52 美月 vs. 墨田の奥さん (イ付)



飲み会に参加する人は毎日変わるけど、定番は墨田さんだった。たまに彼は二時まで飲んでいたと聞いても、朝六時に彼と会うと爽やかな顔で私に挨拶して、一日中とても驚くほど熱心に仕事をすることができた。これは有名な『墨田メソッド』か。その上昼に現場で飲んだときは変わって私の年齢も覚えていて、『お前』の代わりにただ『浅井さん』と普通に呼ぶことになった。

  飲み会にカメラアシスタントの二宮さんもたまに参加したと聞いて、二十代後半でかわいい彼女と飲み会で私は一緒にすわったことはないが、墨田さんのそばにすわって関係がよさそうだった。だが長野の撮影の五日目、墨田さんの奥さんが同行してここに泊まると、あまり墨田さんの姿を見なくなった。

  結婚したほかの芸能人と同じように、よくメディアが墨田さんの奥さんを旧姓で難波佐智子さんと呼んだ。そのときは三十八歳、もともと有名なモデル兼女優で主役として出演したドラマと映画は多くて、墨田さんと結婚すると出演は減ったが。

  

  難波さんと初めて会ったのはホテルのロビーですれ違ったときだった。実は私はただお辞儀をして通るつもりだったが、意外にも彼女に話しかけられた。背が高く、もうすぐ四十代だが芸能人らしくスリムできれいで、そして彼女の誘いで私たちはホテルのカフェにすわった。

  これまでにちょっと有名人と会って慣れたと思ったが、なぜか難波佐智子さんとすわると、わくわくしていた。彼女のドラマは島根にいたときよく観た。前にいる彼女はメニューを見る態度もとても上品だ。さっき彼女が言ったのはコーヒーの名前?メニューに書いた?大変、もう地方のロケにいてちょっと緩くできると思ったのに、彼女は私が毎日ただほっともっとのお弁当を楽しみしていると知ったら笑わないか。そして難波さんは言った。「私はさ、浅井さんのドラマを毎週観ています。第三話も本当に楽しかったんです」

  「そうですか!」

  「うん。演技が上手ね。浅井さんも高校生だからかな、第一話から本当に誘拐された子なんだって信じちゃったんですよ」

  「演技って、私はいっぱいミスをしたし、墨田さんとほかの方も大変、助けてくれました」

  「……墨田はだれにでもナイスガイみたいね、いつも」

  私は微笑んだ。「はい。えっと、演技は難しいですね。よく役を理解したと思いましたが、演技してみると、それが伝わらないときがありますね」

  「あー、そうそう。よくあるね。それはわかる」

  「え?でも難波さんはとても上手ですけど」

  「そう?」

  「はい」

  難波さんは笑った。「ありがとう。なんというか、演技って、たまにそんなに力を入れない方がいいですね」

  「どういう……?」

  「浅井さんはまだデビューしたばかりね。もうちょっと経験を積めばわかるかもしれません」

  難波さんと話しながら私は彼女のブラウスをチラッと見た。ちょっとブラウスが緩くて胸の形がはっきりわからないが、数年前彼女の水着グラビアが美しかったのを覚えている。女優ならそういうグラビアを撮るのは珍しくなくて、もしある日私も撮ったら……あれ?彰くんが言ったかな、グラドルの笑顔とその下に両方惹かれる気持ちって、どっちを見るのか迷うことがあるって。でも私が撮ったら笑顔しかなくて、だれも迷わないかな……


  有名な彼女と会えて、嬉しかった私はその夜電話で彰くんに伝えると、彼は言った。「多分、難波さんは観察するために行ったんじゃない?」

  「……それはだれを?」

  「全体的に、君もかな」

  「え?」

  「普通でしょ。墨田さんは不倫で有名だから」

  「でも私はなにもしてないよ。しかも私は彼のタイプじゃないと言ったっけ?」

  「君は現場にいてもっと知ってるから。私は言っただけ」

  その後、難波さんの笑顔を見るたびに彰くんの話を思い出して忘れようと抵抗したけど、まだ長野にいるとき、ロケで撮影を待ちながら村人役の長谷部さんと話す機会があった。

  ベテランのエキストラの彼は、三十年近くで何人もの有名な俳優と共演する経験があった。長谷部さんは清水まりさんの話をして、前に共演したとき彼女は私の年齢くらいの女の子だったけど今は大女優になったと聞いて、私もそうなるかもしれないと想像してわくわくしていた。ほかの俳優の話を聞きながら、難波さんのことを思い出したので私は聞いてみると、気軽な彼が急に真剣な顔にした。「彼女はもうここに来た?」

  「はい、一昨日です」私は説明した。

  「そっか。うーん、君は警戒した方がいいな」

  「なぜですか」

  「え?本当に知らない?彼女の事件って」

  「……事件?」

  知らないと答えると、長谷部さんは周りを見回してから低い声で続けた。四年前『柳のサダメ』というドラマの撮影現場に難波さんもいて、ニュースにはならなかったが、難波さんはほかの女優と喧嘩してビンタする寸前の出来事だった。「……でもそれはほかのスタッフから聞いた話ね。俺が目撃したのはちょっとあと、レストランにいたとき。墨田さんが難波さんを訪ねてきて一緒にすわったでしょ、気づいたらグラスの水差しが落ちて割れた音が聞こえたんだ。人は普通にそんなものを落とさないから故意的かと思った。私以外ほかのスタッフもいたね。彼女はヒステリーじゃないかなという噂もあるし」

  「ヒステリー……?」

  「怒って暴れるって、危ないでしょ。彼女と墨田さんは問題があったらしい。そう考えれば前に言ったビンタ事件もそうらしかった。えっと、浅井さんはかわいいし、墨田さんの周りにいたら彼女がなにするかわからないね」


  なにこれ。


  

  墨田さんは撮影現場でたまに念入りに私に演技を教えることがあって、もちろん近くにいたので、奥さんはそのときにいなかったのでほっとした。



―――――――――――――――――

美月は生き残った……


難波佐智子と美月のイラスト

https://kakuyomu.jp/users/kamakurayuuki/news/16817330652121264186

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