3 来日



もうここに来たのは六年が経った。


  私は試しに荷造りしてみたときに、持っていくノートパソコンを確認して、ほとんどの写真とビデオファイルはもうバックアップされており安心した。五年前父は買ってくれたこのノートパソコンは、小学校の写真以外アルゼンチンにいた期間のものや父との数ヶ国の旅、私の生まれる前の写真もあった。

  六歳の私は父の後ろについて、遠いところ、名前を読めないところまでも行った。よく父は運転をしていたけどバスや船にも乗った。たまに外国人はほとんどいないような地域に行くと地元の人が私たちに眺めて、その目つきはまだ覚えている。ちらっと見た人は二度目、三度、もっと振り向いたこともあったし、じっと見る人は目が合うと私に微笑んでくれた人も少なくなかった。その目は危なそうというよりただ物珍しさからだと思って、だんだん馴染んでくると私の気分も穏やかになった。

  暑くてぼろぼろな土の道、賑やかなバザールで用途がわからないものが多く、砂漠がすごく寒くなることも私は知らなかった。七月になって、寝る前にたまに私はこの写真を見て自分はあそこにいたのだと思った。もし父はちゃんと場所や国の名前を書いていなかったら、覚えることはできないかもしれない。

  それは人気な場所へ行く旅わけではなく、ぼったくりや泥棒にあわなくてもいろんな不便があったはずだが、私には楽しい記憶しか残らなかった。ただ私は幼かったから世界はそう見えた可能性もあるが、父は私を守ってくれて、苦しみより面白い話をして、『旅』を感じさせたと言った方が正しかった。気づくと私の前にいつも彼はいた。

  父のはじめた旅を私は続けたい、でもこう旅立つことができないと彼は私になに言うか。日本は旅先だと父は考えないだろう。この道は私と父の最後の接点で、これから私は一人となるか……


  七月の中旬に私の準備はもうできて、予定通り八月に母デンマークに来た。着いたのは土曜日の朝で、私はヘリーンさんの車に乗って彼女のホテルで出迎えた。

  涼しく、晴れた日で、母のロングスカートとスプリングコートの姿はなんか日本人らしかった。自分はヘリーンさんの子どもだのようだと思ったが、やっと母のそばに近づいた。「こんにちは、元気?」

  ただうなずくと、母はもう一度こんにちはと言って私は気づいて挨拶を返した。「こんにちは」

  隣に立っていた笑顔のヘリーンさんは英語で言った。「長い旅でしたね。まだお疲れでしょうからどこかでゆっくりと過ごしましょうか」

  「いいえ、大丈夫です。ヘリーンさんは運転してくださるのはとても助かります。時間がかからないように早めにお墓に行ってもいいですか」

  母は助手席にすわって、二十分くらいの運転に意外と彼女はヘリーンさんといろんなことをしゃべっていた。その墓地はコペンハーゲンの郊外のキルデブランにあった。もし人気な墓地だったら公園みたいに人はジョギングしたり緑を見ながらくつろいだりしてくるが、この墓地が静かなのは少し遠くにあるわけかもしれない。

  駐車場に車を止めた。母は買ったお花を持って私たちは入口から大きな並木の木陰を歩いた。そのとき見かけた墓碑は十字架の形やただ平たい四角い石板のものをよく見た。周りの生垣や小松などの木々はちゃんと剪定されて、芝生の緑も相まって爽やかな風景だった。

  父のお墓は敷地の真ん中の芝生に位置しており、この墓地の一番広いスペースかもしれない。


  少し曇ってきたが日差しはまだ眩しくて、ならんでいる数百基のお墓を見ながら、風が強くなって遠くの木々が揺れているのを感じていた。母とヘリーンさんは歩き続け、私はそれについていって、父のお墓に着くと母はお花を置いた。彼女たちはしばらく静かに立つと、ヘリーンさんは少しこの辺を周ることを提案してその場を退くと母は笑顔でうなずいた。

  目の前のお墓は一般の四角い石で、名前や生まれた日と亡くなった日だけ刻まれていて、周りの墓石のデザインと見比べるとなんだか地味な作りだった。母は手を合わせると私も同じくした。なにが祈ったかわからないが、そのあと彼女は言った。「今日、お母さんと一緒に旅するでしょう」

  「はい」

  「帰ることもう準備万端?」

  「はい」

  「どうだろうね。好きなところはある?お母さんはあまり予定がないけど」

  「……普通にみんなはニューハウンとか……え、行ったことがありますね。なら、クリスチャンスボー城とか、国立博物館も結構物が多い、しかも簡単に行けるんですよ」

  「そう聞いたけど」

  少し離れた場所からほかの家族も墓参にやってきた。しばらく彼らの様子を見ていると、飲食品も置きたいと母は言って、私は聞いた。「ここにはあまりしないけど、それはなんのものですか」

  「面倒くさいね、ただお酒かな」

  「いいじゃないですか」

  「えー……ね、彰くん」

  「はい」

  「ごめんね」

  「なんですか?」

  「日本に帰らさせるって」

  私は彼女の方に振り向いた。「そんなことないですよ。ここにだれもいないのだから」

  「いいえ、お母さんのせいの。デンマークはいい国だし、彰くんはいたら私に問題がないけど。もし日本に帰らないなら、一年か二年の間、私はデンマークに訪れるかなと考えていたの」

  「え?そんなこと……」

  「でも、お母さんは彰くんに会いたかったの」


  彼女は父のお墓を見ると続けた。


  「ここに彰くんはお父さんといると思うと私はいつも安心だった。毎日、彰くんはどうしているかな、学校で大丈夫?好きなものを食べている?お父さんはちゃんとしてあげているかなって、考えていたの。でもお父さんが亡くなって、彰くんのことがとても心配になったの」

  「ヘリーンさんはとてもちゃんとしているよ」

  「わかるよ。ただ怖いの」

  「え?」

  「あの事故ってさ、お父さんは安全運転を心がけている人なのは知ってる?」

  「知っていますが」

  彼女はため息をついた。「不注意で転がるってことはないでしょ。追い越した車を避けたからそうなったんじゃないかと原因について話していたの。でも証拠がない……悲しみより、怒りかな。毎日考えるの、こんなに簡単失ってしまうものなのかって。簡単すぎるんじゃないかって……たまに彰くんに会いたいと思っても、もしお父さんみたいに身になにか起こったら、会える日が来なかったらどうすればいいのかって。そうはならないと思っているけど、ここにいれば彰くんは立派な大人に成長できると思うけど、ただ私が悪いのよね」

  「いいえ、それは……」

  「お父さんも、もし私の判断を知ったら怒るかもしれない。ごめんね」

しばらく母から次の言葉は出ず、私はちらっと見ると彼女はまだ父のお墓に見ていた。私は言った。「さっきの話、本当ですか」

  「どのこと?」

  「事故、ほかの車って」

  「うん、痕跡からね。自分の運転が原因だったらそんなに曲がらなかったらしいの」

  母が『コンセキ』の言葉の意味を説明してくれると私は質問した。「その人、逃げたんですか」

  「そうかな。だれもがそうしたはずだと思うけど、カメラもなかったし。今はこの事故があったことをみんなはもう忘れたかもしれない」

  その日、母と一緒に観光しながら、彼女の言葉はずっと頭をよぎった。デンマーク、いえ、コペンハーゲンのなかにその人物はまだいるのか……でもなにもできない。

  一年経ってそれは自然の原因だったと認められそうだが、まだ不安だった。だれかを憎みたかった。人、ただ人だかりの無名な人か、だれでもいい。私は思う度にその『人』はますます曖昧な形になって、実はその形はただ道に飛び出した森の動物で、運転の邪魔をしたかもしれない。『正義』を求めたいと思っても、正義ってなにかな……それより、この憎むことの妄想は私に溜まった気持ちの唯一の出口じゃないか。


  母はデンマークに来る前、私は小学生の友だちの誕生日パーティーに行く機会があった。それはまた私の送別会のようになって、もらったお菓子のプレゼントが多くて食べきれないからスヴェンにあげた。そして日本へ帰国する前日、荷物を確認しながらリッケと長電話した。明日、彼女の中学校はもうはじまるので、見送れないことをごめんと言われると私は答えた。「大丈夫だよ。どうせ日本に着いたら私は連絡するから」

  「よいフライトを!忙しかったら連絡しなくてもいいよ。日本で時差どのくらいだっけ」

  「えっと、七時間だね」

  「七時間?」

  「うん、遠いよ」

  「じゃあ、こんな時間セブは日本だったらもう寝てるでしょ。電話できないかな」

  「どうだろうね。休日は?」

  「うーん、もし私が朝九時ぐらいに連絡したら、セブはどこかに出かけていないの」

  「なんで」

  「え、遊べるところがいっぱいありそうだから、出かけてるかなと思って」

  「いいや、田舎だもん……もし時間が合わなかったら、メールでいいかな?多分写真も送る」

  「本当?待ってるね」

  「リッケのも忘れないでね」

  三日間母とコペンハーゲンを観光して楽しむと、帰る日にヘリーンさんは母と私を空港まで送ってくれた。直行便じゃなく、私たちの便はフィンランドで乗り換えて羽田空港に続く予定だ。チェックインしたあと私たちはしばらくヘリーンさんと話していて、搭乗時間になると母は言った。「いろいろ助けてくれて本当にありがとうございました。彰くんは日本でも大丈夫ですよ」

  「私もそう信じます。またね、セバスチャン。シオリさん、もし私たちが日本に行ったらまた連絡しますね」

  「こっちらこそ、デンマークに来れてよかったです」

  私もお礼を言うとヘリーンさんと軽くハグした。ハグしながら私は気づかなかったが、離れたときヘリーンさんの目が赤くなってきた。ヘリーンさんの頬が涙で濡れているのを見て、私だったらもっと泣いていたかもしれない。母と私がターミナルに入るときに、もう一度振り向くとヘリーンさんと彼女の笑顔はもう見えなくなっていた。

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