07日目 『動き出す時』


 その日はひどい嵐だった。


 うっかり傘を持たずに出ていたわたしは、帰宅したときには全身がずぶ濡れになっていた。

 時刻は深夜0時を回った頃だった。

 体中に纏わりついた雨水はわたしの体温を容赦なく奪っていった。


 とにかく早く風呂に入りたかった。


 家に入ってすぐに湯を張ろうと思ったのだが、そこで、暗い室内の中に浮かんだ一点の光、電話機の放つ光がわたしの目を捉えた。


 留守電メッセージの受信ランプだ。


 誰からだろう? そう思った。

 わたしはタオルで頭についた雨水を拭き取りながら、留守録の再生ボタンを押した。

 雑多なノイズに混じって、男の声が流れた。


『……ウォッチャー、俺だ』


 頭を拭く手が止まった。


『まずいことになった。

 昨日辺りから、レジスタンスの連中が何人か、アジトの周辺をうろついてる。

 まだ正確な位置はバレちゃいないようだが、この分だと時間の問題かもしれない。

 極力こっちのメンバーだけで対処するつもりだが……

 最悪の場合、お前にも動いてもらうことになるかもしれない。

 今のうちに、ブレイン・サプレッションをローかオフの段階までシフトさせておいてくれ。

 また追って連絡する』


 メッセージはそこで終わった。


 わたしは頭を拭くのも忘れ、しばらくその場に立ち尽くしたまま、ここからの自分の行動プランをどのように組み立てるか検討していた。




 つまり、この間違まちがい電話についてどのように対応するのか、ということを。




                ◆◇◆




 体を拭いて、濡れた服を着替え終わった後、わたしは改めてもう一度、留守電のメッセージを再生した。


 言中に特殊用語ジャーゴンが多すぎて何が言いたいのかさっぱりわからなかった。

 ただ、電話の主が逼迫した状況にあるということは薄っすらと感じ取れた。

 留守録をキャッチしたのは今から2時間ほど前だ。

 早く折り返して間違い電話ですよと伝えるべきなのだろうが、履歴に残された番号は、不運にも『9』を含むものだった。


 この電話機はしばらく前から『9』のボタンが壊れて反応しなくなってしまっている。

 これでは折り返すことができない。

 最寄りの公衆電話は、確か徒歩で20分程の距離に設置されていたはずだ。

 この嵐の中を20分歩いて公衆電話まで行くことをわたしは想像した。


 嫌だな、と思った。


 わたしは悩んだ。

 しばらく悩んだ後、まぁとりあえず一度風呂に入ってからでいいかという結論に達した。

 わたしは電自動湯沸かし器をセットし、雨に振られたときだけ使うと決めているお気に入りの入浴剤を戸棚の奥から引っ張り出そうとしていた。


 そのときだった。


 電話が鳴った。

 わたしは反射的に受話器を取った。

 男の声が聞こえた。


『ウォッチャー、俺だ』


「ああ」

 わたしは言った。

「あのですね」


『聞いてくれ。アジトが奴らにバレた』


「え?」


『奴ら、とんでもない人数で攻めてきやがった。

 全力で応戦するが恐らくここはもう持たないだろう』


「いや」


『ウォッチャー、お前は今すぐ礼拝堂のマリアからデータを回収して本部に送付してくれ』


「あの」


『急いでくれ。奴らが俺たちの脳から情報を抜き出すより先にデータを回収できなきゃ全てが終わる』


「あのですね」


『頼んだぞウォッ……!? まずい! みんな伏せ――』


 直後、何かが破裂するような轟音が電話口から放たれた。

 それからよくわからないガチャガチャとかガサガサとかいうノイズが聞こえた。

 そこで電話は切れた。

 ツー、ツー、ツー、という無機質なリズムが耳に流れた。



 わたしはしばらくその場に立ち尽くした。



 電自動湯沸かし器が『オフロガ ヨウイ デキマシタ』と言った。



『オフロガ ヨウイ デキマシタ オフロガ ヨウイ デキマシタ』




                ◆◇◆



 レインコートを常備して置かなかったことをこれほど悔やんだことはなかった。


 家を出て数分で、傘は吹き飛ばされた。

 それから後は何も持たずに嵐の中を走った。

 雨水を吸い込んだ衣服は信じられないような重さと冷たさでわたしを蝕んだ。

 わたしは走り続けた。

 道中で六度転倒した。


 教会にたどり着いたときには全身が泥水まみれだった。


 わたしは腕時計を見た。

 家を出たから40分が経過していた。


 架かってきた電話番号には、この市内の局番が使われていた。

 この市内にある教会のうち、礼拝堂が併設されていて、そこにマリア像が置かれているのは、ここしかない。


 わたしは教会の柵をよじ登って敷地内に滑り込んだ。そこからまっすぐ礼拝堂へ走った。そのまま扉に体をぶつけ、堂内へと倒れ込んだ。


 中には誰もいなかった。


 聞こえるのは風の音と雨の音だけだった。

 空が雷光を発した。

 放たれた光はステンドグラスを貫いてマリア像を逆光で浮かび上がらせた。

 それから少しして、遠雷の響きが聞こえた。


 わたしは這いずるようにしてマリア像に向かった。

 それから周囲を探った。

 だが、どれだけ探しても、それらしいものは何も見つからなかった。


 わたしは段々と、自分が今何をしているのかがよくわからなくなってきた。

 自分が、なにか途方もなく、無意味なことに時間と労力を費やしているだけなのではないかと、そのような考えが頭によぎった。


 ただただ疲れていた。

 寒かった。

 泥水の肌触りが不快だった。


 わたしはもう自分の足で立っているのが嫌になってきて、マリア像にもたれかかった。

 その時だった。

 微かに、ほんの僅かにだが、そのときマリア像が一瞬ような感触があった。

 わたしはそのまま自分の体重と、残った筋力をマリア像に押し込んだ。

 像が大きく傾き、そして台座の下にそれを見つけた。


 封筒だった。


 わたしは足で封筒を滑らせてからマリア像をもとに戻した。

 封筒には送付先の住所が記載されていた。

 聞いたこともないような名前の土地だった。

 切手も大量に貼り付けられていた。

 触った感触から、中身は紙と、なにか薄くて四角くて硬いものが入っていることが伺えたが、それが何なのかはわたしにはよくわからなかった。


 わたしは封筒から泥を払い落とし、懐に入れた。

 そしてマリア像に一礼して、礼拝堂を後にした。


 わたしは再び走った。


 嵐の中を。


 そして走りながら考えた。


 ――これは定形郵便で大丈夫なのだろうか?




                ◆◇◆



 それからどうなったか?


 結論から言うと、どうにもなっていない。

 少なくとも、わたしの認識できる範囲では何も起こっていない。

 ニュースも今まで以上に細かくチェックするようにはしてみたが、あの一件がどこの誰に対してどのような影響を与えたのかは今でも推測すらできない。


 ひとつ言えるとしたら、これだけだ。


 わたしはあの一件が原因で風邪をひいた。

 封筒を送付した日の夜に、40℃を超える高熱を出した。

 三日三晩寝込んだ。咳と鼻水も延々止まらなかった。


 だが、気分はそこまで悪くならなかった。






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