34日目 『受胎告知』
ある朝、わたしが目を覚ますと、ベッドの傍らに大天使ガブリエルが
大天使ガブリエルはこちらに向かって何事かをぶつぶつと呟いていた。旧約聖書風の古めかしく勿体回した口調で、何が言いたいのか意図を汲み取ることが、寝起きの頭にはかなり難しかったが、どうやら“聖霊の子を、あなたは身籠った”ということを伝えているらしかった。
「えっ」わたしは言った。「わたしがですか?」
わたしの質問に、大天使ガブリエルは返答をかえさなかった。
何度か瞬きをして視界をクリアにし、改めてよく見てみると、大天使ガブリエルはわたしに対しては一切視線を向けていないことに気がついた。
大天使ガブリエルが眼差しを注いでいるのは、わたしの下。
わたしが乗っているマットレスに対してだった。
◆◇◆
それから数ヶ月が経った。
わたしの身体には、あれから特に何の変調も起こらなかった。
わたしは寝室に向かい、マットレスの表面を手で撫でてみた。
微かにだが、中心部が以前より膨らんでいるように感じられた。
やはり大天使ガブリエルの受胎告知は、このマットレスに対して告げられたものだったようだ。
わたしは安堵した。念のため、あの日以降マットレスの上で就寝するのをやめ、ソファを寝床にしてきたのは、どうやら正しい判断だったようだ。あのままマットレスの上でごろごろしていたら、胎児に重大な損壊を与えなかったとも限らない。
それから、わたしはソファで寝起きしながら、マットレスの様子を見守り続けた。
マットレスが妊娠した場合の正しい接し方について、わたしは知識がなかったが、自分なりの考えでサポートは尽くすようにした。
なるべく清潔したほうがいいのかなと思い、寝室の掃除は今まで以上に念入りに行うようにした。シーツも毎日洗濯し、一日ごとに取り替えた。「暑かったり寒かったりしたら空調を調整しますので言ってください」と伝えたが、マットレスが何かを言うことはなかった。そういった些末な問題は神秘的なパワーでどうにかなっているのかなと、わたしは思った。そもそも栄養をどこからとっているのかも不明だったが、マットレスの膨らみは少しずつ着実に大きくなっていった。
◆◇◆
受胎告知から9ヶ月が経過した。
マットレスの膨らみは、傍目にもはっきり判るくらいに大きくなっていた。
半球状の膨らみからは、ぼんやりとした淡い光が放たれていて、否応なく神々しさを感じさせられた。
膨らみに触れると、内側で何かが動いている感触がしっかりと感じられた。
もうかなり成長しているように伺えた。
一体いつ頃生まれてくるのだろう?
人間と同じなら、来月の10ヶ月目あたりで産まれるのだろうか。しかし人間ではなくマットレスだし、大型の動物ほど妊娠期間も長くなる傾向がある。もっと先まで掛かる可能性は充分に考えられる。
そうなると、一つ問題があった。
ここ最近、首や背中に凝りを感じるようになってきた。考えられる原因は、ソファで寝起きするようになったことくらいしか思いつかなかった。ソファの寝心地は、最初の1~2ヶ月位は良い具合に感じられたのだが、寝返りをうつスペースがないせいか、段々と身体に負担がかかっていくように感じられてきた。
やはりベッドにマットレスを置いて、その上に眠りたい。そういった気持ちが日に日に強まっていった。
とはいえ、今のこの身籠ったマットレスを使うことは当然ながら出来ない。
新しいマットレスを購入する必要があった。
◆◇◆
「――といったわけなんです」
わたしが回答すると、質問してきた店員は、ぽかんとしたような、唖然としたような、何やら放心したような表情で固まった。
妙な反応だなと、わたしは思った。わたしがマットレスを購入したい旨を伝えると、この店員は「ありがとうございます。お引越しかなにかされるんですか?」と訊いてきた。これはマットレスの購入を希望するに至る背景について訊ねているのだと思い、詳細な事情を伝えたのだが。
「どうしました?」わたしは言った。「わたし、何か変なこと言っちゃいました?」
「……あ、い、いえ、とんでもございません」店員は言った。「ええ、充分にありえる話かと。はい。はい」
「それで予算なんですけど」
わたしがおおよその金額を伝えると、店員は展示された寝具コーナーの一角にわたしを連れ出した。
「そのご予算でダブルサイズのマットレスでしたら」店員は商品の一つを手のひらで指し示しながら言った。「こちらなんかがおすすめでございますが」
「じゃあそれにします」
「……ありがとうございます」店員は何かの書類とペンを取り出してこちらに手渡した。「当社のサービスで無料でご自宅まで商品を輸送しますので、こちらの書類にお名前とご住所の記入をお願いします」
わたしが必要事項を記入して書類を渡すと、その店員は眼球を血走らせながら、わたしが記載した部分を食い入るようにして凝視していた。
その時のわたしは、「こちらの記入内容にミスがないか確認してくれてるのかな。熱心な店員さんだな」くらいにしか思っていなかった。
◆◇◆
その翌日だった。
わたしが買い物から帰ると、家の前にパトカーが停まっていた。
同時に、わたしの家の敷地内を警官が出入りしているのが見えた。
わたしが「ここの家主ですけど、何かあったんですか?」と訊ねると、警官の一人がわたしを寝室まで案内した。
凄惨な有様だった。
あのマットレスは、鋭利な刃物で全体をずたずたに切り刻まれていた、内部のスプリングが何本も外部に露出していた。あの命の膨らみは、もうどこに見る陰もなかった。中心部は特に念入りに切り刻まれ、抉り取られていた。同時に、寝室内の壁や天井に、スプレーで大量の落書きがされていた。どれも冒涜的ないし呪詛的なニュアンスの言葉が使われていた。そこら中に細かいガラスの破片が散らばっていた。そこで初めて、わたしは寝室の窓が外側から叩き割られていることに気がついた。
警官の一人が事情を説明してくれた。今から2時間前(それはわたしが家を出てから30分ほど後だ)、付近をパトロールしていた警官が、この家から人が暴れたり喚いたりしているような物音を察知した。敷地内に入ってみると、一室の窓が割られて、その中で不審な男が狂乱したような様子で刃物と
スプレー缶を振り回しているのを発見し、その場で取り押さえられた。
身柄を拘束された男はその家の住人ではないことがわかり、不法侵入と器物損壊の現行犯で逮捕された。
男は容疑を認めているが、動機については黙秘権を行使。現在、弁護士を交えて話し中だという。
「この男なんですが」警官の一人がわたしに写真を見せた。「顔見知りですか?」
そこに写っていたのは、昨日話をした家具量販店の店員だった。
「動機について一切喋ろうとしないんですが」警官は言った。「なにか心当たりは?」
わたしは「この方は、何らかの宗教を信仰していますか?」と訊ねた。警官の一人が「確か祖父の代から熱心なカトリック教徒のようです」と教えてくれた。
「それが何かこの事件と関係あるのですか?」警官の一人が言った。
「そうですね」わたしは言った。「ちょっと込み入った話になるんですが」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます