21日目 『紙の中の過去』
その日、わたしが居間を掃除していると、タンスと壁の隙間に、なにか四角い、小さな箱のようなものが落ちていることに気がついた。
拾い上げてみると、それは古びた使い捨てカメラだった。
一体いつのものなのだろうか?
わたしは全く思い出せなかったが、とりあえず写真を現像に出してみることにした。
仕上がった写真を確認してみると、そこに写っていたのは、ローマの観光名所の
風景だった。
パンテオン神殿、コロッセオ、トレビの泉、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会――印画紙の中に切り取られたそれらの風景を眺めているうちに、そういえば、だいぶ前にローマに旅行をしたことがあったということを思い出した。
もう随分昔のことになる。
記憶もだいぶ朧気だが、帰宅後にカメラを紛失して写真が現像できなかったというようなことがあったような気がしてきた。
わたしはしばらくのあいだ、現像された写真を一枚一枚時間を掛けて検分した。
そんな中で、一枚だけ、よくわからない写真があった。
そこに写っているのは、紙の切れ端だ。
紙には2列に渡って数字が書かれていて、上の列は10桁、下の列は8桁が記されている。
何かのメモのように見えた。
わたしは首を傾げた。
何かを記録するために撮ったという印象を受けるが、何故わざわざ写真に撮る必要があったのだろう。旅行中に必要なメモならその紙自体を持ち歩けばそれで済むだろうに。
わたしはそこに書かれているのが何の数字なのかをしばらく考えた。
特に8桁の方は、つい最近これと同じ数字の列をどこかで見たような記憶があった。
わたしは他の写真を並べて眺めながら、旅行当時の記憶を可能な限り思い出そうとした。
そしてしばらくして、ふと、そこに書かれている8桁の数字が今日の年月日であることに気がついた瞬間、あの時、あの男と話した際の記憶が鮮明に脳裏に蘇った。
◆◇◆
その男とは、旅行先で利用したカフェで知り合った。
たまたまカウンター席で隣同士になり、どちらからともなく会話が始まった。
不思議な印象の男だった。
体格や服装から伺うに、年齢はかなり若いようだった。男というより、少年と呼ぶほうが適切なのかもしれない。だがその雰囲気は妙に大人びたところがあり、どこか老成しているような印象さえあった。
その男とは初対面ながら自然と話が合った。会話は思いのほか盛り上がり、そんな中で、男が不意にこのようなことを言い出した。
「俺さあ、ときどき人の未来が見えたりするんだよね」
「ははあ」わたしは言った。「それはそれは」
「いやマジで。アンタの未来もちょっと見えるよ」
男は言った。
「アンタは旅行から帰ったあと、カメラの写真を現像するのを忘れる」
「いやいや」
わたしは言った。
「旅行から帰ったら写真の現像は真っ先にやりますよ」
「いや、あんたは忘れる。それで相当後になってからカメラを見つける」
男は言った。
「ああ、カメラを見つける日付もわかるぜ」
それから男は何年・何月・何日という日付を口にした。
「それ本当だったら驚きますけど」
わたしは言った。
「そんな先だったらこの話した事自体を忘れてそうですね」
「じゃあこうしよう。今言った日付を紙に書いて、写真に撮るんだ。そうすれば写真を現像した日に、ちょうどそれが見つかるってことになる」
わたしは「面白そうですね」と言い、近くにあった紙ナプキンの切れ端に、その日付をペンで記録した。
そこで、男がわたしの手からペンを取り、日付の数字の上に10桁の数列を書き込んだ。
「これ、俺ん家の番号」男は言った。「俺の言ったとおりにさ、その日に写真を現像することになったら、その時は一本電話してくれよ。色々と話しようぜ」
「別に構いませんが」わたしは言った。「これだけ先だとあなたの方が今日のことを忘れている可能性が高いのでは」
「いや、大丈夫だ」男は言った。「電話してくれ」
◆◇◆
わたしは改めてその写真に残された日付と、カレンダーに記された今日の日付を見て息を呑んだ。
男が言ったとおり、それはピタリと一致していた。
わたしは付属で書かれた電話番号にコールを入れた。
ほら、あのときカフェで会った。覚えているかな。君の言ったとおりになったよ。そのような言葉が、電話が繋がる前からわたしの口から零れそうになった。
そして、電話が繋がった。
『もしもし?』
電話口からは、年老いた女性の声が流れた。
『どちら様ですか?』
恐ろしく暗い雰囲気を感じさせる声色だった。
あの男の家族だろうかと、わたしは思った。
そこで、わたしはあの男の名前を覚えていないことに気づき、言葉に詰まった。
自分が電話をかけた理由を、なんと伝えればいいのか?
わたしがまごついていると、電話口の女性の方が先に口を開いた。
『もしかして、息子のお知り合いかしら?』
わたしは反射的に「はい」と言った。
電話口の女性は『あら、本当?』と言った。
突然、声色に明るさが灯ったように感じられた。
『もしかして、お友達?』と訊かれ、わたしが「はい」と言うと、『まあ!』という感嘆の声が発せられた。声量は一段階上昇していた。
『ああ、ごめんなさいね。あの子のお友達から電話が来るなんて初めてだからちょっとびっくりしちゃって』
その後、電話口の女性は『あらあら』とか『まあまあ』といったことを一人でしばらく呟き続けた。
わたしが「そろそろ息子さんに代わってもらえませんか」と言おうかと思ったところで、その女性はこう言った。
『お友達がいるんだったら、もうちょっとちゃんとしたお葬式をしてあげたほうが良かったかしらね』
◆◇◆
それからしばらく会話が続き、わたしは
電話口の女性は、わたしがあの時カフェで話した男の母親だった。
そして、その男は既に他界していた。
死因については、話題に上らなかったので確認できなかったが、どうやら亡くなってから、まだそう時間は経っていないようだった。
『あの子ねぇ、昔から全然友達を作ろうとしない子で、心配してたのよ』
電話口の女性の中で、わたしはいつの間にか息子の旧来の友人という認識に収まっていた。
わたしも、自らそれを否定すること無く、女性の話に乗り続けた。
わたしはほぼ相槌を打っているだけだったが、電話口の女性は堰を切ったように息子の話を喋り続けた。
ほら、うちって母ひとり子ひとりだったでしょ? そのせいなのかあの子って昔から妙に大人びてるっていうか、手のかからない子だったのよね。でもあまり人と関わろうとしなくって、何考えてるかよくわからないところもあって、ホントそういうとこは誰に似たんだかねえ。そういえばこんなこともあったのよ。ホラ、あの子が中学生のときにね――
『で、そのときあの子が……あらやだもうこんな時間?』
無限に続くかと思われた会話は、電話口の女性のその一言で、終了する方向に向かうこととなった。
『ごめんなさいねぇ、すっかり話し込んじゃって』
「いえいえ」わたしは言った。「自分も、その、あいつの話を久しぶりに誰かとできて楽しかったです」
その後は別れの挨拶を三往復か四往復させた後、どちらからともなく電話が切られた。
わたしは大きく息を吐きだした。
それからソファに座り直し、あの男に思いを馳せた。
あの男は、いったいどこまで把握していたのだろう。
全て把握していた、と考えるのが妥当なのだろうか。わたしが写真を現像する日には、自分は既に死んでいて、そのタイミングでわたしが電話を掛けたら、母親が応答して、話をすることになると。そこまで全てわかった上で、あの男はカフェでわたしの隣りに座ってきたのだろうか。
わたしは改めて、旅行先で撮った写真を一枚ずつ確認した。
どの写真も、ローマの由緒ある建造物を収めたものばかりだった。
あの男を写したものは一枚もなかった。
しくじったなと、わたしは思った。
あの時ローマを周った中で見た、最も荘厳で、最も偉大なもの。
どうやらそれを、わたしは撮り逃がしてしまったらしい。
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