33日目 『熊に注意』


 ここ最近、近所の道路に標識が増えたように感じる。


 曲がり角に立つ電柱には、以前はなかった場所にもカーブミラーが設置されるようになった。地面には白線で『スピード落とせ』という文言がそこかかしこに記されるようになった。速度制限の標識も、視界に入らない箇所を探すほうが難しいほどに増えた。


 そんな中で、わたしの家のすぐ近くにこのような標識が追加されていることに気づいた。


『熊に注意』


 黄色いバックに黒い太字で、そう書いてあった。

 標識の真ん中にはややデフォルメされた熊のバストアップのイラストが描かれている。


 わたしは首を傾げた。こういった標識は山中の道路などに立てられるものだと思うのだが、このような住宅街で、熊に注意する必要などあるのだろうか?






                 ◆◇◆






 それから2日後か3日後のことだ。


 わたしが家で雑誌のクロスワードパズルを解いていると、玄関からノックの音がした。

 わたしは雑誌をテーブルに伏せ、玄関のドアを開けた。


 熊が立っていた。


 茶褐色の毛皮に包まれた、わたしを遥かに見下ろす巨体。

 わたしは反射的にあの標識のことを思い出し「熊が出たということは注意しなければいけないのかな」と考えた。

 わたしは注意深く熊の様子を観察した。一挙手一投足を見逃さないよう神経を尖らせた。


「え、えーとですね」熊が言った。「もしかしてなんですけど、熊が出てきたら警戒してるっていう感じだったりします?」


 わたしが「はい」と言うと、熊は「いや、その、違うんですよ」と言った。



「自分、熊に見えるかもしれないけど熊じゃないんですよ」熊が言った。「熊じゃないんで、どうぞ安心してください」


「あ、そうだったんですか」わたしは言った。「これは失礼を」


 わたしは目の前の相手に対する認識を『熊』から『熊でなし』に書き換えた。


「実は最近この辺に引っ越してきまして」熊でなしは言った。「それでちょっとご挨拶をと」


「それはそれは」わたしは言った。「ご丁寧にどうも」


「ええ、それでこれ、良かったらお近づきの印に」


 熊でなしはそう言って紙に包まれた何かをわたしに差し出した。


 鮭だった。


「えっ」わたしは言った。「これ自分で獲ったんですか?」


「ああ、いや、違います」熊でなしは言った。「素手で獲ったわけじゃないですよ。釣ったんですよ、もちろん」


「ああ、そうですよね」わたしは言った。「熊じゃないんですもんね」


「そうですそうです」熊でなしは言った。「熊じゃないんですから」




 それからわたしは熊でなしに家に上がっていかないかと勧め、熊でなしは快く了承した。



「何か飲みます?」わたしは言った。「今ハーブティーが色々揃ってるんですけど」


「いただきます」熊でなしは言った。「あ、もしあれば蜂蜜を入れてもらえます?」


「蜂蜜?」わたしは言った。「蜂蜜、好きなんですか?」


「ああ、いや、違います」熊でなしは言った。「単純に甘党なだけなんです。それ以外の理由はありませんよ、もちろん」


「ああ、そうですよね」わたしは言った。「熊じゃないんですもんね」


「そうですそうです」熊でなしは言った。「熊じゃないんですから」




 それから蜂蜜入りのハーブティーを出すと、熊でなしはごくごくと美味そうに飲んでいった。

 しばらく茶飲み話を続けていると、また玄関からノックの音がした。


 ドアを開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。

 背中に、散弾銃用のガンケースを担いでいる。


「ちょっとすいません」男は言った。「このあたりで、少し前に熊が出没したという知らせが入りまして、目撃情報を集めているんですが」


「えっ、そうなんですか?」わたしは言った。「特に見てはいないですけど」


 男は「わかりました。くれぐれもご注意ください」と告げて、去っていった。




 わたしは居間に戻った。熊でなしが「何かあったんですか?」と訊いていた。


「少し前に近くで熊が出たとかで、注意するよう言われました」わたしは言った。「長銃を装備してるようだったし猟師の人だったのかな」


 わたしがそう言うと熊でなしは何やら神妙な印象の表情を形作った。


「……熊って、やっぱり危険に思われてるんですかねえ」


「そりゃあまあ、そうなんじゃないですか」わたしは言った。「人を襲う熊もいるでしょうし」


「いや、それはわかりますよ」熊でなしは言った。「でも全ての熊を危険視する必要って無いと思うんです」


「と言いますと?」


「例えばですよ、例えばの話なんですけど」熊でなしは言った。「熊の中には人と仲良くしたいと思っている者もいると思うんですよ」


 わたしは「はあ」と言った。


「絵本とかにもあるじゃないですか。熊と人が友情を結ぶようなストーリー」熊でなしは言った。「そういうのに憧れて、人と仲良くなるために近づいてくる熊だって中にはいるかもしれないって考えたら、全ての熊を同じように危険な猛獣とみなしたりなんてせずにですね――」


 そのとき、熱弁を振るっていた熊でなしの腹が、大きな音で鳴った。


「あっ」熊でなしは言った。「これは失礼」


「お腹空いているんですか?」


「ええ、その。実はこの季節になると食欲が止まらなくて」


「ああ、今は食欲の秋ですもんね」わたしは言った。「そういえば昨日のカレーが結構たくさん余ってるんで、よかったら食べていきませんか?」


「えっ、いいんですか?」熊でなしは目を輝かせた。「是非いただきます」






                 ◆◇◆





 体格を考慮して、かなり多めに用意したのだが、差し出されたカレーを熊でなしはまたたく間に完食した。


「いやあ、おいしかった」熊でなしは満足げに呟いた。「ありがとうございます。こんなに人から親切にされたのは初めてですよ」


「それはそれは」わたしは言った。「喜んでもらえて何よりです」


「なんか食べたこと無い味でしたけど」熊でなしは言った。「何か珍しい食材でも使ってるんですか?」


「はい」わたしは言った。「を使ったカレーでして」



 直後、熊でなしはブホッと巨大な呼気音を立てて激しく咳き込んだ。

 そこからゲホッゲホッとむせるように息を吐き出しながら、自分の胸を拳で叩いた。


「マジかよ!」熊でなしは絶叫した。「あんた熊食ってんのかよ!」


「ええ、近所の店で安売りしてたもので」わたしは言った。「もしかして熊肉、お嫌いでした?」


「ああもう台無しだよ!」熊でなしは泣きながらわたしに言った。「今度こそうまくいくと思ったのに全部ぶち壊しだ!」


 熊でなしは泣きながら居間を飛び出し、そのまま玄関を抜けてどこかに走り去っていった。







 それから少しして、どこか遠くから銃の発砲音が聞こえたような気がしたが、わたしはそこら中のソファやカーペットに付着した、熊でなしの茶褐色の体毛を掃除するのに忙しくて、正確には認識できなかった。

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