53 演技派のコーチング (イ付)
墨田さんは撮影現場でたまに念入りに私に演技を教えることがあって、もちろん近くにいたので、奥さんはそのときにいなかったのでほっとした。
演技と言ったら、役者がどのメソッドを使うのか、スタニスラフスキー・システムやメソッド演技法みたいな、メソッドが上手いかどうかだと思っていた。だが私は女優業をしてみて、それはちょっと違うとわかった。演技を勉強するために違う視点で、改めていろんなドラマや映画を見て、気づいたのは演技のスタイルは人の性格ほど、数えられないくらいあって、同じ方法を使ってもそれぞれ特徴があるので結果が同じではない。
彰くんと話したのは多分墨田さんの演技は自分のパートなどにこだわるより、彼はほかの役者のスタイルと環境に適応している。彼は二十代のときのドラマからその能力を見せていて、演技派だと言われるのはそれが理由だった。前に電話で彰くんが言った。「『墨田メソッド』?がすごい強いと思うね」
「本当?」
「だって、演技は自分のパートを活かして、現場で相手の役者に対峙するみたいでしょ。墨田さんはそれを超えて、撮影全体を考えられるってさ、演技力が普通とは言えないね」
「そうなの……」
墨田さんと共演したときに彼の態度を見ると、役者がどういう意味か考え直した。撮影前に墨田さんはスタッフと親しくしゃべって、撮影がはじまると彼はスムーズに役を装った。彼を見ていると現場は修羅場じゃなくて、役者がすべての負担を背負うというより、スタッフさんたちがすでに九割を準備してくれて、最後の一割を完成させる人じゃないかと感じた。
墨田さんと共演したいろんなシーンのなかで、一番覚えているのは群馬県での誘拐されて二日目のシーンだった。助手席にすわって、家族や学校と離れられたのが嬉しいかどうかわからないそんなシーン。
まだ十二月の撮影で、私が車の窓からそとを見ている表情がアップで写されるショットだ。こだわった矢野監督は何回も撮り直した。虚ろな目、でも希望がある……台本のその備考を読んでどう演技すればいいかわからなかった私は、リハーサルで適当に演じてパスできたが、撮影現場の私が下手なことにやっとみんな気づいたんじゃないか。その日、墨田さんは雪に覆われた道のワンボックスカーにいる私に寄ってきて言った。「落ち着いて。スタッフのことを心配しないで」
「でも」
そして墨田さんは後ろに向いて叫んだ。「みんなさん!浅井さんの素敵な演技を待てるでしょう?」
「大丈夫ですよ!」
とスタッフからの答えが聞こえた。二十人近くいるスタッフは、撮影場所のここと遠くにもいて、実はそのなかによく東京から通っていた私のマネージャーさんも立っていた。墨田さんが私の方に振り向くと言った。「ほら、安心してよ……さっきの顔をしてみて」
「は、はい」
女優になる前、撮影は演技が終わるとみんなが嬉しく拍手して花束を渡して幸せな風景だと思っていたが、実はあまりそうではなかった。スタッフはほかの仕事もあって、仕事の範囲が役者と違うし、演技を見守って拍手をするよりよくほかのことに忙しかった。
そういうわけで、墨田さんが大丈夫と言っても、今みんながこっちを向いたのはちょっと珍しいことじゃないかな。このシーンに時間がかかりすぎてみんな暇になったんだ。私のせい……だよね。
みづきー!やっぱり島根にいた方がいいでしょ……!
再び演技するために私は助手席のドアにもたれて、できる限り虚ろな目をしていると、見ていた墨田さんは言った。「これ、ただ緊張の顔だよ」
「そうですか?……どうしよう。難しいです」
墨田さんはうなずいた。「わかるよ。多分浅井さんはゆずちゃんほど面倒なことがある人生じゃないから、出せないよね。矢野はタフな演技を入れた。えっと……こう考えてみて。もし浅井さんは友だちと旅をする予定があるけど、急に親の海外旅行に連れていかれることになったら、なんかいい気持ちじゃないでしょ」
「え、どういうことですか?」
「例えだ、似ているシチュエーションだから。それは悲しいだけじゃない、とくに海外の行き先がみんな行きたいところなら、友だちも『気にしないで。楽しんでね』とメッセージを送って……友だちを裏切っているような、旅に期待する気持ちもあって、空港へ向かいながらそんな表情ね……でも間の演技より、人生のいろんなこともこうでしょ?簡単に決めることができなくて、だから人間は人間らしく見えるんだ。まあ、そんな顔できそう?」
私は少し考えると答えた。「その場合……ただ消えたいです」
「うん?説明して」
「いえ、もし墨田さんが言ったので、海外の旅は楽しそうですけど、友だちとの約束を破るし、でも旅行も両親に悪いし、だれも傷つけないために自分は消えた方がいいかな……便がキャンセルされてほしいと言ったら、ドラマのゆずはまだこの誘拐は冗談だと願ってるのと似ていますね。冗談ならみんなが心配する必要がないし、自分も都会から遠くに旅できて……」
「いいよ!これでまたやってみるか」
自分の言ったことが自分でもよくわからないまま席にすわりなおした。演技の前、矢野監督やいろいろなスタッフにじっと見られそうで、私は少し目を瞑って集中していた。はじめるときに、私はそとの風景に目をやると悔いるように目線を下げた。前の道へ誘拐犯と同行するのは嫌なので、彼を見たくなくてまた窓のそとを眺めていた……ここではない、この車じゃない、でも離れた都市でもない、この青空を飛んで忘れられたらと考えた。
気づくと素晴らしいと墨田さんの声が聞こえた。「本当ですか?」
「うん、きれいに伝わった。でしょ、矢野?」
後ろに立っていた矢野監督がうなずくと、墨田さんは続けた。
「……ね、浅井さん。演技って難しいことと考えないで。演技って深く役を翻訳すべきことじゃないし、レッスンの講師に叱られないとできないことでもない。自分の演技がうまいと思う人って、評判の高い演技派たちもそうだけど、ただ格好つけてやって見苦しい演技をするのも多いんだ……普通にして。生まれてから様々な感情を経験して喜怒哀楽ってわからないわけじゃないでしょ、それを伝えるのが演技だ。浅井さんも、だれでも、自分のなかにその感情が破裂するほどあるから、自分が演技できないと言ったらそれは嘘にしか聞こえない」
墨田さんは何気ない人に見えるが、意外にもたまに私に演技の些細なことまで助けてくれて、恩人の先輩だといつも思った。初めての主役ドラマでもし共演したのが彼でないなら、私はどうなっていたかわからない。
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撮影現場で、墨田は美月に演技を教えているイラスト
https://kakuyomu.jp/users/kamakurayuuki/news/16817330652201558861
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