70日目 『眼の死に目』
道端に落ちている眼球が、わたしに話しかけてくる。
「そこの人」
わたしはその声を聞いて立ち止まる。
「はい、なんでしょうか」
眼球がわたしに言う。ちょっと僕の頼みを聞いてはくれませんか?
眼球は自分の身の上を、わたしに向かって話し始める。
なんでもその眼球は、以前はある人物の眼窩に納まって働いていた。
だが、その人物から捨てられてしまったのだと。
「お前はもう要らないと、そう言われたんです」
眼球は語る。あの人はこう言ったんです。お前よりもっと、良いものの見方ができる眼球を見つけた。だからお前は、もう要らないと。
眼球から涙が零れる。
わたしは眼球を拾い上げる。
わたしの掌が涙で濡れる。
「お気の毒に」
わたしは言う。それで頼みというのは、どういったことで?
眼球は言う。僕はおそらくもう長くない。眼窩から切り離された以上、きっとすぐに死ぬでしょう。ですが、せめて、死ぬ前に、最も美しいものを見て、それを焼き付けて死にたいのです。
ははあ、とわたしは言う。それで、最も美しいものというのは、具体的には、何でしょう?
モナ・リザ。
そう眼球は言う。
レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた、モナ・リザの絵が見たいのです。
◆◇◆
わたしは拾った眼球と、ルーブル美術館に向かう。
ナポレオンホールでわたしは言う。
「大人一枚、眼球一枚」
係員は言う。
「は?」
わたしはもう一度同じことを言う。
係員ももう一度同じことを言う。
噛み合わないやり取りが何往復か続く。
最終的に、わたしは一人分のチケットで、眼球と一緒に入館を許される。
入口からすぐに右、ドュノン翼のエレベーター。
2階に上がって目の前に、目当てのモナ・リザの展示室。
どうですか? とわたしは言う。
モナ・リザの前には大量の人だかり。
目当ての絵にはかなりの距離。
「ちょっとよく見えません」
わたしの手の中で眼球が言う。
「もうちょっと近づいてもらえませんか?」
わたしは人混みをかき分けて前進する。
すいません、どうか、道を開けてください。この眼球の死に目に、一目でいいのでモナ・リザを。
周りの人は寛大に、わたしに道を開けてくれる。
そしてようやく最前列、眼球を掲げてわたしは言う。
「ほら、これがあなたの言っていた、最も美しいものですよ」
眼球は何も応えない。
どうしました? とわたしは言う。
まさか今しがた、寿命が来てしまったのか?
わたしの心に不安がよぎる。
そこで聞こえる、眼球の声。
「ええ、ありがとうございます」
眼球は言う。もう充分です。帰りましょう。
その声からは明らかに、満たされなさが感じられる。
◆◇◆
ルーブルからの帰り道、手の中で眼球がわたしに言う。
正直言うと、と眼球は言う。思っていたような感動は、得られることがなかったと。
「モナ・リザが悪いんではないんです」
眼球は言う。
「僕があの絵の美しさを、見て取ることができなかった。きっとそういう、ことなのでしょう」
眼球は言う。あの絵の何が素晴らしいのか、それを理解する力が自分にはなかった。何という貧しい眼。これでは捨てられてしまっても、無理はないというものです。
いやいやそんな、とわたしは言う。それきっとあれですよ。あなたに限ったことじゃない。
こんなことなら、と眼球は言う。自分にとって何が美しいのかを、自分で判断しておくべきだった。そうしておけば最後に見るべきものも、きっと他にあったはずなのに。
わたしは言う。そこに気づけただけでも、大したものだと思います。あなたは貧しい眼などではない。あなたはきっと、慧眼ですよ。
眼球は何も応えない。
そこにはもう、何も映っていない。
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