80日目 『ミラーニューロン』


 わたしたちの身体は電気信号によって動いている。


 それは知っているね?


 例えば、わたしが「手を動かそう」という意思決定を脳内で行う。


 すると、そのほんの少し後、具体的には0コンマ数秒後にわたしの体内を電気信号が駆け抜け、実際に手が動く。


 ここまでは理解できるだろう。


 ただ、実はわたしが「手を動かそう」という意思決定を脳内で行うより先に、わたしの神経系にある電位変化が起こっている。


 その電位変化とは、「手を動かす」ための電気信号を送るための準備にあたるものだというのだ。


 これを準備電位というのだが……


 このような実験がある。


 被験者は実験室で、時計を目の前にして椅子に座る。


 この時計は盤面の周囲を光点が2.56秒で一周するようにできている。


 被験者は時計の盤面を見ながら、好きなときに手首を素早く曲げ、曲げようと思った時点における光点の位置を報告するように指示される。


 実験者はそれと同時に被験者の脳波および腕の筋電位を計測し、手首を曲げ

 る運動の準備電位と、実際の手首の運動がいつ開始したかを計測した。


 実験の結果は以下のようなものだ。


 準備電位は実際の手首の運動に約550ミリ秒先だって生じた。


 また被験者の報告によれば、被験者が手首を曲げようという意志を意識したのは、実際に手首を曲げる約150ミリ秒前だったという。


 わかるだろうか?


 準備電位は、意志が決定されるよりも先に発生している。


 これが事実だとしたら、わたしの意志が「手を動かそう」と考えるより先に、わたしの神経系は手を動かすための準備を行っているということなんだ。


 わかるだろうか?


 だとしたら……


 わたしの意志には何の決定権もない、ということになる。


 わたしが自分の行動を自分の意志で決めているというのはただの錯覚で、


 実際は、わたしの行動は、わたしの意志とは無関係なところで決定されている。


 にも関わらず、わたしはそれに気づかずに、自分の意志で全てを決めているという勘違いをしている。


 そういうことになる。


 まあ、勿論。


 そう簡単に納得したわけではない。


 君だってそうだろう?


 今のわたしの話を聞いて、そうか自分には自由意志などなかったんだと、


 あっさり納得したりはしていないはずだ。


 わたしもそうだ。


 実際、わたしの行動を決めているのがわたしの意志でないとしたら、


 じゃあ、誰が決めているのだ?


 そこがわからない。


 だから、この話を初めて聞いた以後も、そこまで自分の意志の実存を疑ったりはしていなかった。


 そう。


 あの時までは。


 気づいてしまったんだ。


 鏡のことに。


 あの時、わたしはたまたま鏡の前に立った。


 髪の毛が一部ハネていたので直そうと手を動かしたんだが、


 そのときに気がついた。


 わたしが手を動かすより先に、鏡の中の自分が手を動かしていた。


 わたしがその動作をするよりも常に一瞬早く、鏡の中の自分が動いている。


 そう。


 わたしは、鏡の中の自分が取った動作を一瞬遅れてなぞっていた。


 そしてそれを、自分の意志で決定した動作であると感じていた。


 そこでわたしは全てを悟った。


 


 わたしの動きは全て、鏡の向こうにいる本体が決めたもので、


 わたしはそれをなぞって動いているだけの存在だったのだと。


 次の瞬間、わたしは目の前の鏡を叩き割っていた。


 近くにあったドライヤーがその役に立った。


 幾つもの破片が散らばった。


 わたしはその破片の一つ一つを更に細かい破片へと砕いた。


 結構な時間だったと思う。


 気がついた時は、鏡は粉々になっていた。


 その粉々になった鏡を見ている内に、ふと、あることに気がついた。


 もし、わたしが鏡像で、鏡の向こうにいる自分をなぞっているだけの存在だっとして、


 では、何故わたしは鏡を割ることになったのか?


 鏡の向こうにいる自分が鏡を割ろうとしたのでそれをなぞったから?


 では何故、鏡の向こうにいる自分は鏡を割ろうとしたのか?


 それは恐らく、わたしと同じことを考えていたからだろう。


 自分は自由意志などない、鏡の向こうにいる自分をなぞっているだけの存在だと。


 もし、鏡の向こうにいる自分がそう考えて、それが正しいのだとしたら、


 わたしは鏡像ではなく、本体の方、ということになる。


 ……ああ、そうだ。


 そもそも、鏡の向こうなどというものはない。


 あれはただ光を反射しているだけだ。


 わたしは、別の部屋にある鏡台でもう一度自分の動きを確認してみた。


 鏡に映っている自分の動作は、わたしの実際の動作と全く同時に行われていた。


 要するに気のせいだったのだ。


 全ては。


 わかってもらえただろうか?


 そう。


 洗面台の鏡が粉々になっていて、ドライヤーが破損して可動不能になっていたのは、そういう顛末があったからなんだ。


 ああ。


 わかっている。


 ここは、君のマンションだ。


 ああ。


 もちろん、悪いとは思っている。


 何らかの形で埋め合わせはする。


 そういえば君、前に言っていただろう。


 グライダーをやってみたいって。


 今度の休み、一緒に行かないか?

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