53日目 『終身雇用』
ある日、わたしの心臓が、わたしに話しかけてくる。
「すいません、ちょっといいですか?
お話したいことがあるんですけど」
その深刻な声色に、わたしの中を一つの予感が駆け抜ける。
悪い予感が。
「ああ、構わないよ」わたしは言う。「何かな? あらたまって」
「実は」心臓が言う。「この仕事、辞めたいんです」
やはりか、とわたしは思う。予感が的中したことを悟る。
わたしは可能な限り温和な声色を使って、心臓に話しかける。
「そうか。うん、なるほど。そうか」わたしは言う。「よければなんだけど、理由を聞かせてもらえるかな?」
「なんていうか」心臓が言う。「モチベーションが湧かなくなってしまって」
確かにね、とわたしは言う。確かに君の仕事は、単調ではあるからね。
そうなんですよ、と心臓が言う。毎日同じことの繰り返しで、俺この調子で一生を送るのかなって考えたら、なんていうか、その。
わたしは様々な言葉を使って、心臓に語りかける。そうだね。わかるよ。気持ちはわかる。ずっとこの仕事やってくのかって考えると、不安になるよね。わかるよ。わたしにも経験がある。わたしも昔は、単純労働みたいな仕事に就いてたことがあってね。
それでも心臓の様子に、変化は現れない。
「なんていうか」心臓が言う。「もっとクリエイティブなことやりたいんですよね」
クリエイティブ? わたしは言う。ははあ。なるほど。クリエイティブね。それって具体的には、どんな?
まあその、と心臓が言う。膵臓さんみたいな仕事とかですかね。ほら、あの人。インスリンとか作ってるじゃないですか。ああいうのって、なんかいいなって。
心臓は話し続ける。なんていうか俺の仕事って、何も生み出してないじゃないですか。ただ血液を動かしてるだけで。ただ物を動かしてるだけですよ。新しい価値ってものを、何にも作れてないじゃないですか。
どう答えたものかなと、わたしは思う。海運業や陸運業といった物流業界全般の話から、うまくまとめることは出来るだろうか? いや、それだとあまり効果はないかもしれない。問題になっているのはもっと根幹の部分で、自身の職務に対する意識の在り方、その辺りが焦点になる。
わたしは本棚の前に向かう。一冊の辞書を取り出して、ページを捲る。【心臓】の項目をわたしは探る。
「ああ、これだ」わたしは言う。「ちょっと見てくれるかな」
わたしは【心臓】の項目の、2番目の説明を指差す。
1番目ではなく、2番目の説明を。
そこにはこう書かれている。
“物事の中心。最も重要な部分”
「わかるかい?」わたしは言う。「これが君の仕事であり、役割なんだ」
わたしは続いて【腎臓】【膵臓】【肺】の項目を見せる。【心臓】の2番目の説明のような意味合いが、そこには存在していないことを伝える。どうだい? これで、いかに君の仕事が重要がわかるだろう? 君の役割は他とは違う、特別なものなんだ、とわたしは言う。言いながら、【肝】という語を辞書で引いてくれと言われないことを、わたしは祈る。
「……俺の仕事って、そんなに重要なものだったんですね」
心臓の声色が僅かに変化したことを、わたしは感じ取る。
「ああ、その通りだよ」わたしは言う。「君がいなければ、わたしという存在は成り立たないんだ」
わたしは更に言葉を並べ立てる。心臓の仕事の重要性、心臓が働き続けてくれることの重要性について、語彙の限りを尽くしてわたしは心臓に伝える。わたしは、自分がこれまでの人生の中で受けてきた称賛や、あげてきた実績につて語る。そしてこう告げる。これらは全部、君が毎日一生懸命、血液を循環させてくれたおかげで、成し得たことなんだ。これらの実績は全て君があげた実績、与えられた称賛は全て君に掛けられた称賛なんだ。そう思ってほしい。
心臓が言う。俺、もうちょっとこの仕事続けてみます。
わたしは言う。ありがとう。辛いことがあったら、いつでも言ってくれ。
そうして一連のやり取りは終了する。
わたしは大きく息を吸い、大きく息を吐く。
これでまだしばらくは、わたしの心臓は働いてくれるだろう。
それがあと何年続くかは、わからないが。
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