26日目 『生産的な時間、非生産的な時間』


 わたしの家から商店街に向かう途中の道に一本の交差点がある。


 その交差点は車の通りが殆どないのだが、それにも関わらず信号待ちの時間がありえないほど長く、近所では有名なスポットだった。

 皆が、あれは待ち時間の設定をミスしているに違いないと話していたが、いつまで経ってもその設定が変更されることはなかった。


 その日、わたしは買い物帰りにその信号に捕まった。

 わたしが横断歩道に足を踏み出そうとした瞬間に、青信号が点滅を始め、気づいたときには赤に変わっていた。


 わたしはその場でじっと、信号が変わるのを待ち続けた。


 急いでいるわけではなかった。

 ただ、夏の午後の日差しを浴びながら立ち続けるのは結構な負担だった。


 走ってくる自動車は一台もなかった。


 わたしは待ち続けた。


 どこかのタイミングで、背後から軽快に飛ばしてきた自転車がそのまま赤信号を無視して突っ切っていったのが見えたような気がしたが、暑さで朦朧としかけていたわたしの頭には鮮明な記憶は残らなかった。




 わたしは待ち続けた。




 そしてようやく、信号が青に変わった。


 わたしが額の汗を拭いながら一歩踏み出そうとしたその時だった。


 電柱の影から、ひとりの女性が姿を現したのは。


 見知らぬ女性だった。

 このあたりではあまり見かけないタイプの顔つきをしていた。

 古代ギリシャ人が着るキトンのような服装をしていて、頭には月桂樹の枝のようなものが飾り付けされていた。



「そこの歩行者よ」



 女性は突然私に話しかけてきた。



「はい」わたしは言った。「何でしょうか?」


「あなたがこの信号を待つ間に消費された時間」女性は言った。「それは生産的な時間ですか? それとも、非生産的な時間ですか?」



「そう言われると」わたしは言った。「非生産的な時間、ということになりますかね」



 わたしがそう言うと女性は微笑んだ。



「あなたは正直者ですね」女性は言った。「褒美に生産的な時間をあなたに与えましょう」



 女性はそう告げると、電柱の影に隠れるようにして消えていった。






                 ◆◇◆





 買い物から家に帰った時、時刻は午後3時ちょうどだった。


 そこからしばらくの間、わたしはいつも通り、ルーティーン的に家事を片付けていった。

 まず買ってきた食料品を冷蔵庫に整理した。

 その後はフローリングに雑巾を掛けた。

 それから干していた洗濯物を取り込んだ。

 それらを一枚一枚畳み、クローゼットとタンスにしまった。

 庭の手入れをし、洗面所とバスルームを磨いた。


 それらが終わり、いつも通りそろそろ夕飯の支度をしようかなと思い、わたしは壁に掛けられた時計を見た。



 時刻は午後3時ちょうどだった。






                 ◆◇◆





 そこからわたしは、しばらくの間その時計の文字盤を凝視し続けた。

 しばらくして、秒針が全く動いていないことに気がついた。

 最初はその時計が故障しているのだと思った。

 だが、寝室の目覚まし時計や、タンスにしまってあった腕時計、風呂場の湯沸かし器のモニターに付いた時刻表示などもすべて午後3時ちょうどで止まっていた。



 わたしは居間のテレビを点けた。

 いつもこの時間に放送されている生放送のワイドショー番組が画面に映った。右上には『15:00』の表示。

 画面はそのまま、写真のように動かなかった。



 わたしはしばらく居間のソファに座って状況が変化するのを待った。

 わたし個人の体感で5時間ほど待ってみたが、時計は動き出さず、テレビ画面は静止画を映し続け、窓の外では太陽が中天に輝き続けていた。


 わたしはこの状況の原因について検討してみたが、思い当たるものは一つしかなかなかった。



“あなたは正直者ですね。褒美に生産的な時間をあなたに与えましょう”



 あのとき、交差点で話した女性。

 恐らくあの女性が、わたしに――ということなのだろうか。


 わたしは突然あぶく銭のように降って湧いたこの時間を、どう使ったものか、ソファの上で横になりながら考えた。


 やはり、あの女性の言う通り、に使うべきなのだろうか。


 わたしはソファの上で幾つかのプランを検討した。

 そして立ち上がって物置に向かい、そこから古いクラシックギターを取り出して、居間に戻った。

 知人から譲り受けたギターだった。

 音楽活動を引退することになり、もう不要になったと、そう言われた。

 そこから話の流れで、わたしが譲り受けることになった。


 この機会に始めてみようかなと思い、教本も一冊購入したのだが、結局やらずじまいで放置されていた。



 わたしは本棚の隅から教本を引っ張り出してきて、最初の1ページ目を開いた。






                 ◆◇◆




「で」男は言った。「そこからどうなったんだ?」


「そこから練習を始めまして」わたしは言った。「教本に載ってる練習曲を全部弾けるようになるまで続けました」


「おいおいマジか」男は言った。「それ何時間かかるんだよ」


「どうなんでしょう。何しろ時間が測れない状況でしたし、わたしもやり始めたら没頭して時間が経つのを忘れてしまっていたので」

 わたしは言った。

「で、教本の最後に載っている一番難易度の高い曲をノーミスで引き終わった直後に、テレビから音声が流れまして」



「そこから時間が動き始めたってわけか?」

 男は言った。

「へーぇー、そりゃあ凄え話だぁな」



 男はそう言うと、中身がなみなみと注がれたワイングラスを大きくあおった。




 その男とは、初めて立ち寄ったレストランバーで知り合った。

 たまたま座った席が隣同士だった。そこは旬の魚料理と厳選されたワインが評判の店で、わたしの目的は前者だったが、男の目的は後者のようだった。

 わたしが席についたときにはもう、男はだいぶ出来上がっている様子だった。

 かなり早い段階からわたしに絡んできて、政治がどうとか社会がどうとか、よくわからない話を演説のようにまくし立ててきた。


 その中で、「この国の人間は生産性が低すぎる」といったフレーズが出てきて、そこで、ふとあのときの出来事を思い出した。


 わたしが話し出すと、男は思いのほか神妙な様子で聞き入った。



「それ本当の話なのか?」男は言った。「本当に? 信号待ちをしてたらそうなったっていうのか?」


「はい」


 男は少しのあいだ沈黙して、何かを考えてるような素振りを見せた。

 それからわたしの方に顔を近づけて、口を開き、こう言った。




「その交差点って、どこにあるんだ?」







                 ◆◇◆






 それから3日後か、4日後だったと思う。


 わたしがいつものように商店街に向かって歩いていくと、例の交差点の横断歩道の前で、直立不動で佇んでいる人影があった。


 わたしは隣に並んで横目で顔を覗き込んだ。

 あのときレストランバーで話した男だった。


「ああ、先日はどうも」


 わたしは会釈して男に挨拶した。

 返事はなかった。


 信号が青に変わり、わたしは歩き出した。

 横断歩道の真ん中辺りで後ろを振り返ると、その男は、まだその場に立ち尽くしたままだった。


 微動だにすらしなかった。

 表情もずっと同じで小揺るぎもせず、瞬きすら行われなかった。




 まるで、持っていた時間をどこかに落として失くしてしまったような、そんな様子だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る