第3話<4>

 日中はまだ暑いとは言え、夕方になるとそれもやわらぎ、五時を過ぎれば外もそこそこ暗くなる。


「はっはっはー。ぐみんどもめー」


 そして、窓のそばで下界を見下ろしつつ、そんなことをのたまう愉快なこえだ。


「お前はオレンジジュース片手に何をやっているんだ」

「や、こういう高いところにきたら言いたくならない?」

「なるか」


 言い慣れていないから、ぜんぶひらがなみたいな発音になっている。それにどうせやるんだったら中身はジンジャーエールあたりでいいから、せめてワイングラスを持ってやれ。オレンジジュースじゃさっぱり恰好がつかない。


 だいたい、そんなこと言い出したら、ここに住んでいる僕はとっくに人格が歪んていることになるのだがな。


「お前、発言には気をつけろよ。バカが定着するぞ」


 何とかと煙は、と言うしな。


「あと、なぜ槙坂先輩まで立とうとしている?」


 ついでに僕の隣で立ち上がりかけている槙坂涼も制する。


「え? わたしもやってみようかと思って」

「やめてくれ」


 似合いそうで怖いし、その場合一年生ふたりがまた怯える。エントランスでやったのと同じ調子で「見ろ、人が……」とか言われたら、メンタル弱いやつなら死ぬ。


 僕は立ち上がって壁にあるスイッチを押した。


「おお、カーテンが勝手にっ」


 こえだが驚きの声を上げた。


 このマンションではボタンひとつでリビングのカーテンが閉まるようになっている。とは言え、明慧大附属の一部の大教室でもできることだし、そこまで驚くことでもないと思うが。


「ていうか、こえだ、教科書を取りにいくんだろ? バカやってないで、さっさといってこい」

「はぁーい」


 一年生ふたりの授業の理解度を確認する目的で開かれたこの勉強会だったが、早々にそのあたりに問題はないとわかり、途中からはわからないことがあれば聞くというスタイルに移行していた。


 で、ここにきて、こえだが最後にやろうとしていた科目の教科書を忘れたことが発覚し、仕方がないので僕のものを貸すことになったのだった。


 こえだが僕の私室へと消えていく。


「真先輩、あれ何ですか?」


 それを見送っていた加々宮さんが何かに気づいて聞いてきた。彼女の視線の先にあったのは、壁に掛けられた額縁。中に入っているのは――


「それは装飾写本だよ」

「そうしょくしゃほん?」


 聞いたこともなかったらしく、疑問形の発音を返してくる。


「要するに、まだ印刷技術がなくて、一文字一文字手で書き写していたころの本の1ページだよ」

「それだけ古いってことは、やっぱり高いんですか!?」

「そうでもない、かな」


 目を輝かせて値段の話をしてくる彼女の姿に、僕は苦笑する。


「少なくとも高校生が貯金を少しばかり切り崩せば買える値段ではあった」


 買うかどうかは別として、ではあるが。


「でも、僕にとっては価値のあるものだし、大袈裟なことを言えば人類にとっても価値があるものだと思う」


 何せ、人間は大昔からこうやってひとつひとつ手作業で文献を複製し、知識をつないできたのだから。ここにあるのはおそらく聖書だが、日本人だって遣唐使が中国で経典を書き写し、仏教を取り入れている。


 因みに、僕がこれを見つけたのは大型書店の催事コーナーでやっていた古書の催しものでだ。見つけた瞬間、強烈な力を感じて迷うことなく購入を決めた。何を思ってこんな価値のあるものをバラバラにしたのかと怒りを覚えるが、その一ページが流れ流れて僕のところに舞い込んできたのだから、多少は感謝してもいいのかもしれない。


「はー、これってそんなにすごいものなんですねー」


 加々宮さんはピンときていない様子。まぁ、興味がなければそんなものだろう。趣味なんて人それぞれ。共有してほしいとは思っていない。


 僕も彼女も勉強へと戻る。


 にしても、こえだのやつ遅いな。僕の部屋で教科書を取ってくるだけなのに。去年使っていたやつだけど、書架に並べて置いてあるからどこにあるかわからないなんてことはないはずなのだが。


 と思っていると、そのこえだがようやく戻っくる。


 それはいいのだが、僕の気のせいだろうか、なぜか彼女は浮かない顔をしているように見えた。


「こえだ、わかったか?」

「え? あ、うん。これでしょ?」


 そう言って取ってきた教科書と、笑顔を見せる。……笑顔のほうは、まるで慌てて作ったみたいだった。


「ちょっと借りるね」


 そうして腰を下ろすと、さっそくそれを広げはじめる。


「……」

「……」


 何か変だな。


 僕は、やはり僕と同じくこえだの様子がおかしいことに気づいた槙坂先輩と、顔を見合わせた。


 


 時計の針が午後六時を回ったころには、それぞれの勉強がひと通り終わった。一年生組から上級生へだけではなく、僕が槙坂先輩に聞くこともあり、なかなかに充実した時間だったように思う。


 そして、槙坂先輩が切り出す。


「じゃあ、そろそろ夕飯にしましょうか」

「待て」


 何やら僕の知らないイベントがはじまろうとしていないだろうか。


「あら、いいじゃない。せっかくこれだけの人数が集まったのだから、一緒に食べるのもいいものよ」

「いいですねー。そうしましょうそうしましょう」


 すかさず加々宮さんが同意する。


 僕はすぐに察した。これは最初からこういう流れになることで話がついていたにちがいない。……まったく。僕のあずかり知らぬところで、どこまで勝手に話が進んでいるのだろうな。これで終わればいいと思う。が、三人ともそれぞれ大きめの荷物を持ってきているのが気になる。現状、その中身の半分も明らかになっていないはずだ。もはや不安しか感じない。


「これじゃ心もとないわね……」


 冷蔵庫を覗き込んでいた槙坂先輩が、困ったように声を上げた。


 当然だろう。その冷蔵庫の主はひとり暮らしなのだから。いいかげんな食生活はしていないからそれなりのものが入っているが、作れたとしても二人分がいいところだ。


「もう少し何か買ってくる必要がありそうね」

「じゃー、買いものですね。ここは真先輩に買いものの相手を選んでもらいましょう。この中でいちばんかわいいと思う女の子を選んでください」


 加々宮さんがいきなり意味不明な提案をぶち上げた。


「さあさあ」

「……」


 急かされて思わず真面目に考えてしまう。まず槙坂涼を選ぶという選択肢は僕にはない。加々宮さんを選べば彼女の思う壺だ。ここは無難にこえだか……と思ったが、ああ、これこそ罠なのか。昼間の話が地味に利いてくるな。


「バカなこと言ってないの」


 そこに槙坂先輩が割って入ってきた。


「わたしが作るのだから、わたしが行かなくてどうするの。ほら、行くわよ。あなたもつき合いなさい」

「え? わ、わたし!?」


 槙坂先輩は加々宮さんの腕をがっちりつかむと、そのまま引っ張っていく。


「た、助けて、真先輩。わたし、槙坂さんとふたりなんていやです! この人、優等生ぶってますけど、絶対に超高校級のいやらしい何か――」


 そして、玄関ドアの向こうへと消えていった。加々宮さんの言葉は途中で聞こえなくなり、彼女が何を言おうとしていたかはわからなかった――ことにしておく。


 この場に残されたのはふたり。

 僕と、こえだ。


 つまりはそういうことなのだろう。切谷さんのときにも思ったが、あまりこういうのは得意ではない。が、彼女のときとちがい、今回はここで起こったことだ。ならば、僕の役割なのだろう。


「こえだ、コーヒーでも飲むか?」


 玄関に向かって「あははは……」と乾いた笑いをもらしていたこえだに、僕は声をかける。


「ううん。あたしはいい」

「そうか。じゃあ、僕ひとりで飲むよ」


 僕はキッチンに行くと、グラスにコーヒーを注ぎ、氷とミルクを放り込んでお手軽アイスコーヒーを作る。


 間、こえだの様子をそれとなく見ていたのだが、どうやらソファの上で膝を抱えながら彼女も僕のことを窺っているようだった。何か話すタイミングをはかっているふうだ。


 僕はコーヒーのグラスを持ってカウンターダイニングのハイチェアに尻を乗せた。


「こえだ、どうかしたのか? さっきから変だぞ」

「え? べ、別に何もない、けど?」


 と否定はするが、僕にはそうは見えない。


 僕の部屋に入ったときからだ。あのときからこえだは明らかに変調をきたしている。あの部屋はいわゆる勉強部屋で、机と教科書や参考書を詰め込んだ書架くらいしかなかったはずだ。こえだがこうなる理由がわからない。


「いいから話せよ。僕とお前の仲だろ」

「う、うん……」


 改めて促せば、こえだは素直にうなずいた。普段ならどんな仲だよなんていう反問もありそうなものだが、それもない。


「……あのさ」


 それでもまだ迷っていたようだった。が、僕がじっくり待つつもりでアイスコーヒーをひと口飲んだところで、ようやく口を開いた。


 彼女は聞いてくる。


 


「部屋の本棚に留学関係の本がたくさんあったけど……あれ、なに?」

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