18日目 『重要性について』
誰かが何かを言った。
その時のわたしが認識したのは、それだけだった。
発言したのは誰で、語られた内容がどういうものだったか、といった具体的な情報は何一つわたしの記憶に定着することなく、わたしの頭の中を一瞬で素通りしていった。
無理もないことではある。
その時、わたしの頭はもっと別の、重要性の高い事柄を処理するのに手一杯だったのだから。
◆◇◆
わたしはもう一度、自分の記憶内容を順序立てて想起してみた。
まず、かばんの中に必要なものが入っているかどうかを確認した。これは覚えている。
次に、エアコンの電源を切ったことと、ガスの元栓を閉めたこと。この二点も確認して記憶に定着されている。
水道の蛇口から水が流れぱなしになっていなかどうかも確認した。
問題はその次だ。
その次の場面としてわたしが記憶しているのは、玄関を出てすぐ、一匹のセミの死骸が道の真ん中に落ちているのを発見したという情景だった。
そう、どうしても思い出せないのは、本来ならば確実にその間にあるはずの場面。
自分が玄関の鍵を掛けた場面が記憶から完全に抜け落ちていた。
由々しき事態だった。
ここの記憶が抜け落ちているということは、とどのつまり、玄関に鍵を掛けたかどうかが未確定の領域に投げ込まれるということだ。
わたしは玄関の鍵を掛けただろうか?
わたしはその疑問に対する確実な答えが自分の頭の中に残っていないかを必死で探していた。
そのとき、また誰かが何かを言った。
先程と同様、具体的な情報はわたしの中には一切残らなかった。
“先程より少し声量が大きい”という感慨が一瞬だけ念頭に置かれたが、一瞬後にはその感慨も消え、取得不要な情報としてわたしの頭から消えていった。
わたしの頭は再び記憶の発掘作業に戻った。
このような事態は本当に久しぶりだった。
外出時の確認ルーティーンの中でも、玄関の施錠に関しては重要性を最大のレベルに位置づけている。
ここが不確かになったのは、一体いつ以来のことだろうか。
今日は出掛けに、かばんの中に通帳と印鑑が入っているかどうかを確認するという、普段なら存在しない工程が発生していた。
その、工程が一つ増えたという事象によって、ルーティーンの処理に狂いが生じたのかもしれない。
このあたりで、わたしは一度自宅に引き返して玄関の施錠の有無を確認するという選択肢をかなりのレベルで真剣に検討し始めていた。
しかし、そろそろ自分の順番が呼ばれそうな頃合いでもある。
ここで自宅に引き返して、戻ってから再度順番待ちを始めからおこなうとなると、窓口の営業時間が終わる可能性すらありえる。
わたしは悩んだ。
少し前に、近所の家に夜間に泥棒が入ったという話を聞いていたことも、事態の重要性を底上げしていた。
わたしは出掛けに自分が玄関先でどのような行動をおこない、どのような思考や感情がそのとき意識を走っていたかを必死で思い出そうとしていた。
例えば、靴を履いたときはどうだったか……
そのとき、またしてもわたしの近くで誰かが何かを言った。
これまでと同様に、大半の事柄は取得不要な情報としてノイズ的に処理され、わたしの認識上に残ったのは以下の3つの事柄だけだった。
・その誰かはわたしに向かって発言している
・その誰かはわたしに対して何らかの行動の要請をおこなっている
・その誰かの発言はわたしの順番が回ってきたという報せではない
それだけで充分だった。
わたしはその発言の主である誰かに対して、このようなことを告げた。
「今わたしは自分にとって極めて重要性の高い事柄に取り組むために自分の時間と意志力を消費している最中であり、それ以外の事柄に取り組んでいる余裕は持ち合わせていません。あなたがわたしにおこなっている要請は、あなたにとって極めて重要性の高い事柄なのでしょうか? もしそうだと言うのなら詳しい事情をお聞きしますが、もしそうでないと言うのなら、わたしに何らかの行動を要請するのは後回しにして頂けると助かります」
◆◇◆
それからしばらく後。
銀行から帰宅したわたしは、恐る恐る玄関のドアノブに手を掛けた。
ドアノブを捻り、引く。
ドアは開かなかった。
わたしは大きく息を吐き出した。
わたしの頭は、確認とそれに伴う記憶への定着は怠ったが、作業自体は滞りなく済ませてくれていたようだ。
わたしは郵便受けから夕刊を引き抜いて家に入った。
その後はいつも通り、ソファで淹れたてのコーヒーを飲みながら夕刊の紙面に一通り目を通した。
これといって、重要性の高そうな情報は見当たらず、それらの内容は読んだ端からわたしの記憶から零れるようにして消えていった。
唯一引っ掛かったのは、地域欄にあった強盗未遂事件の記事だ。
犯人は市内に住む大学生。以前から違法薬物に手を出していて、クスリを買う金欲しさに近所の銀行を襲った。
拳銃を振り回して従業員と居合わせた利用客を脅しつけた。
その中で、一人だけ脅しに屈しない利用客がいて、その人物の説得によって、犯人は強盗を中断し、警察に自首したという。
犯人によると、その人物の言葉によって「自分の人生で何が重要なのかを思い出した」らしく「自分にとって本当に重要なことから目を背けてクスリに逃げていたことを反省した。ちゃんと罪を償って、これからはもう一度自分の人生と真剣に向き合いたい」と語っていると記事には書かれていた。
その襲われた銀行というのが、わたしが昼過ぎに出向いたのと同じ場所だった。
わたしは、そのような事件が一体いつ起きていたのだろうかと思った。
わたしが銀行で用事を済ませたときには既に窓口が閉まる直前だった。そうなると、わたしが行く前にその事件が起きて、そして終息していたのだろうか。
疑問ではあったが、わたしの頭はこの疑問を重要性の低い事柄として分類した。
夕刊を読み終えた数分後には、そのような疑問を抱いていたことすらわたしの記憶には残っていなかった。
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