44日目 『冒険が終わった後』
もう結構昔のことになるのだが、一時期、ダンジョンに潜っていたことがある。
その頃住んでいた家には、小さな地下倉庫が付属していた。廊下の端にある下り階段を降りた先に、バスルームほどの広さの空間があった。「じゃがいもなんかを保存しておくには最高ですよ」内見のときに担当の不動産会社が言っていた。
そこに住み始めてから半年くらいした頃だったと思う。家中を掃除しているとき、この機会に地下倉庫も綺麗にしておこうと、わたしは清掃具を持って下り階段を降りていった。入居時から備え付けられていた棚を壁から剥がすように動かすと、棚で隠れていた部分に、扉があった。
その扉の先に、ダンジョンがあった。
◆◇◆
最初にその扉を開けたとき、わたしは、地下倉庫がもう一部屋あるのかと思った。
しかし、扉の向こうは、かなり長い通路がまっすぐ伸びているように感じられた。どこには明かりがなく、地下倉庫の天井に括り付けられた裸電球から漏れた光で、数メートル先までは朧気ながら視認できたが、そこから先は物言わぬ闇が広がっていた。わたしは近くの壁を拳で叩いてみた。硬い、石のような感触があった。叩いた音の反響は、遙か先まで響いていくのを、空気の震えから感じ取ることが出来た。
わたしは一旦上に戻って、懐中電灯を持ってきた。それを片手に、地下倉庫の扉をくぐって、謎めいた暗黒の中に足を踏み出していった。
◆◇◆
それからわたしは一時間ほど掛けて、闇の中を歩き回ってみた。
通路の幅は常に一定、道は無数に枝分かれしていた。時折通路上に扉があり、そこを開けると小さな部屋があった。わたしの家の地下倉庫とよく似た間取りの部屋が多かった。そしてどの部屋にも、ほぼ確実に置いてあるものがあった。
木箱だった。
かなり古くから置かれているものなのだろう。木の部分は腐食が進んでおり、金属の縁取りにも変色が見られた。どの箱も常に蓋が開いていて、中身は空だった。
もう一つ、時折見られるものとして、武具があった。
剣や盾。あるいは手甲や胸当てといった鎧具の一部。そういったものが、通路上や部屋内に落ちているのを何度か見かけた。
どれも激しい損傷があった。刀剣のたぐいはどれも叩き折られていた。縦や鎧などの防具も、傷だらけだった。砕けているものもあったし、焼け焦げているものもあった。どれも激しい戦闘をくぐり抜けた痕跡が感じられた。
その2種類以外には何もなかった。
生物については、気配も感じなかった。ネズミ一匹、あるいは虫一匹すらいないように思えた。
それから辿ってきた道をきっちり逆周りに歩いて、自宅の地下倉庫まで戻ると、わたしは一つの仮説を立てた。
この扉の先にあるのは、きっとダンジョンなのだ。
そこにはかつて、財宝と、それを守護する怪物がいた。そしてそこに冒険者達がやって来た。冒険者達は怪物と戦い、宝箱を漁った。中には戦いの中で武器防具を破壊された者もいた。そして月日が流れ、ダンジョン内は踏破された。すべての怪物は死滅し、全ての宝箱は開けられ、そして誰も寄り付くものがいなくなった。そのようになってから、幾星霜を経て、今このような状態になっている、と。
◆◇◆
その後、わたしは暇を見つけると、地下倉庫からダンジョンに足を踏み入れることが多くなった。
ダンジョン内の空気は、わたしの肌によく馴染んだ。ひたすらに静謐で、冷たいようでもあり、温かいようでもあった。ダンジョン内を歩くと、聞こえてくるのはわたしのコツコツという足音だけだった。その足音が通路内を反響し、無数に枝分かれして道を走り抜けて、最後には消えていく。歩き回っているだけで、不思議と気分が落ち着いた。
◆◇◆
そんなある日のことだった。
いつものように、ダンジョン内をあてもなく散策していたわたしは、ふと、空気中に違和感を感じ取った。
匂いだった。
ダンジョン内は、どこにいっても一様に、同じ匂いがした。だが、その一角に足を踏み入れたとき、何かそれとは別種の匂いが、空間に染み付いているように感じられた。
わたしは懐中電灯を手元で動かし、上下左右を隈なく確認しながら、一歩ずつゆっくりと、歩を進めていった。
そこで、今まで一度も見たことのない物体を発見した。
煙草の吸殻だ。
通路の一角に無造作に放り捨ててあった。わたしはその場にしゃがみ込んで吸い殻を仔細に検分した。まだ新しい。ごく近い時期に吸われたものだ。
その時だった。
「おい」
知らない男の声がした。
「誰かいるのか?」
◆◇◆
あらぬ期待を持たせてしまっても悪いので先に伝えておくと、そのときわたしに声を掛けてきた人物は、ごく普通の、同時代の一般的な男性だった。
あとから聞いた話によると、その男も自分と同じような境遇だった。中古の物件を住居として購入し、そこに地下倉庫が付属していた。で、その倉庫の壁に扉があり、その先がここに通じていた、と。
「いや、驚いたよ」男は言った。「まさかこんなところで人と会うとは思わなかった」
「全くですね」わたしは言った。「あなたも散策を?」
「いや、俺は単に煙草を吸える場所がほしかっただけさ」男は言った。「家の中だと、妻と娘がうるさくてね」
男はそう言うと、胸ポケットから煙草を一本取り出して、ライターで火をつけた。
かなり大柄な男だった。
服の上からでも、相当に鍛え込んでいるのがわかった。従軍経験者のようにも見えた。
だが、その顔、咥えた煙草の火に照らされたその顔には、闘志といったものは、まるで感じられなかった。闘争や挑戦といった概念から遠く離れて、長い年月を経過させたような、そういった面持ちをしていた。
娘が大学に行きたいって言っててね。
不意に男が言った。
それでまた小遣いが減らされそうなんだ。そうなると、もう煙草も買えなくなるかもな……
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