16日目 『壁と壁との間には』
ある日のことだ。
そのときわたしは居間の床の雑巾がけをしていて、途中で雑巾を絞りに行こうと立ち上がった。
そこで、片足が床のある一箇所、洗剤が拭き取られずに残っていた箇所に掛かり、わたしは足を滑らせて大きくバランスを崩した。
転倒すると思ったが、すぐ近くにあった壁に手を付くことで難を逃れた。
それから床掃除を一通り終えて、ソファでくつろいでいるときに、ふと、あることに気がついた。
あの場所に、壁なんてあっただろうか?
◆◇◆
その壁は、居間の南側にあった。
扉や窓、電灯のスイッチ、コンセントの穴、そういったものが一切ついていない、まっさらな壁だった。
使われている壁紙は居間の東側・西側に設置された壁と同じものだ。
ざっと見たところ、何の違和感もなく空間全体に調和していた。
端から見た限りでは、最初からそこに存在していたとしか思えない。
わたしは首を傾げた。わたしの記憶では、居間の南側にはもっと広い空間があったような覚えがあるのだが。
わたしはしばらくこの謎について考えた。
そして、恐らくわたしの記憶違いだろうという結論に達した。
元々わたしは、忘れっぽい質だ。居間の南側には最初からあの壁があって、たまたまたそれを失念していただけなのだろう。
それからわたしは普段どおりの日課を送った。
違和感は何も生じなかった。
夜になり、夕食を済ませ、入浴と歯磨きを終えたわたしはそろそろ床に就こうと思い、ふと、そこであることに気がついた。
寝室へ行くための扉が、居間の南側にあったということに。
◆◇◆
それからわたしは家の間取り図面を取り出して確認してみたが、やはり、本来ならば居間の南側の壁には寝室へ繋がる扉がついていると記されている。
居間の広さも、図面上では現在の状況よりも幾らか広めに設計されている。
つまり、本来の南側の壁の手前に、新しい壁がもう一枚設置された、ということなのだろう。
何故そのようなことに?
わたしは首を傾げた。
少なくとも昨夜は、わたしは寝室で眠りについた。
そして今朝方、起床して扉をくぐり居間に出てきた。そこまでは間違いない。
その後、わたしは買い物などでしばらく家を留守にしていた。その間に、何者かが家に侵入して、居間に追加の壁を設営して立ち去ったということなのだろうか?
だとしたら、何の目的があってそのような行動を?
疑問は尽きなかった。
だが、もう夜も更けているので、詳しいことは明日にしようと思い、わたしは居間のソファに横になり、眠りについた。
翌朝、ソファの上で目を覚ましたわたしは、ふと、あることに気がついた。
ソファの寝心地が、想像より遥かに、具合が良いということに。
◆◇◆
それから2週間ほどが経過した。
居間に新たな壁が出来てから、わたしの生活に生じた悪影響は、実際のところ皆無だった。
ソファが寝具として充分に機能したし、居間の広さも多少手狭になったとはいえ実生活に問題が生じるレベルではなかった。
日々の掃除に掛かる時間が短縮され、生活に余裕が生まれさえした。
壁とわたしは、支障なく共存が可能だった。
そんな、ある日のことだ。
その日、わたしは庭の草むしりをしていて、その過程で、今はもう使われていない寝室の前を通った。
そのとき、ふと何かを感じた。
音だ。
極々小さな、微かな音が、寝室の中から聞こえた。
わたしは窓から寝室を覗き込んだ。
中の様子は、わたしが最後に使用して以来、何も変わっていないように見えた。強いて言うなら、床に少し埃が溜まっているのが見て取れたが、それ以外に変化は見られない。
わたしは寝室の窓に耳を押し当ててみた。
やはり、音が聞こえる。
寝室の中で、何かが動いている音が。
わたしはしばらくのあいだ考えを巡らせた。
そしてふと、あることに気がつき、その結論を認識した瞬間、わたしの背筋を悪寒が走り抜けた。
何故今まで気が付かなかったのだ。
――寝室のエアコンが、点けっぱなしになっている。
◆◇◆
わたしは物置から斧を持ち出して居間へと乗り込んだ。
外から窓を壊して寝室に入るというルートも検討したが、どうせ破壊するなら本来存在しないはずの壁を壊したほうがいいだろうとわたしは判断した。
わたしは居間の南側の壁に向かって思い切り斧を振りかぶり、
「待ってください!」
振り下ろす直前で、動きを止めた。
「すいません、話を聞いてください」
わたしは周囲を見回した。だが、居間にいるのはわたし一人だけだ。
わたしは改めて南側の壁と向き合った。
もしかして、喋っているのは、この壁なのではないだろうか。
「いえ、そちらではありません」
東側の壁が言った。
「今喋っているのは自分です」
わたしは東側の壁の壁に顔を向けた。「詳しく説明してもらえますか」
「はい、これは全部自分の責任なんです」
「と言いますと?」
「ええと、色々と込み入った話ではあるのですが」
東側の壁が言った。
「その、自分、実は結婚していまして」
「結婚?」
「ええ、そうです」
西側の壁が言った。
「わたしたち、夫婦なんです」
「えっ、あなた方が夫婦?」
東側の壁と西側の壁に交互に顔を向けながらわたしは言った。
「じゃあこの南側の壁は」
「そうです」
西側の壁が言った。
「わたしたちの息子です」
「もとは子供を作る予定はなかったんです」
東側の壁が言った。
「ただこの間、自分ちょっと酔っ払ってまして、その、勢いで……」
「ちょっとあなた!」
西側の壁が言った。
「そんな話はしなくていいでしょ!」
「ああ、すまんすまん」
東側の壁が言った
「ほら、お前もちゃんと家主さんに挨拶しなさい」
それから少し間をおいて、南側の壁がボソッとした声で「どうも」と言った。
「すいません、無愛想な子で」
西側の壁が言った。
「ひとりっ子なせいかちょっと甘やかしてしまって」
「事情はわかりましたが」
わたしは言った。
「ここに壁があると寝室に行けないんですよ」
「ええ、それなんですが」
東側の壁が言った。
「大変申し訳無いのですが、どうかあと一日だけ、待ってもらえないでしょうか」
「あと一日?」わたしは言った。「明日、何かあるんですか?」
「ええ、実はですね」
東側の壁が言った。
「息子はこの度、進学が決まりまして」
「進学?」
「はい、それで」
東側の壁が言った。
「明日からそこの寮に入ることになったんです」
◆◇◆
翌朝。
ソファの上で目を覚ましたわたしは、何度か瞬きをして視界をクリアにした後、周囲を見回した。
あの南側の壁は、なくなっていた。
わたしは、旧来の南側の壁に設置された扉を開け、寝室に入り、エアコンの電源をすぐさまオフにした。
わたしは久方ぶりに、寝室の窓から外の景色を見た。
外は雲ひとつない青空で、太陽の光が眩しいほどに降り注いでいる。
シーツを洗濯して干すにはうってつけの日だと、わたしは思った。
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