ。夏休みが明けて少しすれば前期の定期テストが待っている。あまり浮かれてはいられないのだ。特に今年は休み中に海外旅行に行くことになっていて、勉強どころではない時期が少なからずある。
美沙希先輩も課題を広げてはいるが、あまり進んでいるようには見えなかった。こっちはこっちで三年生だから、秋になればそろそろ大学入試がはじまるだろうに。
「泳ぎにでもいくか」
唐突に美沙希先輩が言う。僕は思わず顔を上げた。
「川ですか?」
「このへんに泳げるような川があったかよ。童心に返りすぎだろ」
半眼で睨んでくる美沙希先輩は半端なく怖い。
「じゃあ、海ですか?」
「それもいいけど遠いな。それに面白くない。去年いったところがあんだろ」
「ああ、バシャーンですね」
『ウォーターワールド・バシャーン』。このあたりでは最大級の室内プールのレジャー施設だ。少し前に槙坂先輩と一緒に行った『スカイワールド・ビビューン』とは経営母体が同じらしい。
確かにプールならバシャーンだろうな。
「そうですね……」
僕はテーブルの上のテキストやノートを見ながら思案する。夏休みの課題と言っても、一日も休まずやらないと終わらないほど出されているわけではない。僕も先日の映画騒動以来、特にどこにも行っていないので、そろそろ思いっきり羽目を外したいところだ。
「じゃあ、いきますか」
「おっし」
「せっかくだから槙坂も呼ぼうぜ」
「はぁ!?」
いきなりとんでもないことを言い出す美沙希先輩。止める間もなくスマートフォンを手に取り、電話をかけはじめた。
「よ、槙坂か? 今から泳ぎに行かないか?」
しかも、今からかよ。
僕は美沙希先輩から端末を取り上げた。
「あー、もしもし。僕だ」
『あら、藤間くん?』
電話越しの槙坂涼の声。
『美沙希と一緒なの?』
「え? ああ、いや、何となく話の流れで一緒に勉強することになって。でも、コーヒーショップでやってるから――」
僕が言葉を重ねていると、電話の向こうからくすくすと笑い声が聞こえてきた。……ああ、くそ。別に責められているわけでもないのに、何を言い訳じみたことを言っているのだろうな。
僕は咳払いをひとつ。話を戻す。
「それよりも、だ――さっきの美沙希先輩の話だけど、別に断ってくれてもかまわないから」
むしろそうしてほしい。
『そうね。今からじゃさすがに急すぎるわね』
「あの人はいつも急だからな」
思い立ったが吉日、善は急げを地で行く人だ。瞬発力が高すぎるのだ。
苦笑しつつも、槙坂先輩の難色を示すような反応に、内心でほっと胸を撫で下ろしていた。
『美沙希に代わってくれる?』
「ああ」
僕は端末から耳を離し、それを美沙希先輩へと差し出した。それを受け取りながら彼女は、「てめぇ」と計画を妨害する僕を睨んでくる。すこぶる迫力があるが、僕にとっては槙坂涼と一緒に行くプールのほうが恐ろしいのである。
「どうする? お、そうか。わかった。じゃあ、1時に待ち合わせな」
「え……?」
なんだ、今の流れは。
僕は再び美沙希先輩の手からスマートフォンをふんだくった。
「ちょっと待て。まさか行くのか?」
『ええ、そうよ。夏といえばプールよね。楽しみだわ』
「いや、さっき難しそうなこと言ってなかったか?」
『いつ誰がむりって言ったのかしら』
「……」
確かに言っていないな。
僕が次なる言葉を考えていると、美沙希先輩の拳で頭を殴られ、端末を取り返されてしまった。
「じゃあ、1時な。……あン? 真? 大丈夫だ。口ではあんなこと言ってるけど、頭ン中じゃお前の水着姿を想像してパライソ状態だから」
勝手なことを言ってくれる。
美沙希先輩が槙坂先輩に簡潔に用件を伝え、電話は終わった。
「真、お前は後で死刑な」
「……」
考え得る限り最悪の展開だった。
§§§
その後、僕と美沙希先輩はそのままコーヒー店で早め軽めの昼食をとり、一旦別れた。用意のために家に帰る必要があるからだ。
バシャーンは埠頭にあり、最寄の駅から徒歩で行くことができる。待ち合わせは現地だが、みんな同じ方向からくるわけで、同じ電車に乗っていたらしい僕と槙坂先輩は改札を出る前にお互いを見つけた。
「改めて、こんにちは。藤間くん」
顔を合わせ、にっこり笑う槙坂涼。
正直、会いたくなかったのだが、かと言って逃げられるわけでもなし。いちおうこの突発イベントの不参加を申し出たのだが、当然のように美沙希先輩に却下を喰らった。
「浮かない顔をしてるわね」
「少々気が重くてね」
僕たちは改札口を出て、バシャーンへと向かう。歩いていけるくらいなので、施設の外観はすでに見えていた。
「サエちゃんも誘ったの?」
「そのつもりだったんだが、連絡がつかなかったんだ」
電車を降りてからも着信を確認してみたが、リターンはなし。これはすべてが終わってから連絡がついて、一緒に行けなかったこえだに僕が文句を言われるパターンだろうか。隣を歩くお方は刺激が強いのが確実なだけに、ああいう目に優しいやつがほしかったのだが。
言っているうちにバシャーンに着き、施設のエントランスにはすでに美沙希先輩の姿があった。
「早いのね、美沙希」
「そうか? 時間通りだろ」
意外そうに言う槙坂先輩と、スマートフォンで時間を確認しつつ答える美沙希先輩。
それなりのつき合いの僕にとっては意外でもなんでもない。ノリが体育会系の美沙希先輩は、時間に関しては真面目なのだ。いつも10分前には確実に待ち合わせの場所に着いている。
「んじゃま、いくか」
僕らはさっそく入場した。
着替えを終えて、プールエリアの入り口で待っている間、僕は施設を見渡す。
子ども用のプールに流れるプール、波の打ち寄せるプール、などなど。視線を少し上げれば、全長100メートル超、高低差15メートルのウォータースライダーが目に入ってくる。
「ていうか、去年よりパワーアップしてないか?」
どうも去年の夏に見たときと形状が変わっているようなのだが。軽く戦慄を覚える。
と、
「おい、真」
背中に美沙希先輩の声が浴びせかけられる。
振り返れば、ふたりが並んで歩いてくるところだった。
美沙希先輩はスポーツタイプのセパレート水着。色は淡いブルーと濃紺のツートンカラーだ。……こっちはいい、こっちは。去年すでに一度見ているし、意外と無駄のないアスリート体型なので安心して見ていられる。
問題は槙坂先輩だ。
こちらはなんと、トップスの右胸のところに大きくロゴがプリントされただけの、真っ白なビキニ姿だった。スタイルがいいとはよく言われていたが、水着だとそれがいやというほどわかる。それどころか、どうやら着痩せするタイプらしく、想像していた以上に出るところが出ていて、圧巻のひと言だ。これほど目に毒なものもほかにあるまい。
僕の内心の動揺を鋭く察したらしく、槙坂先輩がこちらを見て微笑む。心臓がひとつ、大きく鳴った。
「じゃ、じゃあ、さっそくいきますか」
僕は逃げるように踵を返し、プールエリアへと体を向けた。
だが――、
「いや、まずはお前の死刑からだ」
「は?」
美沙希先輩にがっしりと腕を極められた。
こうして垂直落下式ブレーンバスターと監視員の注意から、本日のプールイベントははじまった。
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