59日目 『逃げ馬』


 昔、本当に昔のことだが、競馬場のすぐ近くに住んでいる時期があった。


 その地区で暮らしている間、結局一度も、わたしは競馬場に足を運ぶことがなかったのだが、一度だけ競走馬と会話をする機会があった。




                ◆◇◆



 その日、わたしが庭で草むしりをしていると一匹の競走馬がわたしの家の前を通りがかった。

 少し前まで全力疾走をしていたのだろうか。かなり息が上がっていて、疲労が色濃く見えた。


 ――匿ってくれないか?


 目が合うなり、競走馬はわたしにそう告げた。


 ――頼む。日が沈むまででいい。


 わたしは競走馬を家に上げ、居間に通した。


 何か飲みます? とわたしが聞くと、競走馬は一言こう言った。


 ――水を。


 わたしがバケツに水を注いで差し出すと、競走馬は凄まじい勢いでそれを飲み干した。

 それから一息つくと、競走馬は自分の馬名を名乗った。競馬に疎いわたしでも聞き覚えのある名だった。

 何かあったんですか? とわたしは言った。見たところ厩舎から脱走したように見えますが。


 競走馬は言った。


 ――別に何も。


 続けてこう言った。


 ――ただ、今の生活が嫌になってな。



 もう嫌になったんだよ、とその馬は言った。追われ続けて、逃げ続ける生活がな。あんた、競馬には詳しいか?


 わたしが首を横に振ると、馬は詳しい話を語り出した。


 ――つまりだな、レースに勝つにはまずスタート時に飛び出して、馬群の先頭に立つ必要がある。そうすれば一番いいルートを邪魔されずに最短距離で走れる。


 わたしは、最初は後ろに付けて後半に最後の直線で追い抜きに行くっていうパターンもあるんじゃないでしたっけ? と訊ねたが、馬は否定した。そういうのは見栄えがいいだけで、実際に追い越して一位になれることなんて滅多にないんだよ、と。


 馬は言った。ともかく俺はそういう走り方でずっと勝ち続けてきたんだ。でも、段々と嫌気が差してきてな。考えてみてくれよ。背後から追いかけてくる奴らから必死で逃げ続ける、そんな生活が楽しいと思うか? だからもう辞めにしたいんだ。それで今日、係員の隙を突いて、厩舎から出てきたんだよ。


 わたしは言った。ははあ、それはそれは。


 馬は言った。心配しなくても、ずっとここに居座ろうなんてつもりはない。最初に言ったが、日が沈んで夜になったら出ていく。俺の毛は黒いから、夜の闇には、上手く紛れられるはずだ。




                ◆◇◆



 その翌朝。


 馬が残していった抜け毛を掃除していると、テレビのニュース番組で、あの馬が厩舎から脱走した事件について報道していた。

 競馬の運営事務局は、追跡班を組織して、確実に逃亡した馬を捕まえてみせると意気込んでいた。


 わたしは、果たしてあの馬は望み通り逃げ切れるだろうかと思った。


 あの馬が望んだ、“逃げ続ける生活”から逃げ切ることが。






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