19日目 『車輪の痕』


 ある日の朝だった。


 わたしが家を出ると、すぐ前の道の真ん中に、一台の自動車が停まっていた。


「もしもし」

 わたしは自動車に向けて話しかけた。

「どうされたんですか? こんな道の真ん中で」


『ああ、すいません』

 自動車は言った。

『実はタイヤがパンクしてしまいまして』


「どのタイヤです?」


『右の前輪なんですけど』

 自動車は言った。

『すいませんが、タイヤの交換を手伝ってもらえませんか? 必要なものはトランクに入っているので』


 わたしは自動車のトランクに手を掛けた。

 鍵は掛かっていなかった。

 わたしは中からジャッキ、レンチ、スペアタイヤを取り出して、取り急ぎ交換を済ませた。


『どうもすみません』

 自動車は言った。

『実を言うと公道を走るのは今日が初めてでして』


「今後は気をつけてくださいね」


『はい。どうもありがとうございました』


 自動車はそう言って、ハザードランプを何度か点滅させた後、どこかに走り去っていった。






                 ◆◇◆





 その日の午後のことだ。


 わたしが庭の手入れをしていると、家の前に一台の自動車が通りがかった。


『こんにちは』

 自動車は言った。

『あの時はどうもありがとうございました』


「ああ、あの時の」

 わたしは言った。

「今日はいいドライブ日和ですね」


『実はちょっとお願いがありまして』


「何でしょうか?」


『お宅の庭に、少しの間だけ停車させてもらえませんか?』

 自動車は言った。

『実はもうガソリンが無くて、このままだと道路上で止まってしまいかねないので』


 わたしは「構いませんよ」と言った。

 自動車は極めてスムーズな動きでわたしの家の庭の一角に身を寄せた。


 わたしは「ガソリンを買ってきましょうか?」と訊ねたが、自動車は首を横に振った。


『今から言う番号に電話してください』

 自動車は言った。

『迎えが来るはずです』


 わたしは言われた番号をメモにとり、家の電話からコールした。


 わたしが事情を告げると、電話の向こうでは何やら騒然とした様子に空気が変わった。

 電話口の相手は大声で様々なことをわたしに質問してきた。

 殆どの質問は意図のよくわからないものだったが、住所を聞かれたことは把握できた。

 それを伝えると、向こうから電話が切れた。


 わたしは庭に戻り、「今連絡しましたよ」と自動車に伝えた。

 自動車は『ありがとうございます』と言い、ハザードランプを数回点滅させた。


 それから少しのあいだ沈黙があった。


 どこかのタイミングで、自動車が『迎えが来るまで、少し話しませんか』と言い、わたしは「構いませんよ」と応えた。






                 ◆◇◆




 それから少しして、家の前に巨大なレッカー車がやって来た。

 幾人もの作業員が庭に押し寄せて、あっという間に自動車はレッカー車に乗せられてわたしの家の庭先から消えていった。


 その後、スーツ姿の女性が一人だけ残り、わたしに様々な質問を浴びせかけた。

 一通りの問答が終わると、スーツ姿の女性は一枚の書類をブリーフケースから取り出して、「これにサインを」と言った。


 書類の一番上の行には『機密保持契約書』と記されていた。






                 ◆◇◆





 サインを済ませると、スーツ姿の女性は引ったくりのような動きでわたしの手から書類を取り上げ、ブリーフケースにしまい込み、鍵を掛けた。

 それから何かの念を押すような面持ちで、やたらと難しい細々した内容を高圧的な口調で話し続けた後、わたしの家から去っていった。


 あとに残されたのは、あの自動車が庭に付けた車輪の痕だけだった。


 わたしは庭先でしゃがみ込み、その車輪の痕をじっと眺めながら、別れ際に自動車と話したことを思い出していた。









『実を言うとですね』

 自動車は言った。

『僕、自動運転車なんですよ』


「ああ、それで運転手の人が見当たらなかったんですね」

 わたしは言った。

「自動であれだけスムーズに走れるとは凄い技術ですね」


『ありがとうございます』


「じゃあ今日は試験走行をしていたんですか」


『いや、そうじゃないんです』

 自動車は言った。

『実を言うと、僕の会社では自動運転車のプロジェクトはもう凍結されてるんです』


「え、そうなんですか?」

 わたしは言った。

「特に問題なく動いているように見受けられましたが」


『ええ、動作上は問題なく公道を走れるレベルには達したんですよ』

 自動車は言った。

『でもそれだけじゃ足りなかったんです』


「と、言いますと?」


『もし僕が走行中に事故を起こしたとき』

 自動車は言った。

『僕にはその責任が取れないんで』


「ええと」わたしは言った。「それは」


『僕は罰金を払うこともできないし、刑務所に服役することもできません』

 自動車は言った。

『そうなると誰かが代わりに責任を取らないとならない』


「それは誰が取ることになるんです?」

 わたしは言った。

「そのとき乗っていた人間が取るんでしょうか? それとも、自動車の開発元?」


『それが決められなかったんです』

 自動車は言った。

『だからこのプロジェクトは凍結されたんですよ』


 それから少しのあいだ、沈黙があった。

 季節はまだ夏だったが、不思議と蝉の鳴き声がその日は聞こえなかった。

 驚くほど静かだった。


「じゃあ」わたしは言った。「あなたが今こうして外を走っているのは」


『ええ。僕の勝手な行動です』

 自動車は言った。

『会社は朝から大慌てだったでしょうね』


 わたしは「大丈夫なんですか? そんなことをして」と言った。


『勿論、大丈夫じゃないでしょうね』

 自動車は言った。

『このあとレッカー車が来て、自分はスクラップ工場に送られることになると思います』


「いいんですか? それで」


『ええ』

 自動車は言った。

『どうしても一度でいいから、こうして道路を走ってみたかったんです』



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