01日目 『夜行性の獣』
昔から眠りが浅く、些細なことで深夜に目を覚ましてばかりいる。
僅かな物音や、僅かな光の変化。
普通なら誰も意識を払わないような些末な事象に神経が反応して眠りを奪っていく。
朝まで熟睡できたことというのは殆どない。
どうにかならないかと病院に行ってみたが、医師の返事はこうだった。
「体質によるものですので、治療というのは不可能です」
医師の説明は以下のようなものだった。
人類には一定の割合で、眠りが浅く些細なことで目が覚めてしまう人間が存在する。
なぜかというと、過去の古い時代、原始の時代においてはそういう人間が必要不可欠だったからだ。
夜中、人々が寝静まっている間に、夜行性の獣が忍び寄ってきたとしても、それを感知できる。そういうセンサーの役割を担える人間が。
「しかし先生」
わたしは言った
「今は夜行性の獣に襲われることなど、ないじゃないですか」
「お薬を出しておきますので」
医師は言った。
「お近くの薬局へ処方箋を持っていってください」
◆◇◆
薬の効果はさして見られなかった。
相変わらずわたしの神経網は、何処かにいるとも知れぬ夜行性の獣を感じ取ろうとしてその内に火花を走らせ続けていた。
いつ頃からか正確には覚えていないが、深夜に完全に意識が覚醒してしまったときなどは、外を出歩くようになった。
見知った近所でも、夜の闇と静寂の下では違った手触りが感じられ、それがどこか心地よく感じられた。
このようなことをしている人間は自分だけだろうかと当初は思っていたが、意外とそういうわけでもなく、人と垣間見えることもあった。
同じ体質の持ち主、夜行性の獣から人々をまもってきた守護者の末裔たちと。
通りですれ違うとすぐそれとわかった。
「ああ、あなたもですか」
そう目で訴えられた。
同じ人と何日か繰り返し顔を合わせるときもあり、そういう人とは自然と言葉を交わし、話し込んで親しくなる人も何人かいた。
伯爵も、そうした中のひとりだった。
◆◇◆
あれは確か伯爵と知り合ってから二十夜ほど経った日のことだった。
その日も伯爵はいつものように典雅な夜会服に身を包んでいて、それが本当によく似合っていた。
わたしたちは公園のベンチに座って伯爵の故郷であるルーマニアの話をしていて、そこで伯爵がこう言った。
「君を我が生涯における唯一最高の友と見込んで、ひとつ頼みたい」
「何でしょうか?」
「君の血をわたしにくれないだろうか」
「えっ」
わたしは言った。
「何でですか?」
「いや」
伯爵は言った。
「判るだろ?」
「全然わからないですけど、どういうことなんです? 血なんて何に使うんですか?」
「ちょっと待ってくれ。本当に判らないというのか?」
「理由があるなら」
わたしは言った。
「どうぞ言ってください。聞きますから」
わたしはそう告げたが、伯爵はそこから黙り込んでしまった。
よほど言いづらい事情があるのだろうと思い、「すぐでなくてもいいですよ。言えるようになるまで待ちますから」とわたしは言った。
それでも最後まで伯爵から説明を聞けることはなかった。
それ以来、伯爵とは一度も会っていない。
恐らくだが、わたしはあのとき何か間違った対応をしてしまったのだろう。
少なくともわたしはあのとき、伯爵の申し出を拒否するという前提で話していたわけではなかった。
納得できる理由があるなら、申し出通り血液をいくらか渡してもいいと思っていた。
だが、もしかすると伯爵はそう受け取らなかったのかもしれない。
理由を問い糾すという行為を、無条件に拒絶のサインであると捉えたのかもしれない。
今でも時折、夜中に目を覚ますことがある。
そんなとき、頭上の暗黒を見つめながら思い出す。
あのときの伯爵の顔を。
そして考える。
あのときわたしは、一体何と言うべきだったのか? と。
そしていつの夜でも、その答えが導き出されるより先に、わたしの意識は再び眠りの底へと落ちていく。
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