20日目 『眼の芽吹き』


 あれは確か去年の冬だったと思う。


 馴染みの食料品店からの帰り道、街頭掲示板の前を通りがかった時、そこに貼られた一枚のポスターがわたしの眼を捉えた。


『エドガー・ドガ展 開催のお知らせ』


 見覚えのあるバレリーナの肖像を背景に、以下のような文言が記載されていた。


“市の美術館で、初のエドガー・ドガ展を開催。

『踊りの花形』『ダンス教室』『アブサン』『アイロンをかける2人の女』などの代表作に加え、これまであまり日の目を浴びる機会のなかった秘蔵の作品を多数展示。

 ドガの新たなる魅力を再発見する旅に皆さんをお連れします”




 わたしは開催初日に、美術館に足を運んだ。


 相当な混雑を予想していたが、会場についてみると、ほぼ無人と言っていい程に閑散としていた。

 開館直後にやって来たのが功を奏したのかなとわたしは思った。


 さて、何から見て回ろうかと考えながら足を踏み出した、そのときだった。

 入り口を入った直後の空間に展示されていた、それを眼にしたのは。


 最初の一枚に描かれていたのは、クローズアップされた人の手。

 そしてその手の上に乗せられた、一個の眼球だった。


 その隣に並べられたキャンバスには、一枚目で描かれていたのと同じ人物のものと思われる手が、眼球を土に埋める様子がクローズアップで描かれている。


 その隣には、土から芽が出る光景を描いたものが並び、そこから順々に、太い幹が形成され、枝が広がり、葉が生い茂る、そういった樹木の成長過程が何枚ものキャンバスを使って漸進的に描かれていく。


 そして終盤。


 果実が熟す段階まで達したらしき樹木は、その枝々に無数の眼球を実らせる。


 そしてその次の絵では、これまで描かれなかった人の姿が大量にキャンバス上に出現する。

 そこに描かれている人々は、皆一様に眼球を持たない。

 眼がある筈の場所には不気味な空洞が描かれている。


 その眼のない人々が、樹木に実った眼球を、寄ってたかって次々とむしり取っていく光景を描いた一枚で、連作は終わる。


 わたしは絵の傍らに掲示された作品解説の札に目を向けた。

 連作のタイトルは、『眼の芽吹き』。


 初めてこれを見たとき、わたしは「エドガー・ドガという画家は、このような作品も描くのか」と随分驚いたことを、今でも覚えている。

 眼球というモチーフを象徴的に用いて、作者の内的な心情を描こうとしたようなその手法は、どちらかと言えばオディロン・ルドンあたりの手触りに近い。

 とはいえ、この連作が伝えようとしてくるメッセージに込められたシニカルな眼差しや、何より終盤で描かれる眼球を持たない人々が樹から眼球をもぎ取っていく様には、特に腕の動きに見事な躍動感があり、まるでこうした光景を実際にどこかで見たことがあるのではと感じさせるほどのリアリティがある。

 このあたりはいかにもドガという画家らしい特徴が顕れていると、わたしは感じた。


 わたしはそれからしばらく会場内を歩き回った。

 次は『踊りの花形』のような、氏の代表作が見たいと思ったのだが、何故かそれらの著名な作品の展示がどこにも見当たらなかった。

 確かポスターには、そういった作品も揃っていると記されていた筈なのだが。


 わたしは近くにいた学芸員らしき人に訊ねてみた。

 すると、このような応えが返された。


「エドガー・ドガ展をやっているのは二階の会場です」









                 ◆◇◆







 その後、わたしは二階の会場に向かったが、そこには終わりの見えぬ大量の行列ができていて、その様子に辟易したわたしは、そのまま帰宅することになった。


 その後、わたしは様々な理由で美術館に足を向ける機会を逸し続け、そうこうしているうちに開催期間はいつの間にか終了していた。


 しかしあのとき見た、『眼の芽吹き』。

 あれの作者は何という名前だったか。

 確かその日の帰りがけに美術館の入り口で名前を確認したと思うのだが、それがどうしても思い出せない。


 わたしはしばらくのあいだ自身の記憶を探り続けた。

 その後、今はそれよりもこれをどうするかを考えるほうが先決かと思い直し、わたしは今さっき庭先で拾った、その一個の眼球に目を向けた。


 これは一体何の眼球なのだろうか。


 大きさからすると、人間の眼球のようにも思えるが、どうなのだろう。

 それなりに大型の動物なら、皆これくらいの大きさの眼球を有しているような気もする。


 やはり警察に連絡するべきなのだろうか。


 わたしは悩んだ。というのも、少し前にわたしは一度、何らかの事件の手がかりらしきものを見つけて警察に連絡を取ったことがある。そこで、恐ろしく煩雑な手続きに巻き込まれて結構な量の時間を失うことになったのだ。また同様のことが起きるのかと思うと、あまり気乗りしなかった。


 わたしはしばらく悩んだ。

 悩んだ末、最終的にその眼球は庭の片隅に埋められることになった。









                 ◆◇◆






 その次の日の朝。


 わたしが玄関先に出てみると、庭の片隅、昨日わたしが眼球を埋めたあたりから、鮮やかな黄緑色をした双葉の芽が地上に顔を出しているのを見つけた。


 まずいことになったかもしれないと、わたしは思った。


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