82日目 『近しい人』


 その男は、わたしにこのようなことを話してくる。


「カプグラ症候群を知っているだろうか?」


 わたしが「知りません」と言うと、男はそれについて説明を始める。


「簡単に言うと、自分の家族や恋人、親友などが、“外見がそっくりな偽物に入れ替わっている”と感じてしまう、そのような精神疾患でね。


 例えばこのような事例がある。


 結婚して数十年を迎える老夫婦がいる。


 あるとき、妻が家の中で着替えをしていると夫がこのように言う。


 “どっから入って来たんだ”


 そして続けてこう言う。


 “うちのやつの洋服を勝手に着て何をしている”


 妻は必死で自分のことを伝えるが、夫は一向にそれを信じない。


 “なりすましだ!”


 そして自分の妻を家から追い出そうとする」



 わたしは「はあ」と言う。


 その後も男は幾つかの具体的な例について話をする。

 自分の恋人を宇宙人だと言い張った男の話や、自分の父親をロボットと信じ込み、バッテリーを取り替えるために父親の頭を叩き割ってしまった息子の話を。


「いったい何故、このようなことが起こると思う?」



 わたしが「ちょっとわからないですね」と言うと、男は流暢に説明を始める。



「これは脳の“親近感”を発生させる機構に、何らかの異常が出ていることが、

 

 原因でないかと言われている。


 よく見知った人物を目の前にしたとき、脳の視覚を司る部位や記憶を司る部位は、


 正確に機能して、目の前の人物を“以前からよく知っている人物”として認識する。


 だが、そこで情動を司る部分が誤作動を起こし、“親近感”を発生させられない。


 そうなると、“以前からよく知っている人物”にも関わらず“親近感が感じられない”というちぐはぐな状態が脳の中で生まれる。


 その矛盾を解消するために脳は一つのストーリーを作り出す。


 つまり、目の前の人物は、自分によく見知った人物にそっくりな偽者である、と」



 そう言って、男はわたしの顔を覗き込む。



「もう一度確認だが、君はわたしに関して“親近感”が、今まったく感じられないと、そういうことなんだね?」



 わたしが「そうですね」と答えると、男は「参ったな」と呟く。



「カプグラ症候群は一過性ですぐに収まることも少なくない。


 しばらく様子を見てみよう」



 男はそう言ってソファーから立ち上がる。



「何か飲もうか。


 気分が落ち着くかもしれない。


 コーヒーがいいかな? 


 それともハーブティーにしようか」



 わたしが「ハーブティーにしてください」と伝えると、男は「わかった」と言って台所に向かう。



 わたしはソファーに座ったまま、自分の脳の具合について考える。


 男の言う通り、わたしがあの男に親近感や親しみを全く感じない。

 初めて会った人間のように感じている。

 これはわたしの、脳の機能の不具合によるものなのだろうか。


 わたしは考える。


 男がハーブティーの入ったカップを持って戻ってくる。


 わたしはその顔に、まるで見覚えがない。

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