第3話<3>
僕が知っているコーヒーの美味しい店は一軒しかない。
即ち『天使の演習』だ。
ドアを押し開けると、真鍮のドアベルが心地よい音を響かせた。
ここのドアベルは本当にいい音がする。店長が言うには、お客さんが最初に耳にする音だから、少しばかりお金をかけたのだそうだ。意味のないこだわりも好きだが、こういう意味のあるこだわりには素直に感心する。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、明るく弾んだような女性の声。そうか。今日は店長の奥さん――キリカさんのいる曜日だったか。
「あら」
まずはそれなりに顔馴染みになった僕を見て、小さく驚きの声。
「あら?」
そして、後ろにいる黒いセーラー服の少女に気づき、今度は疑問符つきの発音。
キリカさんは僕と彼女を交互に見――、
「槙坂さんには内緒にしておいたほうがいい?」
「そんなんじゃありませんよ」
何を想像したのか手に取るようにわかるな。
店内はいつも通りあまり混んでおらず、窓際のテーブル席に座らせてもらうことにした。
「槙坂って?」
腰を下ろすなり切谷さんが訊いてくる。
「僕の学校の先輩」
「彼女?」
「まさか」
そこで僕は気づく。よくよく考えたら先のキリカさんの台詞も、ある種の前提がなければ出てこないものだ。そういう勘違いはやめてくれ。うっかり僕も受け入れそうになる。僕が彼女にとっての特別な何かだと。
「でも、こういうところに一緒にくるくらいには仲がいいんだ」
「君だって学校の帰りには友達とどこかに寄ったりするだろう?」
「時々。そんな流れになるから、仕方なく」
彼女は面白くなさそうに答え――そこにさっそくお冷やが運ばれてきた。
「もしかして妹さんですか?」
キリカさんは、再び視線を僕と切谷さんの間で一往復させ、そう問うた。
「ええ、まぁ」
「やっぱり」
自分の予想が当たったのが嬉しいのか、彼女は無邪気に笑う。僕より年上のはずだが、相変わらずどこか子どもっぽいところを残した人だ。
にしても、そんなに似ているだろうか。切谷さんの切りそろえた前髪の下にある相貌は、その表情の乏しさもあって、人形めいて整っている。一方の僕は、それに比べればもう少し平均値寄りのルックスだ。
「今日はどうします?」
「何がいい?」
尋ねられた僕は、そのまま切谷さんへと流した。彼女はラミネート加工されたメニューをしばらく見ていたが、すぐに考えるのをやめてしまった。代わりに、短くひと言。
「……何でもいい」
「じゃあ、ブレンドをふたつ」
ここ数日続いた暑さは一旦鳴りを潜め、今日の気温は実に平年並み。次にきたときはアイスコーヒーかなと予想していたが、ものの見事に外れてしまったかたちだ。
「かしこまりました。少しお待ちくださいね」
キリカさんはにっこり笑って戻っていった。
「……誰が妹よ」
そして、それを待っていたかのように非難の目で僕を見る切谷さん。
「悪いけど事実だ。いくつか理屈をつければ否定できなくもないが、説明が面倒だしな」
「兄貴面しないでほしいんだけど」
機嫌のバロメータは一気にマイナス方向へ振り切れてしまったようだ。
そうしてしばらくお互いに黙っていると、程なく注文したコーヒーが運ばれてきた。ミルクピッチャーがテーブルの中央に、カップがそれぞれの前に置かれる。ここのブレンドは値段が手ごろな上にすぐに出てくるのがいい。
切谷さんは、コーヒーが漂わせる香りに「ふうん」と満足げにひとつ頷き――そして、そのままカップを口に運ぼうとしたので、僕は思わず問う。
「ブラックで飲むのか?」
「当たり前じゃない。子どもじゃあるまいし」
そうか、当たり前か。
彼女はどこか意を決したようにコーヒーをひと口飲み、わずかに顔をしかめた。――苦そうだ。ここの特製ブレンドコーヒーは比較的飲みやすいが、それでもブラックで飲むにはよほどのコーヒー好きじゃないと厳しいだろう。
(僕も一時期『コーヒーはブラック』だったな)
自分のコーヒーにミルクを注ぎながら、懐かしいものでも見るようにその様子を眺める。
「砂糖、入れたら?」
とは言え、向かいで苦行に挑むような顔で飲まれたら、こちらのコーヒーまで苦くなってくる。僕はテーブルに常備されている角砂糖の山を手で示しながら勧めた。
「いらないわ」
「そうか」
ならば強硬手段だ。
僕は角砂糖のひとつを手に取り、その包みを解いた。取り出したそれを切谷さんのカップに近づける。
「入れようか?」
「……」
しかし、無言。たぶん葛藤しているのだろう。
「おっと、手が滑った」
「!?」
僕が指を開くと、ぽちゃん、と音を立てて角砂糖がカップに落ちた。
「ついでだ、よかったらミルクも入れるといい」
持ち手のついたミルクピッチャーを彼女のほうへと寄せてやる。
切谷さんは迷うようにそれを見ていたが、やがて何かに敗北したような顔で自分の手でミルクをカップに垂らした。スプーンでかき混ぜ、改めて飲む。今度は顔をしかめるようなことはなく、味にも満足したようだ。というか、なんだろうな、その「こんな美味しいもの初めて飲んだ」みたいな顔は。
「切谷さんはきっと周りがみんなバカに見えるタイプだろうな」
「見えるじゃなくて、実際にバカばっかり。だって私、成績はいつも学年で五位以内だし」
「……」
それはそれは。
感心する僕をよそに、彼女はまたひと口コーヒーを飲む。なかなかきれいな所作だ。カップの持ち方や運び方を、親にしっかりおしえられたのだろうか。そう言えば、先ほどラーメンを食べたときに見た箸の使い方もとても上手だった。
「ほんと、バカばっかり。どうして毎日毎日つまらないことであんなにはしゃげるんだか」
それを聞いた僕は小さく笑う。
「……なに笑ってるのよ」
「ああ、悪い」
本当に昔の僕に似ている――という言葉は飲み込む。
「僕も一時期、同じようなことを思ったよ。だけど、ある人がそんな僕に言うわけだ。『実際、人生なんてつまらないんだよ。だから自分で面白くするんだ』って」
「それで納得したの?」
「当時はね。今は逆に、半分だけ同意だな」
当然、意味がわからず、切谷さんは首を傾げる。
「確かに自分で面白くすることには賛成だ。でも、人生はそれほどつまらないものでもないと思うのさ」
探せば面白いことなんてどこにでも転がっている。それこそ石ころと同じくらいに。案外、美沙希先輩もそう思うようになったから、情報屋なんてことやって楽しんでいるのかもしれないな。
しかし、僕の向かいにいる彼女はというと、
「面白くできるだけマシね。私はもう将来のことまで決められてるから」
そう自嘲気味につぶやくのだった。
やはり何か抱えているものがあるようだ。ようやくここまできたか。――僕はコーヒーをひと口飲むだけの間をあけ、切り出す。
「よかったら話だけでも聞こうか」
「何それ、まさか兄だからとか言うつもり? さっきも言ったけど、いきなり出てきて兄貴面しないで」
キッと僕を睨む我が異母妹。……いきなり出てきたのは僕の意志ではないのだけどな。
「理由は君が決めればいいさ。どんな立場も話をする理由としない理由になり得るよ」
家族だから話せる、話せない。
友達だから話せる、話せない。
顔もわからないモニターの向こうの相手だからこそ話せる、話せない。
僕にも何かテキトーな理由をつければいい。
切谷さんは少し考えた末、諦めのため息をひとつ。肘を突いた姿勢で窓の外を見ながら、どうでもよさそうに話しはじめた。
「うちね、お母さんが料亭をやってるの。『望月』って名前」
あの和装の人か。どうやらイメージ通りの人だったようだ。
「昔は古いだけが取り柄の料亭だったみたいだけど、お母さんがあの人とつき合うようになって、ずいぶんとお客を増やしたんだって。今じゃ大きな会社のお偉いさんとかもよくきてるみたい」
あの人――つまり我らがお父上だ。
僕の母と同じで、愛人には惜しみない援助をしているらしい。
「で、君はそれを継げと言われてるわけだ」
「……」
彼女は何も答えず、ただ窓の外を見ているだけ。倦怠感漂う横顔だ。
僕はその無言を肯定と受け取った。
彼女から常に感じるどこか投げやりな態度は、このあたりに起因しているようだ。
「切谷さんは、将来やりたいと思っていることはないの?」
「……別に、ない」
「そうか。勿体ないな。何か考えてみればいいのに。僕たちはとても自由だよ」
切谷さんは顔を戻すと、冷めた目つきで僕を見た。
「もしかして恥ずかしい台詞でも言うつもり? 寒いんだけど」
「可能性は無限だって? そこまで無闇に希望的な言葉を吐くつもりはないよ。僕と君にかぎった話だ」
ああ、遠矢さんもだな。
「人間、何かやろうと思ったら、案外お金がかかるものだ。崇高な志をもって医者になろうと思っても、普通の家庭じゃなかなかそうはいかない。弁護士だってけっこう大変らしいね。だけど、幸いにして僕たちはそのあたりの心配をする必要がない。普通じゃない境遇の副産物だな。これを利用しない手はないよ。……僕はね、高校を卒業したらアメリカへ行こうと思ってる」
最後につけ足した僕の言葉に、彼女はわずかに目を見張った。身近にそんな大それた、ある意味無謀なことを考えている人間がいて驚いたのかもしれない。
このことは家族以外には、まだ誰にも話していない。毎日学校で顔を合わせる友人にも、こえだや美沙希先輩にすら。もちろん、槙坂涼にも、だ。
「僕がやりたいことは、日本とアメリカじゃ規模がぜんぜんちがうからね。あの人にももう話をしてるし、留学費用を出してもらう約束も取りつけてある。最短で夢を叶えたら、その後はできるだけ早く金を返す。それが僕のプランだ」
彼女は僕のやりたいことが何かを聞いてはこなかった。他人に、ましてや夢になど関心はないのだろう。
僕は続ける。
「確かに僕たちは親に養われて生きてる。だけど、究極的には自分の人生だ。やりたいようにやればいいさ」
「……」
「それに、親は僕たち子どもが思っているほどバカじゃないよ。二手も三手も先のことを考えてる。君が本気で跡を継がないと決めたのなら、きっと次の手を出してくるだけだろうさ。店を存続させるためのね」
僕はあえて気楽な調子で締めくくった。
要するに僕は、悩みなど捨ててしまえと言っているようなものだ。生きていれば当然いくつも悩みが出てくる。だけど、後生大事に抱えておかなければならない悩みなんて、意外と少ないものだ。実際、僕からすれば彼女の悩みは、とっとと投げ捨ててしまえばいい類のものに見える。
切谷さんは何も言わない。
しかし、ただ黙っているのではなく、さっきまでの世の中のすべてがどうでもよさそうな気怠げな表情は消えて、何かを考え込むようにして押し黙っていた。
店内にドアベルの心地よい音が鳴り響く。続けてキリカさんの「いらっしゃいませ」の声が聞こえてきた。
切谷さんは思考に没頭しながら、無意識の手遊びだろうか、手では角砂糖の包みを開けている。そして、あろうことかそれをカップの中に投入してしまった。再びスプーンで攪拌し、程よく混ざり合ったところで口に運ぶ。コーヒーが最初より減っている分、砂糖の濃度は一気に跳ね上がっただろうに、それでも彼女はまた満足げにうなずいた。
むしろ甘党じゃないか――僕は密かに戦慄する。
と、そのとき、
「藤間くん?」
ここ最近ですっかり聞き慣れ過ぎてしまった声が僕の名前を呼んだ。
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