48 月の野獣との出会い(発言注意)(イ付)
スタッフが通る廊下に彼女たちはいなくて、控え室に行ったかと思ったが、通りがかった非常階段のドアの小さなガラスの窓越しに米沢さんの姿を見かけた。しばらくためらうと私はドアを開けて入ってみた。「そのスレッド主はあなたでしょ、ちはる」
「またそんなことを言うの?」
その瞬間二人とも私の方に振り向いたが、構わず話し続けた。場違いと感じて退きたいと思うと後ろのドアが急に閉まった。「長尾さんの精神はもうぼろぼろだったよ。書いた内容を一般の人は知らないはずでしょ。あなたはどうしたいの?」
長尾?
「別にいいでしょ」
「は?」
ちはるさんは笑顔で言った。「演技はまあまあなのに、最近ただ狂った役にハマって、ただ走ったりダンスしたりして、そんな女優……もし自分は女優だとまだ言うならね。長尾さんはコンテンポラリーダンス*みたいにしていたね、今はそれだけで演技派になれる?みんな感動しそうだし、アカデミー委員会もそうかな、彼女に賞をあげたのはチケットを買わなくてもコンテンポラリーダンスを観賞できるから?……いいえ、私はスレッド主じゃないよ、そんなくだらないことなんて関わりたくないから。でもわかるよね、あのスレッド主は低下している日本の芸能界に飽きていると」
これは長尾こずえ、今三十何歳かな、大女優の話か?
「あなたのせいで長尾さんは本当にストレスで医者のカウンセリングを受けたんだよ!」
「私の問題、それ?」
こんなしゃべり方を聞いて二人は同い年であることを思い出した。米沢さんと同じくちはるさんは十九、二十歳くらいじゃないか。そして米沢さんが言った。「私、あなたの所業をほかの人に言っても構わないね」
「そう?またつまらないことを言うのね、米沢。褒め合うなんて私のやり方じゃないの。あとは、岸聡太もあなたの知り合いかな、つまらない人ばかりね。彼はいつも猫背でもじゃもじゃな髪の毛の役ばかりで、公園にはそんなホームレスがいるのに彼をオーディションする必要があるのかと思った。彼ね、どう見てもただ叫ぶ**のが得意なだけだけど、演技派にランクインしちゃった。日本人が学校の先生から、大人なら上司から怒鳴り声を浴びせられてPTSD……なんだっけ、心的外傷後ストレス症候群……そう、PTSDがあって、頭が変わるほど叫ばれたいことみたいね、だから彼の叫ぶ演技に共感できる。本人も演技がいけないと気づくかもね、音楽に挑戦して、私は知識がないけど、聞くと十年前の音楽と全然変わらない。もし私があのスレッド主なら、彼はいいターゲットよ」
「ちはる!」
岸聡太は特撮ドラマの主役としてデビューして以来とても人気の若手俳優で、ちはるさんが言ったのは本当なのか。
ちはるさんは続けた。「どう?マジで演技が上手いと思う?バカでしょ。あなたみたいな人がいっぱいいるから褒め合う社会になって、日本の映画業界は淀んでまだ昭和時代のクオリティだよ……いえ、昭和の映画の方がましだった」
「あなたはなにが言いたいの」
「嫌なの」
「なに?」
「……先輩後輩が円満に手を繋いだら一緒に美しい地平線に行けると思うせいで、芸能界はただの老人ホームの業界になったんだよ。海外の映画とドラマがどのレベルか全然興味がないし、国内のおじいちゃん、おばあちゃんが見るなら何でも作る、みんなが好きなのはサスペンスだと言っても、もうそれはサスペンスじゃないし、ただちょっとわくわくさせて老人の心臓を運動させるための作品なんだよ。そうじゃなかったら、ただ繰り返してアニメと漫画の実写をしてる自己満足の業界ね。この業界の人たちってくだらないと全然思わないの」
「くだらないなんて、みんな頑張っているよ。軽蔑しないで!」
「頑張るってだれでも言えるよ、とくに日本で『頑張る』と言うばかりで、うるさいから。結果が出るか、それだけが重要だ」
ちはるさんは私にも振り向いて言った。
「違った?『頑張る』と言うのが小学校の運動会みたいじゃない?『頑張ったのに私は徒競走で負けた』、わーわーわー……そうお母さんに言うことじゃない?勝ったか、成功したか、これしか聞きたくないんだ。もう頑張ったよって弱虫の自分を慰める言葉なんだ。だから今頭をちゃんと使わないで、ただ『頑張れば』大丈夫だと思う人がこの国にいっぱいいるじゃない?」
「もう!」
「ね、米沢」
二人は見合うと、ちはるさんは続けた。
「君があのおっさんに身体を捧げたいなら問題ないけれど、この女の子ってさ新人でしょ、連れていかないでね」
そして米沢さんが答えた。「……どうやってあなたを信じられる。あなたはただ山崎さんの名前を汚したいかもしれないのに」
「だって、いい人なんてそんなにいっぱいはいないよ」
「え?」
「芸能界ってバカな人がいっぱいいるよ。ただ山崎がそういう人だとわかるとだめなの? ……あなたはいい人でも、ほかの人もいい人なわけじゃないでしょ」
「自分はそんなにいいと思う?ちはる」
「とてもいいよ」
しばらく二人が黙って、どうなるかと思っていると、気づいたらちはるさんはパチンと米沢さんをビンタした。「うっ!」
え……!?
「どう?痛い?」
「なにするの!」
ちはるさんが笑った。「いいよ、怒って。芸能界に私みたいな人はまだたくさんいるよ。山崎とほかのバカな人たちと会ったらこれくらい怒ってちょうだい、この業界は弱虫のいるところじゃないから……どう?なんでそんな顔してるの?私をビンタしてもいいよ」
「……あなたは狂ってるよ!もう消えて!」
「狂ってる?光栄ね」
「消えろ!」
「わかった。やっぱり米沢はつまらないね」
そしてちはるさんは、非常階段のドアから出た。しばらく米沢さんがパニックを起こしているような表情を見て、自分の考えがはっきりわかる間もなく、急いでちはるさんのあとを追った。
ちはるさんになにを言ったらいいかわからないけど……私はなにをしているの。
まだ彼女はそんなに離れたところにはいないはずだが、廊下に戻るともう見えなかった。彼女はエレベーターで降りたと思って私も降りても、ロビーに彼女の姿はなく、ビルのそとに出ると遠くに歩いているちはるさんが見えた。
走って私は呼びかけると、ビルのそとの広場でちはるさんは振り向いて、サングラスを外すと言った。「あ、さっきの。なに?」
「な、なぜ」
「うん?」
「米沢さんに、なぜそんなことをしたんですか」
少しちはるさんは考えると、楽しかったからと言った。「ほかの理由がないでしょ」
「そうですか。でも、ビンタって……普段しないことじゃないですか」
「私はしたいならするね。まあ、米沢が先輩なの?どうしよう。彼女の代わりに私をビンタする?」
「はい?」
「顔に、ビンタして」
彼女は言うと頬を私に向けた。だけど私は動かなかったので彼女は言った。
「しないの?」
「えっと」
「米沢はバカね。彼女は、この世界はほかの人に悪いことをしないなら、自分もなにもされないと信じているのかしら。バカ……決めた?なにもしないなら私はもう行くよ」
「……ちょっとでいいですか」
なぜかそのとき私は自分のカバンから水のボトルを取り出し蓋を開け、そしてちはるさんの顔面にかけた。
やばいよ、みづきー
そんなにいっぱいの水じゃないけれど、見ると彼女の顔は結構濡れていた。私は急いでお辞儀した。
「すみませんでした!なにもしないと、米沢さんは怒るはずですから」
私はほかの方向を見る勇気がなかったが、見かけた人がいたようだった。ちはるさんは構わずに笑った。「ねえ、あなたは、女優?新人って言ったよね?」
「はい、そうです」
「名前は?」
「美月です……あ、あさい」
「ミヅキって、月を観る?」
「いえいえ!美しい月です。浅井美月」
なぜ私はこんなときに言い間違えを。ちはるさんはうなずいた。「似合うね。日本の名前のなかで私は好きだけど」
「なぜですか」
「えっと、月は夜の明かりだけど、日中の眩しい空でもたまに薄っすらと見ることがあるね。いろんなこともそうだと思う、芸能界自体もそんな存在だから……美月ちゃんか、そう呼んでいい?」
「はい」
「あなたは面白いね。私たちはまたどこかで会えるかも、じゃあ」
ちはるさんはただ手で水を拭くと、サングラスを付けて晴れている広場を歩き出した。私はまだ彼女の言葉の意味がわからなかった。
彼女は、十五歳で日本アカデミー賞の新人賞に選ばれ、今まだ二十歳だがもう演技の重要な賞の二つを取った。複数のテレビドラマと映画のほか、得意ではない舞台でジュリエット役を見事にこなして大好評なのだ。二十代の女優のなかで彼女はトップの存在じゃないか。
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*コンテンポラリーダンス ちはるの意味はジョーカーの映画(2019)のようにいろんなアーティスティックなアピールのミニマルなダンスということです。中身がなくても、作品が『アート』だから、褒めないと視聴者はセンスがない、強制的に褒めるしかできないということへの彼女の批判です。
そう書いた日本の名女優さんは存在します。
**叫ぶ派の俳優 現在(2023)二十代後半、最近結婚した実在する某名俳優です。
第五章の終わりまで読んでいただきありがとうございます。次は第六章『デビュタント』です。
酔っぱらっているちはるのイラスト
https://kakuyomu.jp/users/kamakurayuuki/news/16817330651791515774
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