62日目 『人を欺いて財物を交付させ、財産上不法の利益を得る』
ある日、わたしの家に電話が掛かってくる。
電話口の男は聞き覚えのない声で、わたしにこのようなことを告げてくる。
『お前の子供を預かっている』
わたしは応える。「わたしに子供はいませんが」
そして電話の男はこのようなことをわたしに告げる。
『お前の記憶もこちらで預かっている』
わたしは言う。ははあ、それはそれは。
男は言う。お前の子供と、お前の記憶、返してほしかったら、今から言う場所に指定した金額を現金でカバンに詰めて持ってこい。でなければ、お前の子供とお前の記憶は、永久に失われることになる。
そこで、ブツっと、何かが引き千切られるような音がして電話が切れる。
それからツー、ツー、ツー、という単調で無機質なリズム。
わたしは受話器を置いて居間に戻る。
飲みかけのコーヒーを飲み、解きかけのクロスワードパズルを再開する。
その内にだんだんと、このような考えがわたしの頭の中に生まれてくる。
――もしかして本当に、わたしには子供がいるのだろうか?
わたしは周囲を見回す。そう言われてみると、この家は一人で暮らすには幾らか広すぎる気がしてくる。食器も一人暮らしにしては保有数が多いような?
わたしは家の中を歩き回り、子供がいた痕跡を探す。それらしいものは、何も見当たらない。写真立てに飾られたフォトグラフに、子供が写っているものは一枚もない。しかし、とわたしは考える。わたしの性格的に、子供がいたとしても、写真を飾ったりはしないのでは?
わたしの中で、子供の存在がどんどん大きくなっていく。もし、もし本当にわたしに子供がいたとして、その子供が誘拐されているとしたら、その子供は今どうしているのだろう。快適に過ごしているのだろうか? それはないだろう。目隠しをされ、口には猿ぐつわをされ、両手両足を拘束され、その辺に転がされているのではないだろうか。
わたしはだんだんと、その子供がひどく気の毒になってくる。放置していてはいけないような気になってくる。わたしは電話の男が言っていた身代金の額を思い出す。安いとは言えないが、そこまで法外ではない。映画やドラマで見られるような、極端な大金ではない。わたし個人の預貯金からでも支払える範囲ではある。
◆◇◆
わたしは指定された金額を鞄に詰めて、指定された場所に向かうことになる。
指定された場所は、市内で2番目に大きい公園の一角。そこに設置された一台のベンチに、現金の入った鞄を置く。わたしは鞄を置いて、その場を離れる。電話の男の話では、向こうがその鞄を回収し、それと引き換えに、わたしの子供とわたしの記憶を、保管している場所を書いたメモ用紙を、その場に置いていくということだ。
わたしは少し離れた場所に待機して、そこからベンチの様子を伺う。
それからしばらくして、一人の男がベンチの前に現れる。
男はサングラスを掛けている。距離が遠いのもあって、人相はよくわからない。わたしは自分の記憶を探ってみる。知人ではないように思える。
男は周囲にちらちらと顔を向けながら、鞄を拾う。中身を確認すると、男はポケットから何かを取り出す。
わたしはじっと目を凝らす。取り出されたものは掌大の白い四角い紙のように見える。
そこで銃声。
男が肩を押さえて倒れ伏す。男の二の腕が出血で朱に染まる。
物陰から飛び出した警官が、倒れた男に伸し掛かる。そこから更にもうひとり、もうひとりと警官が飛び出してくる。男の手に手錠が掛けられる。連行されていく男。騒然となる昼下がりの公園。
わたしは警官たちがいなくなったあとで、ベンチの前に行く。そこには一枚のメモ用紙が落ちている。
わたしはそれを拾う。そのメモ用紙は男と警官がもみ合うのに巻き込まれてボロボロになり、土が付着し、そこに何が書かれているかを読み取ることは、もう出来そうにない。
◆◇◆
それからわたしは警察に呼び出される。
警察はこのようなことをわたしに告げる。あの男は、そのスジでは有名な麻薬の売人だった。あの時、あなたは男から麻薬を買おうとしていたのでは?
違います、とわたしは言う。あれは拐われた子供の身代金でして。
警官の一人がわたしに言う。
「あなた、子供がいるんですか?」
わたしは応える。
「問題はそこなんです」
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