30日目 『ミラーマッチ』


 途中まではいつも通りの朝だった。


 いつも通り、セットされた目覚ましが鳴った時間に目を覚ました。

 鳴り響く目覚ましのベルを止め、そこからすぐに二度寝にした。

 次に起床したのは、一度目の覚醒からきっかり1時間後。

 いつも通りの時間配分だった。


 季節は冬だった。


 ベッドから抜け出すと、強烈な冷気が肌に食い込んできた。

 すぐに暖房をつけると、再びベッドに潜り込んだ。

 それから15分後、室内が暖まると、再びベッドから抜け出した。

 眠い目を擦りながら、顔を洗いに洗面台に向かった。


 ここまではいつも通りだった。


 異変に気づいたのは、この直後。


 洗面台の鏡の前に立ったときだ。


 鏡にわたしの姿が映っていなかった。


 わたしは目を水で洗い、それから8回ほど瞬きを繰り返してからもう一度、鏡を見た。


 やはりわたしの姿は映っていなかった。

 顔も、身体も。

 そして、代わりに別のものが映っていた。


 一言でいえば、それはプレートだった。

 玄関のドアに掛けるようなプレートで、そこにはこう書いてあった。




『ただ今、旅行に行っています』






                 ◆◇◆





 念のため、周囲を確認してみたが、そのようなプレートはどこにも存在していなかった。

 鏡の中だけに存在しているようだった。


 わたしは、自分がこのプレートになってしまったのではないかと疑ったが、視線を下げると、そこには胸から下の身体がいつも通り存在していることが視認できたし、顔や頭部も、手で触った限りでは特に変化はないようだった。


 わたしは他の鏡にどう映るかを確認した。

 クローゼットの脇に置いてある姿見、手鏡、窓ガラスや銀食器にまで自分を映り込ませてみたが、結果はすべて同じだった。

 わたしの姿は映らず、『ただ今、旅行に行っています』が表示されるのみだった。


 こうなると、推測される結論は一つしかなかった。



 



「参ったな」とわたしは呟いた。





                 ◆◇◆





 それから7日後の朝。


 わたしはいつも通りの時間に目を覚まし、その後はまた寝たりまた起きたり、ベッドから出たり戻ったりまた出たりといったいつもどおりのモーニングルーティーンをこなした後、洗面台に向かった。


 鏡の前に立つ。

 そこには映っていたのは『ただ今、旅行に行っています』のプレートだった。


「参ったな」とわたしは呟いた。


 鏡で自分の姿や顔貌を確認できなくなってから、これで一週間になる。

 生活が立ち行かなくなる、というレベルの問題ではないものの、細々とした部分では不便さが際立った。

 特に髪型をセットできないのが気になった。わたしは元々かなり癖の強い髪質をしていて、きっちり整えないと爆発したような混沌とした髪型になってしまう。手で触れてある程度までは確認できるものの、本当にこれで大丈夫なのか? という不安は拭いきれなかった。美容室に行こうかとも思ったが、鏡に映らない状態では、施術後に「こんな感じでどうですか?」と問われたところで答えようもない。


 どうしたものかな、とわたしは思った。


 旅行に行った事自体に、文句を言うつもりはない。誰だって、羽根を伸ばしたいときぐらいあるだろう。しかし、せめて帰宅する日程などもプレートに記しておいてくれれば……


 そのときだった。


 誰か、見知らぬ男が背後からわたし向かって近づいてくるのが鏡越しに見えた。


 わたしは後ろを振り返った。


 誰もいなかった。


 わたしは鏡の方に視線を戻した。この男も『ただ今、旅行に行っています』のプレートと同じだ。鏡の中だけにいる。


 鏡の中の男はわたしの目の前まで進んでくると、懐から手帳のようなものを取り出し、そこにペンで何かを書いた後、それをわたしの方に向けた。


『今、お時間ありますか?

 あなたの鏡像のことでお話があります

 筆談でなら会話ができます』


 わたしがそれを見終わったのを確認した後、男は再び手帳に何かを書いてこちらに向けた。



『お手数ですが、文字は鏡文字で書いて頂けると助かります』






                 ◆◇◆





 男の説明は、以下のようなものだった。


 男は鏡像の管理業務を行っている組織の人間で、あるとき、鏡像の一人と連絡が取れなくなった。

 確認に向かったところ、その鏡像は持ち場に『ただ今、旅行に行っています』のプレートを残してどこかに消えていた。

 組織に無断で行方をくらました鏡像を組織は追跡し、少し前に所在が判明した。


『じゃあもうすぐ戻ってくるんですか?』と、わたしはメモ用紙に左右反転文字で記入して鏡に向けた。


 鏡の中の男は首を横に振った。それからこのようなことを伝えてきた。


 あなたを担当していた鏡像は、追跡の結果、ピエモンテ地方のアルプス山麓までグライダーを乗りに行っていたことがわかった。

 だが組織の追手が辿り着いたときには、そのグライダーが山に衝突して墜落し、鏡像は行方不明になっていた。山は現在雪の関係で事故の現場には登れない。回収は春まで待つ必要がある、と。



『じゃあそれまでわたしは鏡に映らない状態のままということですか?』


 わたしが文を見せると、鏡の中の男は申し訳無さそうな顔をして、次のような文章を見せてきた。



『代わりの鏡像担当を支給用意いたします』







                 ◆◇◆





 その翌日の朝。


 わたしが洗面台の前に行き、鏡の正面に立つと、そこには人の形が映り込んでいた。

 わたしが右を向くと、鏡の中それは左を向いた。わたしが右手を上げると、鏡の中それは左手を同じ高さに上げた。


 これが、昨日の男が話していた『代わりの鏡像担当か』とわたしは思った。


 しかし、その鏡像の姿は、記憶の中にあるわたし自身の姿とは全く似ていなかった。

 まず、肌の色が違った。

 顔つきも違うし、体型も違う。

 頭部の形や髪型も、当然違っていた。


 わたしはメモ帳に『これだと、正直なところほとんど意味がないんですが』と左右反転した字体で書いて、鏡に向けた。


 鏡像は同じようにメモ帳に何かを書いてこちらに向けた。


 そこには、『これだと、正直なところほとんど意味がないんですが』という文が正しい字体で表示されていた。







                 ◆◇◆




 それから2日後か、3日後だったと思う。


 わたしが商店街を歩いていると、ウインドウに反射してわたしの鏡像がそこに映り込んだ。

 普段なら、それを見て髪が変な跳ねかたをしていないか確認したりするのだが、そこに映っている鏡像はわたしとは全く異なる姿をしていたので、そのような工程をこなすことは不可能だった。


 わたしは「参ったな」と呟いた。


 しかし、今のわたしの鏡像を担当しているこの姿を、わたしは以前、どこかで見たことがあるような気がしていた。

 誰だろう? わたしの過去の知り合いに、このような姿の人物がいただろうか?


 そのようなことを考えながら、商店街を抜けて駅へと向かっていったとき、ふと、ある表示がわたしの視界に入った。


 非常口の表示だった。

 見覚えのある、緑と白のカラーリング。

 だが、そこにあったのは、何かの出入り口らしき四角い空間だけが、ぽつんと描かれた、ただそれだけのマークだった。




 それを見たとき、わたしは、今自分の鏡像を担当している緑色の肌の人物をどこで見たのかを、ようやく思い出すことができた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る