31日目 『蟋蟀の夢』


 眠れない日が続くと、記憶のつながりというものが失われることがある。

 ある時ふと、自分は何でこんな場所にいるのだろうか? とか、何でこんなことをしているのだろうか? と、前後の文脈が断たれたような状況に放り出されることがある。


 わたしはテーブルの上に置かれた七面鳥の丸焼きを前にして、まさしくそういった感覚を味わっていた。


 何故こんなものがここにあるのだろうか?


 わたしはこれまでの記憶を可能な限り思い出そうと試みた。昼過ぎころに、夕飯の買い物に行ったことは覚えている。そして帰宅後に、夕飯の用意をしたことも、朧気ながら記憶している。


 以上のことを踏まえると、恐らくこの七面鳥はわたしが購入してわたしが調理したものなのだろう。


 以前にも、似たようなことはあった。寝不足で意識が朦朧としている状態で買い物に行くと、いつも不必要なものを買ってしまう。


 わたしはテーブルの前に座り、どうやってこの七面鳥を片付けるか考えた。とてもではないが、独りで食べ切れる量ではない。


 そのとき、対面に座っていたキリギリスが、「これ、食べても?」と訊いてきたので、わたしは「ええ、どうぞ」と言って食器類一式を渡した。


 ナイフとフォークで七面鳥の丸焼きを器用に解体していくキリギリス。




 わたしは、このキリギリスがいつからこの部屋にいるのか記憶を辿ってみたが、何一つ思い出すことができなかった。







                 ◆◇◆






「いやー、ご馳走になりました」


 わたしが食後のコーヒーを淹れると、キリギリスは満足げな様子でカップを口に運んだ。

 キリギリスは異様な食欲を見せ、凄まじい勢いで七面鳥を腹の中に収めていった。わたしも幾らかは食べたが、8割ほどはキリギリスの取り分となった。


「実はもう何日も食事にありつけてなかったんですよ」キリギリスは言った。


「それはお気の毒に」わたしは言った。「確かに今は冬ですからね」


 窓の外を見ると、雪が降っていた。

 白く色づいた地面が月明かりを反射して微かに煌めいていた。


「いやね、普段はちゃんと夏の間に冬の分の備蓄とかしてるんですよ」キリギリスは言った。「ただ今年はちょっと、厄介事に巻き込まれまして」


「と言いますと?」


「まー、話すと長くはなるんですけど」キリギリスは言った。「ちょっと鬼退治に行ってましてね」






                 ◆◇◆





 キリギリスの話は、以下のような内容だった。


 夏のある日に、キリギリスは見知らぬ男から声を掛けられた。

 その男は見たこともない食べ物をキリギリスに差し出すと、「自分の仲間にならないか?」と言ってきた。

 男の背後には、犬と猿が一匹ずつ、配下のように侍っていた。

 仲間って何の? とキリギリスが訊ねると、男はこう言った。

 ――これから鬼退治に行く、と。


「それで参加したんですか?」わたしは言った。「鬼なんてどこにいるんです?」


「それがね、俺もそのとき初めて知ったんですけど」キリギリスは言った。「鬼ってのは地下に住んでたんですよ」



 キリギリスは話を続けた。

 そこから男に案内されて向かった先には、地面に掘られた巨大な縦穴があった。

「この中に鬼がいる」と男は言った。「ついてこい」

 地中へ続く通路は無数に枝分かれしていて、巨大なコロニーが形成されていることは否応なく理解できた。



「そこからが大変でしたよ」キリギリスは言った。「入ってすぐ兵隊鬼と戦闘になりましてね」


「兵隊鬼?」


「鬼には2種類いて、兵隊鬼とはたらおにってのがいるんですよ」キリギリスは言った。「働き鬼は外に出て食料やら何やらを取ってくる役割で、兵隊鬼は外敵と戦闘する役割らしくて」



 続く話によると、キリギリスら一行は兵隊鬼との戦闘に勝利した。犬と猿がなかなかの手練だったらしく、兵隊鬼相手でも遅れを取ることはなかった。そのまま一行は地下深くへと進軍を続けた。戦力的には勝っているものの、兵隊鬼たちは倒しても倒しても際限なく湧いてきて、制圧には相当の期間を要した。最終的には数ヶ月がかりで女王鬼じょおうおにの元へ辿り着き、討ち倒すことに成功した、と。



「女王鬼?」わたしは言った。「そんなのもいるんですか?」


「他の鬼を産み出している鬼でしてね」キリギリスは言った。「そいつを倒さない限り兵隊鬼が延々湧いてくるんですよ」


 その後、女王鬼を討伐した一行は鬼の巣に溜め込まれていた金品を根こそぎ攫って地上へと帰還した。

 回収した金品は、まず男が「自分が発案者だから」という理由で半分を自らの取り分とした。そして残りの半分を、犬、猿、キリギリスで山分けにしろ、と。


「ところがですね」キリギリスは言った。「犬と猿がそれに反論してきまして」


 犬と猿の言い分はこうだった。自分たちは戦闘において常に前線に立ち、多大な貢献をした一方で、キリギリスは殆ど何の役にも立っていなかった。にもかかわらず報酬が同じになるのは納得がいかないと。


「それで、どうしたんです?」


「まあオレも反論はしましたよ」キリギリスは言った。「でもオレが大して役に立ってなかったのは事実でしたからねえ」


 犬・猿の言い分に、最終的には発案者の男も味方についた。

 確かに、今回の一件でキリギリスが上げた功績は限りなく小さい。男はそう言った。

 それを踏まえた上で、キリギリスが受け取るのに妥当な報奨は、これくらいだろうと。



「それで、どれだけ受け取ることになったんですか?」


「それがねえ、聞いてくださいよ」キリギリスは言った。「自分が受け取ったのは、大量のだったんですよ」



 大量のマッチを渡され、男からこう言われた。今はちょうど、季節も冬になった。マッチには需要がある。街で売ればそれなりのカネになるだろう、と。



「売ったんですか?」


「ええ、やってみましたよ」キリギリスは言った。「街頭で“マッチはいかがですか? マッチはいかがですか?”ってね」


「売れました?」


「いやあ、それが一本も売れなくてね。おかげでこちとら食べるものもないし、寒いしでもう死にそうってくらいだったんですが」

 キリギリスは言った。

「ただ、そこからちょっと妙なことになりましてね」


「と言いますと?」


「街頭でマッチを売ってたんですが、夜になると寒さに耐えきれなくなってきましてね。暖を取るためにマッチを一本点けてみたんですよ」キリギリスは言った。「そしたら火の中に、暖かそうな部屋と食事が見えましてね」


 わたしは「はあ」と言った。


「最初は、いよいよ幻覚が見え始めたかと思ったんですよ。でも続けてもう一本擦ったらまた同じように、暖かそうな部屋と食事が見えたんです。それがとにかく鮮明でね。手を伸ばしたら触れるんじゃないかってくらいでして」


 キリギリスはそう言ってコーヒーカップに口をつけた。


「それでね、思い切って一たばのマッチをありったけ壁にこすりつけたんですよ」


「ははあ」わたしは言った。「それでどうなったんです?」



「それで」キリギリスは言った。「目の前にこの部屋と、食事と、





                 ◆◇◆




 これを読んでいるあなたにお訊ねしたい。


 あなたは、自分という存在が、誰かの見ている幻の一部、ということを確たる形で証明することができるだろうか。




 わたし?




 生憎とわたしには、そんなことはとてもできそうにない。

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