45日目 『もたもたしないで、さっさとやれ』
学生という身分を終えてから結構な年月が経つが、今でも夢で、学生であった頃の自分の姿を頻繁に目にする。
夢の中に登場する学生のわたしは、いつも何かに追われている。卒業の直前で取得単位が足りていないことに気づく、というシチュエーションが最も多く、それ以外では、試験が始まる直前に筆記用具が見当たらないことに気がついたり、あるいは寝坊して始業開始直前の時間に自宅で目覚めて愕然とする、といった状況設定も頻出する。
その日見た夢も、そういった場面が展開されていた。
学生のわたしは、通学路を全力疾走していた。遅刻するかどうかの瀬戸際だった。その日はどうしても、遅れられない理由があった。夢の中特有の現象として、その理由はなんら具体的な設定が定まっていなかったが、それでも学生のわたしの心中に緊迫した焦燥を生み出すには事足りた。
不思議なのは、わたしは学生時代に、このようなシチュエーションに遭遇したことは、実際には一度もないということだ。
単位は充分な量を取得して留年せずに卒業したし、試験に筆記用具を忘れたこともない。遅刻ギリギリで息を切らしながら走ったことも、一度もなかった。
にも関わらず、何故このような夢を頻繁に見るのだろうか。
「教えてやろうか?」
「え?」わたしは言った。「今なんと?」
「教えてやろうか、って言ったんだよ」
学生のわたしが、わたしに向かってそう言った。
「それはな、今のあんたが何かに追われてるからだ」学生のわたしが言った。「でもあんたは、それをほったらかしにしている。それが潜在意識に反映されてこういう夢となって顕れているんだ」
「何かに追われている?」わたしは言った。「わたしがですか?」
「そうだ」学生のわたしは言った。「思い当たるものがあるだろ」
わたしは「特にないですけど」と言ったが、学生のわたしは引き下がらなかった。もっとよく考えろ、あるだろう、緊急で、やらなければならないことが。
「そういえば納税の申告がそろそろ期限になりますね」わたしは言った。「でもまだ何日か余裕がありますし、緊急というわけでは」
「それだ!」
学生のわたしは叫ぶような声で言った。
「あんたがなあ、そうやって何でもかんでもギリギリまで手を付けないから、そのしわ寄せが全部こっちに来てるんだよ! あんたが平気な顔でヘラヘラしてるのはな、焦りとか緊張か不安とかそういうものを全部こっちに押し付けてるからなんだよ! おかげでどれだけこっちが苦労してるかわかってるのか!? いつもいつも! ギリギリの瀬戸際で! やばいやばいこのままじゃ大変なことになる――って気分で常に生きてかなきゃならないんだぞ! もういい加減その先延ばしの癖をやめろ! もたもたしないで、さっさとやれ!!」
◆◇◆
そこで、わたしは目を覚ました。
目を覚ました直後に、わたしの口から欠伸が漏れた。昨夜はかなり遅くまで寝付くことが出来なかった。累計の睡眠時間が殆ど取れていないことは、時計で時刻を確認するまでもなく、体感として判断できた。わたしはもう一眠りしようと思った。今日はこれといって、急ぎの用事もないのだし――
そして目を閉じて、最初に浮かんだのは、あの学生のわたしが訴えを叫んでいる姿だった。
◆◇◆
必要な書類を全てまとめあげ、馴染みの税理士に電話を入れると、驚愕したような声色が、受話器の向こうから聞こえてきた。
『どうしたんですか今年は』
税理士は言った。
『こんなに早く済ませるなんて』
「どうというわけではないんですが」
わたしは言った。
「わたしがいつも期限ギリギリまでやることを先延ばしにしていることで、別の誰かにいらぬ心配や、焦りや、不安の感情を与えてしまっていることに気づいたんです。そう考えると、申し訳ないなと思いまして」
その後、必要な話を三~四往復させてわたしは電話を切った。
話の最後、受話器から聞こえる税理士の声が、どこか涙声のように聞こえたが、電話を切った何秒後かには、そのような感慨はわたしの記憶に定着すること無く消えていった。
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